NETPINUS 55


王子のみやげ ―アーネスト・サトウにまつわるエピソード―
九州工業大学 工学部人間科学講座助教授 イアン・C・ラックストン 


 アーネスト・サトウ(Ernest Satow, 1843〜1929)という人物は、彼の著書「一外交官の見た明治維新」や萩原延寿氏の「遠い崖:アーネスト・サトウ日記抄」によって、既に日本人によく知られているイギリスの外交官である。1862年に弱冠19歳の通訳見習いとして憧れの日本に赴任、1868年からは書記官となり1882年まで滞在した。その後、シャム、ウルグアイ、モロッコと勤務し、1895年に英国公使として再来日をはたし、1900年まで滞在した。彼は25年に及ぶ日本滞在中、激動の日本を見聞し、又日本学(Japanology)への造詣を深めた。

 1897年8月11日、一時帰国したサトウは、イギリス南部ワイト島のオズボーン・ハウスで行われたヴィクトリア女王即位60周年記念式典において、女王に拝謁を許された。彼はシャムの女性の話などで女王様をずいぶんと楽しませた。女王陛下は日本の親王(有栖川宮)について、「よい方だが、見かけが立派でない」とおっしゃったと書き残している。その折、ヨーク公(ヴィクトリア女王の孫、のちジョージ五世、現エリザベス女王の祖父)がおもむろに上衣を脱ぐと腕を差し出し、1881年英国海軍軍人として兄クラレンス公(1892年死亡)と供に軍艦バカンティ号で来日した時の、日本みやげを披露した。

 横浜に「アーサー・アンド・ボンド」という日本の美術品を売る店があった。ガイドブックにも広告が掲載されており、外国人旅行者の間では結構有名であった。その店には「The Fine Art Gallery」という日本の美術品を展示したギャラリーがあり、そこでは「彫千代」という彫物師が雇われていて、外国人に日本の伝統的な入れ墨を施していた。不慮の場合の身分証明として入れ墨をする船乗りの慣習は、特に英国海軍においては一般的な事であった。東京か横浜で密かになされた王子様の腕の入れ墨は、身分に相応しく、なんとも大きな赤と青の龍であった!

 当時の日本では、入れ墨禁止令が出されていた。B.H.チェンバレンによると、外国人が入れ墨を見たら、日本人=野蛮人の印象を与える恐れがあるという理由からであった。ところが実際には、外国人専用の店では彫物師が雇われており、しかも英国王室の若い王子までもが入れ墨を入れるために来日していたという事は皮肉な話である。ある話によると、1862年にエルサレムで入れ墨をした事があるヨーク公の父君(後エドワード七世)が、二人の王子たちにも有名な「彫千代」の入れ墨をさせようと、ウイリアム・ドルトンという家庭教師に指示したとも言われている。

 サトウの日記には淡々と「He took off his coat and showed us his tattooings」と書かれているだけで、日本の芸術を深く理解していた彼が、王子のみやげをどう感じたかは定かでない。



Ian C. Ruxton(イアン・C・ラックストン)
所  属:
九州工業大学 工学部人間科学講座助教授
出  身:
ケンブリッジ大学大学院(法律学)
研究分野:
明治の日英関係
著  作:
「The Diaries and Letters of Sir Ernest Mason Satow (1843-1929), A Scholar-Diplomat in East Asia」
→邦訳「アーネスト・サトウの生涯 −その日記と手紙より−」(新刊)
翻刻版「アーネスト・サトウ日本日記:駐日公使時代 1895‐1900」(アーネスト・サトウ著作集別巻)

アーネスト・サトウに関する講演録
林 望講演「アーネスト・サトウとケンブリッジ大学アストン文庫
エリック・ベレント講演「日本アジア協会の設立と異文化研究の先駆者たち

[NetPinus55のトップへ]