今回のチャーチル氏のお話に感想をこめながら、日英同盟ちょうど100周年ということで、日英の歴史の過去・現在・未来を、特に日本の生きる道を探るという観点から話したいと思います。
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私はオックスフォード大学に1977年から1981年と1985年から1987年の計6年間を過ごして参りました。そのオックスフォード大学から車で20分北へ行ったところに、ブレナム・パレスという宮殿があります。そこは1874年の11月30日にサー・ウィンストン・チャーチルが産声を上げたところです。幾何学式的庭園とはまた違った、日本で言うところの景観式庭園を思わせる美しい庭園があり、ナショナル・トラストとして現在一般に開かれています。その庭園の中央には湖と言わないまでも、大きな池があり、さすがに豚はおりませんでしたが、白鳥水鳥が平和そうに泳いでいる、実に景色のいい場所でした。
サー・ウィンストン・チャーチルが1874(明治7)年に生まれ、1965(昭和40)年に没するまでの90年の生涯は、イギリスが大英帝国として君臨し、日本がその後を追って、大日本帝国を造らんとし、そして戦後アメリカとの関係を重視しながら今日に至った劇的な時代でした。
英国は現在EUの一員ですが、ポンド紙幣を使っている数少ないEU国であります。ポンド紙幣にはエリザベス女王が印刷されているのを皆さんご承知かと思います。日本の紙幣に印刷されているのは誰かということになりますと、福沢諭吉であります。
さて、この福沢諭吉は大分県に生まれ、20才になる頃に大阪へ出て、緒方洪庵の適塾で蘭学を勉強した大秀才でした。1860年、ちょうど日本が英国と貿易を始めた一年後、横浜の状況を見に来た諭吉は、そこで自分が学んだ蘭語が全く通用しないことに気が付き愕然とします。
英語の必要性を感じた諭吉は、その年、勝海舟にわたりをつけ、海臨丸に乗ってアメリカ西部へと渡ります。そこで始めて「ウェブスター・ディクショナリー」というものを手にし、帰ってきてからもその辞書を使用し続けました。折しも、明治維新を迎える日本は、オランダを学ぶ国から、英語を中心に学ぶ国へと劇的に転換するのです。
福沢諭吉が辞書を手にして100年以上たった現在、チャーチル氏から紹介があったように、40万点に及ぶサー・ウィンストン・チャーチル氏の文書というものが、ゲールグループと雄松堂との協同によって、日本の学者、研究者、学生のみならず、世界のそれらの人々に提供されるようになりました。まさに、辞書から始まり、隔世の感があると言わねばなりません。
政治家であり、1953年ノーベル文学賞を獲得し、画家でもあった、20世紀の英国を代表する人物の私的な文書が、今日本でも自由に読めることになったということは、この100年の間の歴史を象徴的に顕わしています。
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| 1. 辞書より始まった100年の歴史 | 2. 日英同盟の変遷と世界大戦 | 3. 英国を見た日本人、日本を見た英国人 |
| 4. 歴史から学ぶ対等関係 | 5. アメリカとの意外な共通点 | 6. 第三段階の対等関係にむけて |