日本アジア協会の設立と異文化研究の先駆者たち


日本アジア協会は1872年、明治5年に発足しました。最初の会合は同年の7月29日に開かれています。日本に関する研究の成果を交換できる場をつくろうと、当時の横浜で様々な背景の人物が集まりました。その中の数人について、名前と職業を申しあげましょう。多くの人物はアーネスト・サトウのような外交官、あるいは学者兼外交官でした。初期日英関係の構築に貢献した公使のワトソンがそうです。また2年目に協会の副会長を務めたハリー・パークスも、アジア協会で活発に活動していた外交官でした。英国領事館のジョン・ギボンズも挙げることができます。教師もいました。先に申しましたチェンバレンのほか、日本語・日本文化の研究に大きく貢献したサンソムも教師でした。ジャーナリストもいました。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の名前はみなさんよくご存じでしょう。ハーンがアメリカ人であるか、アイルランド人、英国人であるかは微妙な問題ですが、いずれにしてもアジア協会で活動していました。医師や医師を兼ねた宣教師もいました。日本語のローマ字表記法を考案したヘボンはみなさんもご存じだと思います。ヘボンはアメリカ人でしたが、協会のメンバーでした。後には、ジャーナリストでもあったルドヤード・キプリングが来日し、日本について様々な記事を書いています。最後に、日本に洋式建築術をもたらしたジョサイア・コンドルの名前を挙げたいと思います。今でも東京にはコンドルの設計になる建物がいくつも残っています。上野の旧岩崎邸は有名な例ですし、私が在籍しております清泉女子大学の本館も、旧島津邸でコンドルの設計です。もし清泉女子大学にいらっしゃる機会がありましたらぜひご見学ください。明治時代の古い洋館で、美しい庭もあります。

アジア協会の会員には日本人もいました。ここでは森有礼の名前を挙げておきましょう。森は設立2年目から協会で活動しており、幹部も務めました。明治の学校改革における森の貢献は、ここで改めて申しあげるまでもないでしょう。

このように、協会は多彩な背景の人物から成り立っていました。しかし、日英関係を記念するこの機会に思い出しておきたいことは、アジア協会を含む当時の外国人社会は、英国の強い影響下にあったということです。これは必ずしも悪い意味でではなく、人数とすぐれた人材において英国人が勝っていたという意味です。ヒュー・コータッツィ氏はその著書『日本のヴィクトリア人』(原題「Victorians in Japan」。明治初期の西洋人と日本人の交流にご興味があればぜひご一読いただきたい、素晴らしい本です)の中で、当時、横浜外国人地区で議会が設立された時に、国籍別の人口比によって議員の人数が割り当てられていたと書いています。それによりますと26人の議員のうち、半数近い11名が英国人、続いてアメリカ人が5名、フランスが4名、オランダが2名、プロイセン(現ドイツ)が2名、ポルトガルとスイスが各1名でした。これが外国人居住区の人口比を忠実に反映しているとするなら、当時英国人が人数と統率力において勝っていたということができます。


 
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1. 講演にあたって
2. 日本アジア協会設立 
3. 日本アジア協会発足当時の時代背景
4. 言語とコミュニケーションの障壁 
5. 言語能力の個人差
6. コミュニケーションの落とし穴