初期の『絵画叢誌』は、二種発行されていた。このたびのマイクロ化作業中に判明した。たとえば、瀧謙編集・東洋絵画叢誌部発行のものと、渡邊諧編集・東洋絵画会事務所発行のものとがある。マイクロ化にあたっては、版型の小振りな214号までは東京都現代美術館所蔵本に依り、欠号を東京大学の所蔵本によって補い、版型を大きくした第215〜354号は東京芸術大学所蔵本を撮影した。その過程で、二種の『絵画叢誌』が確認された次第であった。
明治25年3月25日発行(第60号)の同誌に「懐古東海道五十三驛眞景」の広告が載る。明治初期に夭逝した洋画家・亀井竹二郎の油彩画を石版画におこした画集だが、これについて、美術史家の青木茂氏が「見本としてうしろに石版画が一枚はいった『絵画叢誌』を手に入れたことがあるけれども、この見本入りの『絵画叢誌』には、他所で出くわしたことがない」と云っておられた。単に切り取られただけのことなのか、それとも見本入りの特別な版があったのか、そんなこともマイクロ化の報を聞いて調べてみたくなった。明治オタクには、こういった些細な確認作業も楽しみのひとつとなるのだが、むろん『絵画叢誌』の存立意義は、なによりもその多様で豊富な情報にある。
このマイクロの推薦文を書くにあたって手持ちの数冊をひさしぶりにめくってみたら、硬軟とりそろえた内容まことにおもしろく、つい読みふけってしまった。たとえば日露戦争期の第208号は「軍事は軍事 美術は美術」というような論説を冒頭に掲げ、うしろの方には、テンプラ通の武内桂舟が「絵画よりも天麩羅共進会の催しもあれば、差詰金牌をとるは吾輩なり」などと、得意満面で語っている様子を伝えている。マイクロには、目次総目録も附されるという。これだけでも情報の宝庫と云うに値する
「美術ノ部内」へ ―「絵画」に向かう書画とメディア
日本で美術ジャーナリズムとよぶべきものが本格化するのは、明治20年代からである。その背景には、この頃からの相次ぐ美術団体の結成、展覧会の開催、鑑賞層の形成、美術学校の設置など、近代国家体制に呼応した美術界の再編と、新たな受容環境の成立があった。明治20年2月にいち早く創刊された『絵画叢誌』は、その代表的な雑誌で、以後、伝統美術系の雑誌としてロングランを誇ることになる。同誌は直接的には、明治17年結成の東洋絵画会が発行した『東洋絵画叢誌』の改訂新版として創刊された。東洋絵画会は、古美術保護とジャポニズムに向けた殖産興業としての伝統美術振興を図った竜池会の、弟分的な団体である。その竜池会が、同じ明治20年に改組・再出発したのが日本美術協会で、その機関誌がすでに復刻された『日本美術協会報告』だから、これら一連の団体と雑誌は、同じ理念を共有している。つまり、“考古利今”としての古美術研究と、当代伝統系美術の振興、その中での“百技の長”としての絵画の振興、である。「絵画叢誌発行要趣」の中の「美術は本邦の至宝なり、殊に絵画は其宝中の宝なり」「国利、国益」といった文言は、まさにこれを物語る。ただ、画論、画伝、逸事、逸聞、古今の画図の模刻、通信などからなる『絵画叢誌』は、機関誌として公的性格の強い『日本美術協会報告』に比べると、より好事的、ジャーナリスティックな性格が強い。当時の教養、趣味的な実態と、国家的指針とのギャップや関係を探ろうとするのであれば、両者の併読と比較も面白いかもしれない。