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Net Pinus 62号

雄松堂フォーラム2005

2005/12/27
「発見された古代エジプト」
「エジプト誌」画像紹介 その1(古代編)
以下の画像はクリックすると拡大します

1.
ナポレオンのエジプト遠征

先程述べたようにナポレオンは戦争の為にエジプトを訪れました。これはナポレオンがピラミッドの下でトルコのマムルークと戦った「ピラミッドの戦い」の絵です。この時ナポレオンが「40世紀を経た何者かが諸君を見ている」といって兵士を激励したという有名なエピソードが残っています。当時そんなに正確な数字がいえたかどうかは疑問ですが、兵士達にはとてもよくきく一言だったのではないでしょうか。

ナポレオンのエジプト遠征
2.
「エジプト誌」初版 標題紙

下の方に当時の勢いのあるフランスのマークが付いています。国家事業でこの本を出版したことがわかります。

3.
「エジプト誌」初版扉絵 エジプトの眺望

ここに描かれた風景は一番手前のナイル河口から一気に上流へと眺められているファンタジー、想像により作り上げられたものです。一番奥の方に山がありそこから夏になると雪がとけてナイル川が増水し、洪水をおこして農地に適する土地になることを表しています。左側の方に非常に高いオベリスクが立ち、その向かい側に、実際はもっと河口のほうにありますが、三大ピラミッドとスフィンクスがあります。手前にごろごろと落ちているのはロゼッタ、アレキサンドリア辺りの遺跡で、それぞれのパーツの特徴部を取り出しています。河口部分にはギリシア、ローマの影響を受けている古代エジプトの中では比較的新しい時代が描かれ、更に上流に遡るとテーベ、メンフィスなどのエジプト古代遺跡の黄金期の遺跡が置かれ、さらにその上にいくとフィラエ、アスワンハイダムの地域に達します。上に行くほど古いかというとそうでもないのですが、この映像を思い浮かべるとエジプト史を記憶するのに便利ですし、エジプトの地図を知らなくてもこの扉絵を覚えていれば色々な話ができます。こうした本編の前に中身をサマリーした扉絵、つまりフロンティス・ピースを付けることが昔の本の決まり事でした。この図の周りがまたすごい。この戦争でのナポレオンの活躍ぶりがレリーフ状の形で描かれ、あたかもエジプトの遺跡のように表現されています。わたしはこの扉絵が大好きでエジプト誌というとこの扉絵を思い浮かべます。

「エジプト誌」初版扉絵 エジプトの眺望
4.
「エジプト誌」第2版扉絵 古代エジプト遺跡の幻想

驚いたことにエジプト誌は初版を作っている最中に第2版が出版されました。初版は国家的なプロジェクトであり、このセットが買える人間は殆どいませんでしたので、出版社はもっと一般の人が購入できるものを初版を出す前に出版しました。この時に付けたのがこのカラーの口絵です。初版の絵は色がついていませんが、第2版はドラマティックな色がつけられています。第2版で色がつけられているのは扉絵だけです。初版と第2版の大きな違いは初版の方がテキストの量が多いという点です。さらに図版の大きさはおなじなのですが初版は色刷りの図版がいくつか本文にはいっていますが、第2版は全く本文には色をつけていないという点が挙げられます。

「エジプト誌」第2版扉絵
5.
テーベ メムノン
西神殿の彩色内部の遠景

これは初版にしかない色刷り図版の例です。映像では分かりにくいかもしれませんが、今見ても現代の出版物にはないようなものすごいブルーが使われています。筆で色をつけた手彩飾の部分と、機械的に版画で刷った部分とがミックスして厚みのある色がついています。実物を見るとよくこんなのを作ったなと実感できると思います。こうした細部まで色がついている図版は復元図、つまり想像で書いたものである場合が多く、ナポレオン軍がエジプトに来たときに実際にこうであったかはわかりません。こうした想像で2000〜4000年前の姿を復元した図によって当時の人々はエジプトに関心を寄せていきました。17世紀以降の古物趣味は古い物は壊れていて当然であり、あるがままの姿をあじわう感覚が芽生えますが、当時は足りない部分は幻想によって補うことになんの罪悪感も持たないどころか、復元した物を見せる方が古代のすばらしさを体験できると考えられていました。こうした再現は遺跡を再現するという科学的理由以外に遺跡を何よりも味わうという意味があったように思われます。

西神殿の彩色内部の遠景
6.
メンフィスのピラミッド
日の出時の大ピラミッド入口

現在は観光地となって眺めが変わっていますが、当時はこのようにとにかく砂がすごい状況でした。

メンフィスのピラミッド
7.
メンフィスのピラミッド
日没時のピラミッドとスフィンクス

これは7よりも少し退いた図です。今は周辺に色々な物ができてしまってこのように見通せません。太陽が描かれていますが、太陽はよりドラマティックな効果を出すために場合によって色々な位置で描かれていました。スフィンクスが東を向いてつくられていることを考えると嘘の絵を見破ることができます。こうしたことを念頭にいれてエジプト誌を見ても面白いものがあります。

メンフィスのピラミッド
8.
メンフィスのピラミッド
南東からみたスフィンクスと大ピラミッド

現在は掘り下げられていますが、当時はこのように前足が埋まっていました。顔がかけているのがわかりますが、これは戦争の影響であると言われています。面白いところは測量している人々が描かれている点です。このようにして測量がされたという記録であると同時に、人を尺度に遺跡の大きさのスケールを表現しています。このように色々な工夫が一つの図版でなされていたわけです。

メンフィスのピラミッド
9.
ロゼッタ石の下部(ギリシャ文字部分)

お気付きの方もいるかと思いますが、これは遺跡が手元にない段階で、遺跡の模写をコピーした図なので大英博物館のロゼッタストーンとは少し形が違います。この図版は一番下のギリシア語で書かれた部分ですが、ロゼッタストーンは上がヒエログリフ、真ん中はデモティックと言われる民衆文字、下はギリシア語からの三連からなっています。この一番解読可能なギリシア語から色々な研究がなされました。ロゼッタストーンをはじめ、発掘された遺物のほとんどは休戦協定によりイギリス軍に持って行かれてしまいました。「遺物を持って行くなら自分たちも連れていけ」という当時の研究者の抵抗が伝えられています。

ロゼッタ石の下部
10.
アレクサンドリア
南西からみた「クレオパトラの針」とローマの塔

オベリスクはたいてい2本セットになっていますが、横に地震のために倒れてしまったといわれている同じ大きさのオベリスクがわかるかと思います。実はこれ、もともとアレキサンドリアにあったものではなく、ナイルの三角州地方にあるヘリオポリスに立っていた物を、プトレマイオス朝を手に入れたローマのアウグストゥスが持ってきたオベリスクです。このようにローマ時代より、遺跡はあちらこちらへと移動され、ローマ帝国本土まで運ばれたものさえありました。ローマ帝国でキリスト教が国教になりますと、いかに素晴らしいとはいえ、キリスト教以前の遺物は異教のものであると教会からクレームがつきました。そこで全部こうした遺物を一回、改宗させて異教を落とす儀式をしたそうです。一体どんな儀式をしたのかまだ私は知らないのですが、もし分かったらエッセイに書こうかと思っています。

「クレオパトラの針」
11.
コム・オンボ 大神殿

これはナイルの中流くらいのところに砂で埋もれていた現状を描いた図版です。これの砂を取り払い想像により修復して建物に色を付けた復元図もあるので見比べてみると面白いと思います。

コム・オンボ 大神殿
12.
テーベ メディネット・ハブ
神殿北からみたパビリオンの眺め

これもロマンティックな風景画です。スケッチや測量している人物が描かれ、のちにピクチャレスクと呼ばれる絵の手法パターンにならっています。画面構成において日本で言うところの冨士を眺めながら俳句を読んでいる人の場所が決まっていると言うイメージにとても近いものがあります。

テーベ メディネット・ハブ

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62号 2005/12/26
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