Pinus_logo Pinus_logo Pinus_logo
雄松堂Net Pinus 61>小さな挿絵の展覧会
Net Pinus 61号

100年前の肖像写真が語りかけるセピア色の世界

2005/09/20

ロンドンの古書展の片隅にひっそりと息づいていた古いアルバム。
開いてみると当時の著名人達の写真等が隙間なく貼られていました。
100年もの時を経て、セピア色の深みを熟成させてきた肖像写真。
あの歴史的人物のこんな写真が?意外な発見があるかもしれません

画像をクリックすると拡大画面がご覧になれます。

その1:近代日本で活躍した勇士たち
その2:百年前のセレブ?皇族カップル

その3:明暗がわかれた!諸藩の末裔たち

その1:近代日本で活躍した勇士たち
勝 安房
勝 安房(海舟)1823-1899

勝海舟について:江戸出身。剣術を学ぶ一方で蘭学にも親しむ。ペリー来航で幕府に軍備の強化を主張した「海防意見書」が評価され念願の役入りを果たす。やがて長崎海軍伝習所が開かれると入門し、海軍についての技術を研究。1860年には咸臨丸の船長として太平洋を横断し、幕府の使節とともに渡米。帰国後、軍艦奉行に就任、幕府の海軍体制を整えた。戊辰戦争時には軍事総裁として旧幕府の代表となったが、官軍が江戸に迫る早期停戦と江戸城の開城を主張。西郷隆盛との交渉の末、無血で江戸城を開城するにいたった。明治政府以降は、海軍卿・枢密顧問官などを歴任、一方で元幕臣の保護にも勤めた。

樺山資紀
樺山資紀 1837-1922

樺山資紀について:薩摩藩出身の軍人。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。西南戦争では熊本鎮台参謀長として活躍西郷隆盛と戦う。近衛参謀長、警視総監兼陸軍少将。1874年、海軍に転じ、海相となる。1895年、海軍大将、初代台湾総督等歴任して近代日本の軍事・政治に深く関わった。

谷干城

谷干城 1837-1911

谷干城について:土佐藩士の第4子として生まれる。桜田門外の変で藩論が攘夷と開国に二分すると尊王攘夷運動を主張、薩長の連携に奔走した。西南戦争では熊本鎮台司令長官として熊本城を死守。

山岡鉄太郎

山岡鉄太郎 1836-1888

山岡鉄太郎について:東京生まれ。剣豪としての腕を買われ、1856年幕府の講武所で剣術を教える。のち15代将軍徳川慶喜の警固役となり徳川家存続のため奔走、江戸城無血開城に貢献。維新後、宮中へ出仕。明治天皇の側近として宮内庁の要職を歴任した。

木戸孝充
木戸孝充(桂小五郎)1833-77

木戸孝允について:長州藩出身。傑出した剣の才能もち江戸藩邸大検使をつとめ、長州藩の尊攘派のリーダー的存在となる。新選組の池田屋事件、禁門の変における闘争の際にも運良く難を逃れ、薩長同盟の成立に貢献。第二次征長戦にて幕府軍を退け、大政奉還を経ての後、長州藩の復権に成功、薩長主導による新政府を樹立。西郷とともに参議となったが次第に西郷征韓論と対立するようになる。結局、大久保らの工作により、西郷は職を辞し、木戸も政局から遠のいていった。

大久保利通

大久保利通 1830-1878

大久保利通について:薩摩藩出身。西郷隆盛とともに薩長同盟の中心となって倒幕運動に活躍した。明治維新後は、木戸孝允とともに新政府を指導し、版籍奉還・廃藩置県に尽力、1871年に大蔵卿となり国の内政体制を整えていった。岩倉使節団の一員として外遊後、殖産興業には政府の体制変革が不可欠であることを唱えた。征韓論に反対し、自由民権運動をおさえたが専制的な支配が仇となり暗殺された。

 桂太郎
桂 太郎 1847-1913

桂太郎について:長州藩出身。戊辰戦争での功績をあげ、維新後ドイツへ留学、帰国後、陸軍歩兵大尉・ドイツ駐在武官をへて、1878年参謀本部に入った。1886年陸軍次官となり、軍隊の諸制度を改革、近代化に勤めた。日清戦争後子爵となり、陸相を務めたのちの1901年内閣を組織して日露戦争を遂行。通じて3回にわたり内閣の首班を勤めた。

森有礼

森 有礼 1847-1889

森有礼について:薩摩藩出身。1865年薩摩藩留学生としてイギリス、アメリカへ渡り、西欧の文化から法、政治等を学ぶ。帰国後、外務少輔・清国公使・外務大輔を歴任した後、再度英国公使として渡英した。帰国後文部大臣となってからは学校令等、学制の改革を行った。彼の教育政策は国家主義的教育と評価されているが、有礼は自身の渡欧経験から自由主義的な主張をもっていた。それが災いしたかどうかは謎であるが皇室を軽んじたなどという理由で国粋主義者に襲われて死亡した。

西園寺公望

西園寺公望 1849-1940

西園寺公望について:3歳で公卿の名家西園寺家の養子となり、22歳のときフランスへ留学、ソルボンヌ大学などで、自由主義、を学び、10年後に帰国、東洋自由新聞社を設立、自由民権運動を推進した。再度西欧へ渡航したのち、ドイツ、オーストリアの公使を経て、文部大臣などを務めた後、政友会総裁として2度にわたりに総理大臣となる。第1次世界大戦のパリ講和会議に日本の首席全権大使の大任を果たした。

品川弥二郎

品川弥二郎 1943-1900

品川弥二郎について:長州藩出身。松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政の大獄で松陰が刑死すると、尊王攘夷運動に加わる。木戸孝允らと薩長同盟の成立に貢献した。明治維新後、渡欧。帰国後は内務少輔、農商務大輔などを歴任し、第1次松方正義内閣のもとで内務大臣となった。

品川弥二郎

福沢諭吉 1835〜1901

福沢諭吉について:中津藩出身。長崎に出て蘭学を学び、翌年、大坂の緒方洪庵の適塾に入学した。1860年勝海舟とともに咸臨丸で渡米し、さらに遣欧使節の一員としてヨーロッパ諸国を視察した。また幕府が軍艦富士山受取りの使節を派遣したとき、翻訳者として再び米国に渡った。明治維新後は政府には参画せず、海外事情に最も通じた日本人のひとりとして、日本を近代的な文明国家に発展させるための慶応義塾の設立等、啓蒙活動を行った。

大隈重信

大隈重信 1832-1922

大隈重信について:佐賀藩出身。古い儒教教育に反発、蘭学を講じる一方で、幕末の尊王攘夷運動に傾く。明治新政府では大久保利通・伊藤博文らに協力して、政府の基礎をつくった。しかし、自由民権運動に影響され、国会の早期開設を主張したことから伊藤らと対立して政府をおわれる。のち立憲改進党をつくって民権運動を進め、帝国議会の開設後は議会政治で活躍、その間に2度にわたって内閣を組織した。一方で東京専門学校(早稲田大学)を創立するなど民間人の啓蒙にも力をいれた。  

その2:百年前のセレブ?皇族カップル   その3:明暗がわかれた!諸藩の末裔たち

61号 2005/09/20
 [ピヌス61号目次に戻る]  

Net Pinus