The Trans-Pacific, 1919-1940
解題
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東京大学 武田晴人
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資料解題は、その資料に精通したものが書くというのが常道だが、本解題はそうではない。あらかじめ告白しておくと、この資料について雄松堂から照会を受けるまで、この「トランス・パシフィック」(THE TRANS-PACIFIC) という出版物があったことを知らなかった。だから、以下の解説は、これらの資料を新しく繙いて見出したものを私の関心に従って紹介するものである。極めて貴重な資料であり、それぞれの問題関心に従って読んでいけば、必ず新たな発見がある資料だということは間違いないと思う。 |
1.創刊の目的
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さて、「トランス・パシフィック」 は、1919年9月に第1巻1号が刊行されてから、1940年11月の第28巻45号まで28年余りにわたって発行を続けた、日本発の英文雑誌であった。途中、1923年5月に月刊から週刊に変わり、その直後の9月に関東大震災のために23年末まで休刊したことはあるが、このような長期間にわたって情報を発信し続けたことに、まずは驚かされる。
創刊号に掲載されている『創刊の辞』には、
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◎ |
聯太平洋[THE TRANS-PACIFIC の和文名称・・・引用者、以下同じ]は国際興信任務を有する財政経済月刊雑誌として創設せられたるもの也。 |
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◎ |
本誌は専ら実業上の顕著なる事実及び傾向に着眼するものにして、太平洋沿岸及近接諸国の財政、通商及工業に関する活動及発展を、明晰に助長的に且つ誠実に解説すべく努むべし。・・・(略)
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◎ |
生命[英文の創刊の辞では、life]の主なる目的は実業に非ず、実業の主なる目的は生命也。此の根本義を心に銘じつつ、本誌は実業を通じて太平洋国民の生命に影響すべき企図又は努力に付ては、何事をも断じて忽諸に附することなかるべし。 |
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◎ |
聯太平洋は興信任務の為に盡すべし。・・・(略)
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などと述べられている。つまり、本誌は経済活動を基礎とする人びとの生命・生活の発展を期して、太平洋を囲む国々の商工業の発展のために必要な情報を提供することを目的として創刊された。この創刊の目的に即して、さらに社説だけではなく、「公開論壇を提供」することも宣言されていた。
このような考え方は、創刊号に記載されている別の記事「国際貿易と世界の平和」では、20世紀が経済的競争の時代であり、現代の戦争の有力な原因が経済的な対立にあるという認識のもとに、「経済的調和」を図る方途として「先ず国際貿易をして正当なる軌道を辿り、順調な発達を遂げしむる」ことが急務であることを力説しているところにも現れている。つまり、第一次世界大戦が列国に与えた教訓は、「第一に、如何に無法なる邦国と雖も、苟しくも経済的思慮を有するものは、如何なる事情あるも、今後断じて斯の如き不経済不当なる手段に訴ふるの愚を再びせざること」「第二の教訓は、今代に於ける世界列国の経済的関係が意外に広く且つ深く交互錯綜して相離るべからざるに至ること」ということであった。この教訓に学んで国際間の経済的交流を促進、相互の発展を図ることが必要であるというのが本誌の刊行の基礎となっていた。
こうした認識に即して国際間の交流を深めるうえで、アジアの情報を提供することが肝要と考えられていた。その背景には、第一次大戦後に、東洋、とりわけ日本に関する関心が高まっており、日本で経済的な活動の可能性を熱望するビジネスマンにとって、日本などの地域における法的な問題点などに関する情報が十分ではなかったからである。
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2.刊行者 B・W・フライシャー
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本誌の刊行を主宰したのは、ベンジャミン・ウィルフリッド・フライシャー(Benjamin Wilfrid Fleisher) というアメリカ人であった。
The United States in Asia (David Shavit, 1990, Greenwood Publishing) に記載されているフライシャーの略歴によると、
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Fleisherは、1870年1月5日にフィラデルフィアに生まれた。ペンシルバニア大学卒業後、家業の繊維会社で働いていたが、1907年に株式市場の動揺でかなりの個人資産を失ったこともあって、一度実業から退いて世界漫遊に旅立ち、その途中立ち寄った横浜に足を止めることになった。日本に住み始めてまもなく、THE JAPAN ADVERTISER 紙に記者として働くようになり、翌1908年にこの新聞を買収した。彼は1913年に同紙の拠点を東京に移し、東アジアにおいて英語で書かれたもっとも影響力のある日刊新聞を築きあげた。
その一方で、フライシャーはアメリカのUPA、The New York World、The New York Times、The Philadelphia Public Ledger などの極東通信員も努めた。
このような経験を積んだのち、フライシャーは、「トランス・パシフィック」を1919年から月刊(後に週刊)で刊行し、1927年からは財政・産業・商業に関する年鑑も刊行した。
1940年に日米関係の悪化のなかで、フライシャーは日本での事業を売却することを強制され、帰国し、1946年4月29日ミネソタ州ロチェスターで没した。
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このように出版人となることが当初からの計画ではなかったようでもあるが、旅行中に偶然訪れた日本にそのままとどまって、30年以上にわたって英文の新聞・雑誌を刊行し、日本に滞在する外国人の情報源ともなり、外国有力紙の通信員として情報を提供し、さらに日本の国外で読まれることを目的とした「トランス・パシフィック」を刊行した言論出版人であった。
余談だが、彼は日本で初めてLinotype Machineを輸入して活用したと伝えられている。このLinotypeとは、欧文用の鋳植字機の一種で、活字の母型を1行分キーで打ち出し、自動的に語間をあけて行の長さを揃え、これに活字合金を流し込んで1行分の活字群を鋳造植字することのできるものであった。印刷技術史という視点で見ると、画期的な技術の日本への導入者でもあったことになろう。
終刊の事情は、上述の紹介にあるように日本政府の言論統制にあったと推定されるが、最終号となった1940年7月には、終刊を予感される記事はなく、この介入が突然のことであり、読者に事情を説明することもなく、長い歴史を閉じることになったのである。ただし、雑誌等の継続に関わる書誌情報によると、本誌は、1938年から刊行されていたJapan Times weeklyに統合され、Japan times weekly & trans-pacific : views and news of the new eastとして1942年まで刊行され、43年にNippon Times Weeklyと解題されたときに“trans-pacifi”cの文字が消えたことが確認できる。継承といっても弱い関係であり、40年で終刊とみてよいと思われる。
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3.支援者と広告主
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本誌「トランス・パシフィック」は、多くの支援者に支えられていた。その点を物語るのが、創刊号に寄せられた著名人の推薦文である。原敬、高橋是清、大隈重信などの日本の政財界の著名人だけでなく、アメリカ国務省のロバート・ライジング、アメリカ全国商業会議所会頭ハリー・エー・ホラー、アメリカ商務省内外通商局長ピー・エス・カトラー、中華民国大総統徐世晶などが推薦文を寄せている。
また、同じ号には日銀総裁井上準之助、逓信大臣野田卯太郎、高野岩三郎、アメリカ中国使節団のJulean Arnold、中華民国商務局アドバイザーJohn Earl Bakerなどの寄稿も見られる。
掲載されている広告主は、創刊号では100社を超える数にのぼり、1920年6月号では178社、22年1月号では71社などと多少の波があるが、多数の広告主からの広告料収入が刊行の財源となっていた可能性を示唆している。
主な広告主としては、三井物産、三菱商事、増田貿易、鈴木商店、高田商会、茂木商店、大倉商事、American Trading Company、Jardine Matheson & Co. Limitedなどの内外の貿易商社、三共株式会社、帝国製糖、旭硝子、三菱造船、川崎造船、古河合名、三井鉱山、住友合資などの日本の著名企業、GE、スタンダード・オイル、ユナイテッド・スティール、アメリカン・ロコモーティブなどのアメリカ企業が名前を連ねている。また、三井銀行、第一銀行、台湾銀行、朝鮮銀行、中華銀行、中国交通銀行、フィリピンナショナル銀行などが1920年6月号などには広告を掲載している。この間に、1920年恐慌の影響を受けたためか、日本企業関係の広告が大幅に減少し、中国をはじめとするアジアの広告主が増加していた。
このような推薦・寄稿・広告主から、言論人として培われたFleisherの個人的な人脈というよりは、むしろ日米両財界を中心に本誌が幅広い支持基盤を得ていたことが示されていよう。そして、高峰譲吉などの当時の日米民間外交に影響力を持った人びとの存在が、広告主としての三共などの企業名からかいま見えるということもできよう。
広告の形式は、1923年に週刊になってからも余り変化はなかったが、掲載社数は、24年7月5日号では24社と大きく減少している。掲載企業には、三井・三菱などの有力な財閥系企業、満鉄、東洋拓殖、朝鮮銀行、横浜正金銀行などの特殊会社などが日本企業では名前を連ねていた。対外的にも日本を代表する企業であるから、海外向けの本誌に広告を載せることの効果よりも、広告出稿による財政的な支援の色彩が濃厚であろう。
1932年初めから毎月最初の号だけは広告数が増やされるようになり、35年3月号からこの月の初号だけは表紙を変え、用紙の色を差別化して紙質も良くするなどの工夫が施された。さらに翌36年9月からこの初号だけはMonthly Export Numberと題されるようになったが、それに伴って紙質の一層の向上が図られるとともに、写真・広告の量が格段と増加することになった。
このような工夫は、昭和恐慌期の広告の減少や、おそらくは購読者数の減少などに伴って刊行の財政的な基盤を強化するために、広告による増収を図ろうとしたことに基づいていると推測される。紙質の向上は読者の満足度だけでなく、より鮮明な印刷紙面を提供することで広告情報の質の向上ももたらしていたからである。もう一つ特徴的なことは、創刊号当初の企業広告に代わって商品広告が目立つようになっていたことであり、それは、Monthly Export Numberと題されるようになったことと対応して、輸出振興に力を入れていた外貨事情の厳しい1930年代半ばの日本の事情を反映していた。
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4.記事内容と寄稿者
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初期の主要記事の地域別と分野別数
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| 巻数 |
1
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2
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3
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| 期間 |
1919年
9-12
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1920年
1-6
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1920年
7-12
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| Australia |
6 |
11 |
17 |
| China |
10 |
24 |
22 |
| Dutch East India |
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3 |
| India |
1 |
0 |
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| Indo-China |
2 |
0 |
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| Japan |
11 |
31 |
24 |
| Java |
1 |
1 |
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| Korea |
|
1 |
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| Manchuria |
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3 |
1 |
| Mongoria |
1 |
3 |
1 |
| New Zealand |
3 |
5 |
4 |
| Philippines |
6 |
14 |
13 |
| Siberia |
3 |
3 |
4 |
| 地域別 |
44 |
96 |
89 |
| Agriculyure |
0 |
8 |
8 |
| Communication |
3 |
0 |
10 |
| Cotton |
1 |
4 |
0 |
| Electricity |
1 |
3 |
6 |
| International Trade and Business |
9 |
13 |
13 |
| Iron |
2 |
1 |
1 |
| Labor |
3 |
14 |
10 |
| Railways |
4 |
4 |
17 |
| Rice |
1 |
3 |
|
| Rubber |
1 |
0 |
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| Shipping |
2 |
1 |
14 |
| Silk |
1 |
3 |
2 |
| Steel |
1 |
1 |
1 |
| Sugar |
1 |
7 |
2 |
| Tariff |
0 |
4 |
3 |
| Tea |
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1 |
2 |
| Transportation |
2 |
0 |
0 |
| Wheat |
0 |
4 |
2 |
| Wool |
1 |
4 |
5 |
| 事項別 |
33 |
75 |
96 |
広告内容が時代とともに変化した以上に、記事の内容や寄稿者も変遷があった。すでに紹介したように、創刊当時は多士済々の寄稿者が記事の主要な部分を構成していた。
第2号以降でも、南米諸国の駐日公使や、中島久萬吉、孫文、山本達雄などの名前も見られるが、月刊時代の寄稿者には中国人を含む外国人の寄稿者がかなり目立っている。彼らの日本及びアジアの経済発展に関する言説がどのようなものであったかを分析することは、当時の日本のおかれた国際環境を理解する上でも極めて重要であろう。これらの寄稿記事は、依頼によって集められたものが多かったと思われるが、それぞれ2-3頁にわたる比較的長文のものであり、記事の内容は充実しているといってよい。
こうした論説記事を中心にして本誌は構成されていたが、月刊時代の1923年前半まで、1号当たりのページ数は平均100頁ほどであり、80頁ほどの英文頁のほか、8頁の中文、16頁の日本文の3カ国語の記事となっている。創刊号を例にとると、総頁104頁のうち、50頁ほどがこれらの論説記事であり、それに続いて、「財政」「工業」「商業」にかかわる経済概説と統計が30頁余り続いている。そこでは、Market, Finance, Trade, Shipping, Railways, Industry, Mining, Other Economic Activitiesなどの項目立てで情報が提供されている。
週刊化したのちの各号頁数は、1号平均24頁の英文のみの記事構成に変わり、月単位の総頁数は変わらないが、これを機会に編集方針は大きく変更された。
週刊化の意図については、1923年5月12日号のThe Trans-Pacific Weeklyと題する記事に説明がある。それによると、必要とされる最新の情報を提供するためには、月刊より週刊が望ましいこと、東洋と西洋との相互理解を深めるために、経済関係の記事を中心としていた月刊の編集方針から、東洋の政治、社会運動などの一般的なニュースを提供するなどの視野を広げていくとされている。そのためにThe Japan Advertiser のもつ国際的なネットワークなどを活かしていくことなども強調されていた。
震災による休刊後も、この方針は維持された。復刊第1号となった1924年1月19日号では、上記のような同誌の使命を確認しつつ、それは震災の廃墟からわき上がる、将来にわたり揺るぎない確信であることを宣言している。
週刊化後の顕著な変化は、寄稿者の署名のある論説記事が大きく減少し、写真なども例外的な掲載となったかわりに、Events of the Week や Japanese Press Viewなどの欄が設けられるなど、アジアからの最新情報の発信により傾注したことであり、これらの点に先に述べた週刊化の意図が実現されていたと見られる。
こうしたなかで、記事の内容として注目できるのは、第一に、掲載された記事の対象となっている地域が、日本だけでなく、中華民国、内蒙古、フィリピン、インドシナ、オーストラリア、ニュージーランド、シベリアという、まさしく環太平洋という和文名称にふさわしい広い領域をカバーしていることである。表のように最初の1年半について、主要記事の地域別を数えてみると、日本と中国が拮抗して記事の中心であるが、それ以外にもオーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、モンゴル、シベリアなどの記事が並んでいる。このような広い地域について、経済関係を中心とした同時代の記録が得られるという意味でも、この雑誌は希有の存在であり、貴重な資料源であるということができる。
また、日本に限ってみても、造船業・電力業(以上Vol.1 No.1)、鉄鋼業・製糸業(同Vol.1 No.2)、綿工業(同Vol.1 No.3)、鉄道業・製糖業(同Vol.1 No.4)、製茶業(同Vol.2 No.1)、石油業(同Vol.2 No.2)などと、各号ごとに産業事情のかなり詳しい紹介が専門家によってなされている。この点は、同じ表の事項別の記事数にも表れている。これらの記事は、日本の産業がどのように国際的に紹介され認識されていたのかを知る有力な手かがりとなろう。また、産業事情の紹介は、他の地域についても行われているから、比較史的な視点でも意味のある情報源であり、そのような意味で、本誌の資料的な価値は極めて高いものということができる。
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5.写真
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掲載されている写真にも特徴がある。月刊期には掲載されている写真数も極めて多く、しかも、専属契約の写真家がいたようで、本誌で初めて見ることのできるものもかなりあるように思われる。
まず、その数であるが、創刊号では50点ほどの写真が掲載されたほか、以下の各号でも図のように少ない時でも30点余りと多数を数えている。この中で印象的な写真は、創刊号の長崎造船所、1巻2号の養蚕農家の庭先、2巻2号の越後地方の油田、同5号の工場寄宿舎などの生産の現場の写真が数多く見られることである。そこには、「フジヤマとゲイシャ」というような図式化された日本紹介とは異質の、日本の経済実態を正確に視覚的にも伝えようという意図が見出される。
このような写真は、アジアの他の地域の記事でも掲載されており、とくに経済的に後進地域とみられるモンゴル、フィリピン、太平洋諸島などの記事には、民俗学的にも貴重と思われるような写真も見出される。それらの民俗学的な写真の資料的な価値を判断する能力はないが、これらの写真が借り物ではなく、本誌と専属契約を結んだ写真家達のオリジナルな作品であることから見て、他では得られない情報が写されているのではないかと思う。
残念ながら、週刊化した後には、写真の掲載は例外的なものとなり、掲載されても通常の新聞に掲載されるような報道写真的なものが多くなり、この点での新しい発見は大きく制約されることになった。
さて、以上簡単に見てきたに過ぎないが、「トランス・パシフィック」誌の持つ資料的な価値は極めて高く、経済史・産業史・経営史研究にとって有力な情報源の一つとなりうるばかりでなく、民俗学的にも興味ある素材を提供するなど、幅広い分野で活用できる資料であると考えられる。これを素材に新しい研究が生まれることを期待したい。
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