グーテンベルク42行聖書とは
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グーテンベルク42行聖書は1455年頃180部から200部ほど刷られたと言われています。現在48部遺っていますが、当時制作された古書としては生存率がかなりいい方ではないでしょうか。非常に分厚い本であり、聖書ということで長い間修道院で大切にされていたことが、比較的多く遺っている主な理由だと考えられます。しかし、遺っている物も非常に貴重であることには変わりなく 、なかなか研究者が手にとって見ることは困難です。この様なわけで、大英図書館は所有のグーテンベルク聖書上下2冊(約2600ページ)をデジタル化し、現在大英図書館のウェブサイトで誰でも見られるようにしました。掲載してから6ヶ月で100万件ヒットという数が示しているように、それだけ現代において重要かつ貴重な情報といえるのでしょう。
このようなグーテンベルク聖書は現在、世界の30数カ所、先程述べたように48セット存在し、そのうちの一冊が慶應にあります。1996年に購入した慶應の持っているグーテンベルク聖書は当時8億円という価格で取引されました。昨年、クリスティーズで再評価され、21億円という価格がつけられ、1日金庫から出して展示するとなると保険料だけで100万円を上回る稀覯書です。つい最近、ちょっとした遊び心で、現存するグーテンベルク聖書がドイツのマインツで作られてからその後どこへ各々所蔵先を転々としたのか「マイレージ」で計算してみたところ、慶應の所蔵する本が一番移動距離があることがわかりました。マインツからアイルランド、そしてイングランド、更にアメリカに渡り、カリフォルニアの女性が所蔵していたものを、ニューヨークのクリスティーズが買い取り、それを日本の丸善が落札して、慶應が所蔵することになったという長い軌跡をもちます。
これからお話するペルプリン本はマイレージの長さでいうとこの慶應本に次ぎます。他にも色々な場所を転々としたグーテンベルク聖書もあるのですが、このペルプリン本が他と違うのは、やむを得ず危険を逃れるため疎開せざるを得なく、最終的にもとの場所に戻るまでに20年という歳月を経なくてはならなかったことを覚えて話を聞いていただきたいと存じます。
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ナチスの手を逃れ、カナダへ渡る
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1455年頃ドイツ、マインツのヨハン・グーテンベルクは印刷術の発明に成功し42行聖書を印刷しました。200冊程刷られたうち、このペルプリン本はドイツの北にあるリューベックのブックバインダー、ハインリッヒ・コスターの手により空押し装丁が施されます。(このペルプリン本は稀少なことに、この時の装丁がそのまま残っており、空押しされたコスターの名前が現在でもはっきり読みとれます。)その後、長い間修道院に保管されたのち、1833年ポーランドのペルプリン神学校図書館に所蔵されたという記録が残っています。どのような経過でポーランドに渡ったのか不明ですが、ちょうどこの頃プロシアで修道院の財産を禁止する法律の制定があり、ドイツでは修道院にあったグーテンベルク聖書が次々に国立の図書館に収蔵され、重複するものはオークションにかけられ海外へと流出したような経路が考えられます。
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1939年、ドイツのナチスの台頭でヨーロッパはかつてない緊張感につつまれ、ナチスのポーランド侵入の危険性が高まってきました。ナチスに略奪される前にポーランドの財宝を守ろうと、ポーランドの重要な財宝を保管していたクラクフのヴァヴェル城の博物館から貴重なものを、海外の安全なところへと運び出すことが計画されます。この移送の指揮をとったのはスタニスラフ・スウィルツ=ザレスキー館長とヨーゼフ・ポルコフスキー管理人です。そして約80名の関係者および家族が、財宝とともにポーランドからルーマニアへと脱出しました。この時の道のりは大変困難なもので、ナチスに攻撃される危険のある船も飛行機も使えず、はしけ、トラック、荷馬車を利用して、昼は身をひそめ、夜に移動するといったものでした。国外にでると80名もいたのでは移動が困難だとされ、家族達とは当時ロンドンに亡命していたポーランド政府からの給金をわたして別れ、小部隊となって移動を開始、トルコ、ジェノア、マルセイユ、そしてパリへと辿り着きます。
そのパリで彼らが運び出してきたヴァヴェル城城の財宝とペルプリン神学校図書館に所蔵されたグーテンベルク聖書とが合流するわけです。残念ながら、どのようにしてグーテンベルク聖書がパリへ運び込まれたのか、現在のところ私も調査中なので是非情報をお持ちでしたら教えていただきたいと思います。さてパリへと逃れたのもつかの間、ここにもナチスの手が伸びる危険性があったため、パリを離れて今度はロンドンへ、そしてロンドンも空襲が近いということを当時ロンドンの亡命政府がキャッチし、カナダへと船で財宝を運び出します。
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カナダ政府はこのポーランドの財宝をオタワ近郊の試験農場に置くことを承認しますが、安全に管理する体制にはないと、管理責任は放棄するという姿勢を伝えます。そこでザレスキーとポルコフスキーは、当時オタワにいた駐加ポーランド亡命国大使ワクラフ・バビンスキーの計らいにより総領事館の職を得、彼ら自身で財宝を守る体制を整え、危機に備えました。
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状況の反転と新たなる追跡者
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1945年5月8日ドイツが無条件降伏し第二次世界大戦は終焉を迎えますが、同年6月にソ連の後押しにより、共産党政府であるポーランド挙国一致内閣が誕生、7月にカナダ、英、米、仏などが、この共産党政府を承認するという、ポーランド亡命政府にとって新たな危機が生じます。亡命政府の効力が無くなることにより、新政府に財宝を奪われることを心配したザレスキーとポルコフスキーは、財宝にクラコウ大司教の所有物が含まれていることから、カナダ・カトリック教会に援助を要請し、財宝を試験農場から、オタワの修道院とケベック郊外の僧院地下室に分散させ、特に大切なショパンの自筆原稿やペルプリン本は、モントリオール銀行オタワ支店の金庫に保管しました。
この様な準備をしている内に、財宝の行方を探すポーランド新政府から追跡の手がのびます。新政府はアルフレッド・フィダーキウィッチ大使をカナダへ派遣し、彼は財宝を守る2人と接触、財宝の在処を厳しく詰問します。ポルコフスキーは最後まで口を割らなかったのですが、ザレスキーは何かいい条件でも与えられたと思われますが、忠誠を破ってフィダーキウィッチに寝返ってしまいます。フィダーキウィッチはこれによって明らかになった数カ所を追求しますが、
このうち聖書を預けたモントリオール銀行だけが財宝の存在を認めます。しかしザレスキーとポルコフスキーがこの銀行に財宝を預けた際に引き渡しの条件として、1. ザレスキー、ポルコフスキーの2人が同時に署名するか、2. 代理人を立てるか、3. 亡命政府の許可が必要であることが取り決められていました。そこで1946年夏フィダーキウィッチはポルコフスキーの代理人になりすまし、ザレスキーと銀行に財宝の引き渡しを要求します。そして財宝を銀行の外へ2人が運び出すまさにその時、ポルコフスキーをよく知るガードマンが不審に思いこの持ち出しを禁止し、計画は失敗に終わります。この時から1958年12月23日、調査団が来るまでこのトランクの財宝は銀行で管理されることになるのです。財宝を守る側にとっては都合がよかったのですが、グーテンベルク聖書が長期間トランクの中に入っていたため湿気にやられてしまい、1958年の調査でかなりのダメージを受けていることがわかりました。
一方、修道院、僧院に保管した財宝もフィダーキウィッチ、ザレスキーは回収しようと手をつくしますが、こうしたフィダーキウィッチ、ザレスキーの動きを亡命政府は優れた諜報活動で把握し、あと数時間で2人が踏み込むというところでポルコフスキーに財宝を移動させていました。業を煮やしたポーランド新政府はカナダ外務省に圧力をかけ、カナダ連邦警察による財宝の捜索を要請します。1948年2月ポーランド新大使は尼僧院に財宝の提出を命令、カナダ連邦警察の介入や尼僧院閉鎖を持ち出して脅しにかかりました。ここで尼僧院はケベック州デュプレ首相に嘆願して州警察の協力を仰ぎ、尼僧院からプロヴィンシャル美術館に財宝を移管し、新政府の手が出せないように処理します。
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20年ぶりに故郷ポーランドへ
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ここにドン・クリーヴランド・ノーマンという一人の書誌学者が登場します。彼は世界に現存しているグーテンベルク聖書が所蔵されているところへ直接赴き、その状態はどうか、持ち主は誰か等、全て調べ上げ、『The 500th Anniversary Pictorial Census of the Gutenberg Bible』という本にまとめました。1958年3月ノーマン博士はオタワのポルコフスキーを訪ね、今までの経緯を把握した上で、シカゴの司教に連絡、援助を求めるなど銀行に閉じこめられたままのペルプリン本グーテンベルク聖書の解決に尽くします。そして1958年12月23日ポーランドの学識経験者14名と、ノーマン博士、ポルコフスキーの立ち会いのもと、銀行に保管されている聖書の入ったトランクの開示が行われ、聖書が確認されるのです。
翌年、1月8日ポーランド亡命政府と現政府の間で返還に関する合意が成立します。1月21日にペルプリン本グーテンベルク聖書ら財宝を乗せてス
トックホルム号がニューヨークを出発、カナダ政府は保険額10億ドルをかけるといった対応ぶりでしたが、2月2日に無事ワルシャワへ到着します。そしてクラコウのワーウェル城で返還財宝の展示会が開かれたのち、2月25日、グーテンベルク聖書はペルプリン神学校図書館に20年ぶりに帰還しました。この本がたどった経緯は『The 500th Anniversary Pictorial Census of the Gutenberg Bible』の最後に数ページにわたり「The Pelplin Bible Saga」と題して克明に書かれています。今回はこの本を参考に、皆さんに分かり易く話をさせていただきました。
参考文献
富田修二 著『さまよえるグーテンベルク聖書』慶應義塾大学出版会、2002
Don Cleveland Norman『The 500th Anniversary Pictorial Census of the Gutenberg Bible』Chicago: The Coverdale Press, 1961
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