19世紀後半のジャポニスムで形成された欧米の日本美術コレクションを調査するとすぐに気づくことだが、西欧の日本美術への嗜好は、全体的な比重として見ると、じつは京都系の美術に大きな比重が置かれている。万博で高賞を数多く受賞した明治の美術も、東京系より京都系の美術だ。ところが近代日本の首都は東京に移り、美術行政の中心も東京にあったことから、近代日本美術における東京と京都の存在意義は、国内と西欧で奇妙なネジレ現象を起こしている。近代以降の京都の美術界は、国内的には、東京主導の美術行政に配慮しつつ、千年以上続く京都の歴史文化の自治性を、懸命に守ろうとしてきた。一方西欧に対しては、東京を通してというより、むしろ直接的に目を向けてきた感が強い。そうした傾向が、『京都美術協会雑誌』の内容にも表れているように見える。
京都美術協会と『京都美術協会雑誌』は、明らかに東京中心の日本美術協会と『日本美術協会報告』『絵画叢誌』などを意識したものだ。「日本」の名を背負った東京に対して、この京都の組織とメディアは、日本美術の淵源たる京都美術の振興が、日本美術全体の振興につながると、やや控え目に言う。しかし内容は、東京のメディアと同様に海外情報を数多く盛り込み、郷土の古美術名品の論説も、じつはこれが「日本美術史」なのだという自負に支えられている。『京都美術協会雑誌』は、京都の地元情報はもとより、一地域をこえた視野で日本と西欧をみすえた、もう一つの近代日本として見ると、とても面白い気がする。
京都の美術の新時代を記録
明治19年(1886)、フェノロサが京都祇園・中村楼で絵画に関する講演を行った。東京の新しい気運に対し、京都の停滞気味を指摘し、しかし美術史的価値の高い京都の美術の、新時代にふさわしい躍進を期待するという主旨を述べた。これに参加した幸野楳嶺や竹内栖鳳らは、大いに刺激を受け、京都青年絵画研究会を設立して、展覧会や勉強会を始めた。
京都における美術雑誌も、こうした近代化への熱い思いの中から生まれた。明治23年(1890)1月、「美術工芸家と美術奨励家の結合をはかる」目的で、京都美術協会が発足し、より本格的な展覧会(新古美術品展)の開催と雑誌の発行を事業の主要な柱と位置づけた。東京では、既に諸展覧会と併行して『絵画叢誌』等雑誌の先行がいくつか見られたからである。
こうして生まれたのが『京都美術雑誌』(明治23年創刊)であり、これを継承した『京都美術協会雑誌』(同25年)、『京都美術』(同38年)である。『京都美術雑誌』は二号で廃刊となったが、「協会の報告と美術工芸に係る記事、論説、図画を掲載する」という創刊時の方針は『京都美術協会雑誌』、『京都美術』にも踏襲された。三誌の刊行は大正8年12月に至る30年間に及んだのである。
この間、京都市立美術工芸学校の発足(明治27年)、帝国博物館の開館(30年)、パリ万博(33年)、文展の創設(40年)、絵画専門学校の開校(42年)、国画創作協会の結成(大正7年)など、斯界にとって大きな出来事が次々起こった。3誌のその時々に応じた記事、論説、史料、雑報、報告は単に京都における美術界の出来事というだけではなく、近代美術の史実として貴重な資料集をなしているのである。