日英同盟締結100周年を迎えて


アメリカとの意外な共通点

さて、この日本に開国を促したのはアメリカでした。アメリカと他のヨーロッパを我々日本人は一括して論じてしまいますが、英国ないし西ヨーロッパから見ると必ずしも一つではありません。むしろヨーロッパ史にとって歴史が短いという点で、アメリカは日本とほぼ同じくらいです。コロンブスがアメリカに到達したのが1492年でしたが、その目的は日本で産すると言われていた黄金を探すことでした。しかし、たまたまアメリカで思いもかけない金脈を発見します。このように日本にあると思われていた金が、アメリカで発見されていたのと同時期、ちょうど日本は戦国時代にあたりますが、鉱山開発が進み、おそらく金銀の産出量がアメリカを抜いて世界一の生産高に達していたはずです。私は日本とアメリカがヨーロッパから見ると、ヨーロッパに対して金銀のある国として登場したという不思議な共通性を見出したのです。

1543年、最初のヨーロッパ人が日本の種子島に2梃の火縄銃をもたらし、これを千両という金で買っている記録があります。1603年、徳川家康が征夷大将軍になり、日本を統一、そして東部開発に乗り出した時期、メイフラワー号にのってアメリカの東部に到達した一団がいました。実はチャーチル氏のご先祖の一人もそれに含まれていたのです。(サー・ウィンストン・チャーチル著「A History of the English-Speaking Peoples」から、アメリカの関するものを、チャーチル氏が抜粋して最近まとめた「The Great Republic」に詳しく書いてあります。)そのメイフラワー号に乗り込んだチャーチル家の子孫が、ニューヨーク生まれのアメリカ人であるサー・ウィンストン・チャーチルの母親です。さらにその母方の血統を辿ってみるとイロコイ族というアメリカンインディアンの血が入っていたというおもしろい発見があります。まさにアメリカとチャーチルは大西洋をまたにかけ、歴史的に深い絆で結ばれていたのです。だからこそサー・ウィンストン・チャーチルのアメリカにおける信頼はゆるぎないものであり、「私は半分アメリカ人である」という意識があったのでしょう。

さてメイフラワー号によってアメリカ東部に拠点が築かれますと、人々は西部開拓へと乗り出していきます。その頃日本は1600年の関ヶ原の戦いの後、徳川家康が天下を平定し征夷大将軍となります。そして不毛の土地といわれていた関東平野を一気に開拓してそこに江戸幕府を開き、100年、200年かけて上方文化に匹敵ないし、それを抜く江戸文化を花開かせます。つまりアメリカが西部開拓をしていた頃、日本は東部開拓をしていたということになるのです。

1776年に独立したアメリカは、フィラデルフィアからワシントンへ首都を移動させます。1823年、ヨーロッパ諸国に対して相互不干渉を主張した「モンロー宣言」で、南北両大陸へのヨーロッパの干渉の拒絶、逆にアメリカからヨーロッパへの干渉しないという宣言を出します。これはいうなればアメリカ両大陸の鎖国宣言とも受け取れるのです。同じ頃日本は「無二念打払令」により、異国船が来ることを一切喜ばないという政策を打ち出していました。

日本は1890年代、日清戦争で清国をうち負かし、台湾、澎湖諸島、遼東半島(後に遼東半島は三国干渉によって返還させられる)を得ます。太平洋に侵攻のEmpireとして最初の触手を伸ばした頃、サー・ウィンストン・チャーチルも出兵したアメリカとスペインの米西戦争が1898年に起こります。ここでアメリカはスペインをうち破り、スペインの持っていた、グアム、フィリピン、プエルトリコを領有することになります。以上の事からアメリカ、日本はほぼ同時期に太平洋の勢力として20世紀の蓋をあけたのです。

そして第一次世界大戦の時、英国、アメリカ、日本は一緒にドイツに対して戦います。しかしその後、アメリカが提唱した国際連盟にアメリカが参加しなかったため、ドイツの太平洋の植民地は全て日本のものとなり、こうした太平洋情勢にアメリカは危機感を感じます。

1902年から1911年にかけて軍事同盟としての日英同盟の協力過程は、日本にとって、アジア、さらにインド洋、そして太平洋へとその勢力権を拡大した過程であったといえます。そして太平洋での日米の利害関係において、最終的に英国がどちら側につくのかということによって、歴史は変わっていたといえますが、20世紀前半期に入って、アメリカと英国が親密になります。


戻る  表紙へ  次のページへ
 
1. 辞書より始まった100年の歴史  2. 日英同盟の変遷と世界大戦  3. 英国を見た日本人、日本を見た英国人 
4. 歴史から学ぶ対等関係  5. アメリカとの意外な共通点  6. 第三段階の対等関係にむけて