前田 絢子(まえだ あやこ)氏プロフィール
1944年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在フェリス女学院文学部英文科教授。専門はアメリカ文学および南部文化。アメリカン・ロックやゴスペルのライナーノーツも多く手がける。著書:『エルヴィス雑学ノート』(ダイヤモンド社)、『ミステリー・トレインで行くスカーレットの故郷?アメリカ南部学入門』(フェリス・ブックス)他。訳書:バートランド『エルヴィスが社会を動かした』(青土社)他。 |

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筆者:前田絢子氏
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つい先日、20人ほどの学生を引率して、アメリカの南部を巡ってきた。私が所属する大学の正規のカリキュラムの一部で、フィールド・スタディと名付けられた十日間の研修を課する科目である。アメリカ南部に関しては、旅行に先立つ事前授業や他の授業で得た知識を持って出発した学生たちだったが、それでも、摩天楼の聳える大都会やマクドナルドに象徴されるような合理的ライフスタイルといった馴染みのアメリカとは掛け離れた南部の景色に、みな戸惑いを覚えたようだった。
最初に下り立った南部最大の都会アトランタでさえ、南北戦争の歴史や人種問題が現在なお強烈なインパクトを持っていることに圧倒された。ちょうどその日はキング牧師夫人、コレッタ・スコット・キングの公式葬があり、厳しい交通規制の中をキング牧師記念地区を歩き、公民権運動の生の記録を目の当たりにした。引き続いて『風と共に去りぬ』の伝説的世界を再現したロード・トゥ・タラ博物館を見学した彼らは、これまで抱いていたイメージとは異なる矛盾と混乱と対立に満ちた複雑なアメリカに触れて、戸惑いを隠さなかった。
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アトランタ:キング牧師のお墓
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さらに彼らは、世界を制覇した飲料水、コカコーラの本社直営博物館で、コカコーラから世界で発売されている飲み物を自由に味わったあと、実はコカコーラがもともとは厳しい労働を強いられた黒人に与えられた覚醒作用のある清涼飲料だったことを知った。1886年、それに一工夫をこらし白人の飲み物にしたのは、アトランタからさほど遠くない工業都市コロンバスの薬剤師ジョン・S. ペンバートンだった。二日酔いに効く飲み物として話題になったこの飲み物の利権を1750ドルでアトランタの薬剤師に売り、その薬剤師は1919年、その利権を2500万ドルで売却した。やがて世界一の清涼飲料会社に上りつめた過程は、アメリカ南部とアメリカ資本主義の深い関係を象徴している。南部は現在も異質の文化を持つ地域としてアメリカ全体に大きな影響を与えつづけている。というより南部と北部は、その異質性ゆえに反発し合ったり引きつけ合ったりしながら、ダイナミックなアメリカ文化を創造してきた。
アメリカ南部を異質と感じる意識は、程度の差こそあれ、南部以外の場所に住むアメリカ人にとっても同じらしい。雄松堂からこのたび出版されるアメリカ作家別百科事典『アメリカ文学ライブラリー』に含まれるフランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald、1896-1940)も、アメリカの南部に対して違和感と同時に強い憧れを感じた一人だった。一般にはもっぱら中西部(ミネソタ州)出身の作家として知られているけれども、彼の父親はかつての奴隷州メリーランドの旧家の出で、豊かな教養と上品なマナーを身につけた南部紳士だったという。フィッツジェラルドは、貴族的なばかりで生活力のなかったその父親を尊敬していた。もちろん、つつましい生活を強いられたことには恨みを覚えたけれども、その優雅な理想に共鳴してもいた。フィッツジェラルドが燃え上がる熱い恋愛の後に結婚したゼルダ・セイヤー(Zelda Sayre、1900-1948)が南部出身だったのも、父への思いの延長線だったのかもしれない。
南部人と北部人の気質のずれを見事に描いた短編「氷の宮殿(Ice Palace、1920)」は、玉石混交160篇ほどもあるフィッツジェラルドの短編の中で、文句なしの珠玉の名作である。テーマを支える的確な文体と緻密な構成に、作家の圧倒的な才能を読み取ることができる。南部の気だるく退屈な生活にうんざりしていた19歳の南部娘サリー・キャロルは、北部から来た若者に心惹かれて婚約する。物語は、サリー・キャロルが初めて訪ねた婚約者のいる北部の町が、予想もつかない異質の場所であり、孤立して追いつめられた彼女の絶望的な孤独感と疎外感が、二人の間に乗り越えがたい溝があることを示唆して終わる。
南部から生まれ出てやがて世界を制覇したものは、コカコーラだけではない。代表的な現代アメリカ文化とされる多くのものが、実はそのルーツをアメリカ南部に置いている。異質なものの衝突と融合が、新しい文化を生み出す背景を提供してきたからだ。

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メンフィス:目抜き通りビール・ストリート
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アトランタの次に訪れたメンフィスは、「ホーム・オヴ・ブルース」、「バースプレーイス・オヴ・ロックンロール」として知られる、文字通り世界のポピュラー・ミュージックの歴史を塗り替えた場所だ。さっそく繰り出した目抜き通りビール・ストリートは、今も昔もブルースの本場で、道の両側には世界に名だたるライヴハウスが軒を連ねていた。夕暮れともなると、赤や緑のネオンがともり、むせかえるような熱い音がこぼれて人々を酔わせている。ブルースの父と称えられるW. C. ハンディが「メンフィス・ブルース」を書いのは1912年のことだった。
それから約40年後、一人の白人の若者が当時はまだ黒人街だったビール・ストリートに潜り込んで、アップビートのサウンドに熱心に耳を傾けていた。その若者こそ、黒人音楽と白人音楽を融合させ、ロックンロールというまったく新しいサウンドを誕生させたエルヴィス・プレスリーだった。1954年、プレスリーはメンフィスの小さなレコーディング・スタジオで、二人のミュージシャンと共に新しい音を模索していた。プレスリーは、半ば偶然にブルースの曲を、まったく新しい自分のヴァージョンに変えて歌い出した。スタジオのオーナー、サム・フィリップスは黒人音楽に愛情と理解を持つ町の変わり者だった。プレスリーがたたき出したブルースでもカントリーでもないこの斬新なサウンドに感激したフィリップスは、これをレコードにして自分の小さなレーベルから売り出した。この一枚のレコードが、若者のロックンロール・ブームの始まりとなるのである。たちまちプレスリーは世界的レーベル、RCAビクターに引き抜かれて、全米のトップスターに躍り上がり、空前絶後の記録を打ち立てつづける。プレスリーの影響力は、ジョン・レノンの「エルヴィスの前には何もなかった」、そして「もしもエルヴィスがいなければ、ビートルズは存在しなかった」という言葉に集約されるだろう。今日のロックのすべてがここから始まったと言っても言い過ぎではない。それが何故メンフィスという場所で起こったのか、ということについては、ビール・ストリートの果たした役割はきわめて大きい。まだ厳しい人種分離政策が徹底していたメンフィスではあったが、ここビール・ストリートだけは、綿花集積港・新興工業都市であったメンフィスが必要とする安い労働力として集まった黒人たちが、活気に満ちたアフリカ系アメリカ文化を自由に花開かせていたからだ。私たち一行も、その夜、ビール・ストリートでも老舗のラム・ビギー・カフェで本場の音を満喫した。
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メンフィス:公民権博物館
(キング牧師の暗殺された場所)
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メンフィス:エルヴィス・プレスリーの家
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次に向かったナッシュヴィルは、その点でメンフィスとは対照的だった。テネシー州の州都である誇り高いこの町は、白人の数が圧倒的に多い静かな文化教育都市である。そしてもちろん、「ミュージック・シティ・USA」とも「カントリー・ミュージック・キャピタル・オヴ・ザ・ワールド」の愛称を持つ、白人音楽の代表カントリー・ミュージックの世界的拠点でもある。ダウンタウンの一番高い場所に建つテネシー州議事堂は、古代ギリシャの神殿を思わせる白い太い円柱があって、その上に教会のようなタワーが突き出た不思議な建物だ。また町の広い公園に聳えるパルテノン神殿は、古代ギリシャの神殿を実物大で再現した世界で唯一の建物だとされる。
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ナッシュヴィル:
テネシー州議事堂
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ナッシュヴィル:
町中の公園にそびえたつパルテノン神殿
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それらは、秩序と安定と繁栄の願いを古代ギリシャ文明に求めようとするこの町の建設者の理念を象徴である。そのために、騒々しいバイタリティに溢れる黒人文化は、ここでは異質の感がある。南北戦争後に黒人にリンチを加えた悪名高きKKK(クー・クラックス・クラン)も、実はこの町で誕生している。かつて若きエルヴィスも、ナッシュヴィルでおこなわれているカントリー・ミュージック最大のラジオ・ショー「グランド・オール・オープリー」に出演するが、彼の黒人風のサウンドは、住民に受け容れられず、さんざんの酷評を浴びた。そんな白人文化の強い場所であるし、またカントリー・ミュージック一色の町でもあるので、その影に埋もれがちではあるが、実はここにはもう一つアメリカ史にその名を残す輝かしい音楽遺産があった。
南北戦争後、ナッシュヴィルの北軍兵舎跡に建てられた黒人のための最初の教育機関フィスク・スクールは、厳しい財政難を乗り越えるために、学生合唱団フィスク・ジュビリー・シンガーズを全米ツアーに送り出した。初めは白人の讃美歌を歌っていたが芳しい反応が得られなかったので、思い切ってプログラムに黒人霊歌を加えることにした。これが結果的に北部の人に黒人霊歌との最初の出会いをもたらすことになった。彼らの歌は北部でたちまち評判になり、大統領の耳にも届きホワイトハウスに招かれて歌った。1873年、合唱団はヨーロッパにも遠征し、ヴィクトリア女王の前でも歌を披露して黒人霊歌を世界に広めた。現在も、その伝統を引き継いで黒人学生合唱団の名門として活躍するフィスク・ユニヴァーシティ・ジュビリー・シンガーズのリハーサルを、私たちはディレクターの厚意により参観した。聞き終わった学生たちの目は、感動の涙で赤く濡れていた。帰り際、笑顔のディレクターが心をこめて私たち一人一人に彼らのCDを手わたしてくれた。

旅程の最後であるフロリダのウォルト・ディズニー・ワールドに向かう飛行機が、メンフィスの飛行場で吹雪に会い、四時間も機内に閉じこめられるハプニングがあった。そういえば、この旅行のオリジナル・プランにはニューオリンズが含まれていた。学生を預かる立場上、飛び立てない飛行機の中で、いったいどうなるのだろうと心配しながら、ハリケーン・カトリーナのことを思った。自然の猛威の無残な爪痕、救出活動から取り残された黒人貧困層の絶望と怒りに満ちた顔。あの映像で初めてアメリカ南部の現実を知った日本人も多かった。メディアにも「これが世界の超大国、アメリカ?」という驚きの声が上がっていた。
今回の短い旅の間も、南部はなお過去の奴隷制度の亡霊から完全には解き放たれていないという実感を新たにした。奴隷制を社会構造のあり方の理想と捉えた白人たちの「常識」を打ち破るのは容易なことではないだろう。そもそもメンフィスの町も、その構想の段階ですでに奴隷制が前提として想定されていた。この一帯は、もともとチカソー族が獲物を追って自由に駆け回る大平原だった。1819年、彼らを「駆逐」して手に入れた5000エイカーの土地を白人に開放するため、地方名士三人が町造りに乗り出した。その中の一人は、後に第七代大統領になるアンドリュー・ジャクソンだった。彼らは、当時はまだミシシッピ川沿いの辺境の船着き場だったこの村の酒場に集まって、この辺りの大規模な開発を計画し青写真を引いた。町の名を、「住むのによい地」の意味を持つ古代ギリシャの首都名にあやかり、メンフィスと命名した。そこには、ミシシッピ川をナイル川になぞらえ、奴隷制を社会の基盤として開化した古代文明にあやかろうとする男たちの野望がこめられていた。
現在、古代エジプト文明を連想させるものは、ミシシッピ川沿いに建つステンレス製の巨大ピラミッドであろう。同様の考え方が、ナッシュヴィルの町の建設理念にも見られることはすでに述べた。先に挙げたギリシャ神殿風の議事堂は、南北戦争勃発より二年前の1859年に完成している。ここにも、古代文明に社会の理想的な原型を見ようとするところに、南部特権階級による支配構造を固定化しようとする意図が読み取れるだろう。
今回の旅を通して学生たちがどこまで南部の現実を理解したかは分からない。「よそ者には南部のことは決して分からない」と南部の人たちは言う。しかし、そこが予想をはるかに越えた複雑な問題をかかえていることを、彼らなりに理解したことは確かだ。コレッタ・スコット・キングの葬儀の模様を一面で報ずる新聞は、公民権運動が燃え上がった1960年代から時代が大きく変わったことを伝えていた。そこには、多くの黒人列席者と並んで、ブッシュ現大統領夫妻、クリントン前大統領夫妻、ブッシュ前大統領、カーター前大統領夫妻等の姿があった。だが三面のコラムでは、そこに気まずい場面があったことを伝えていた。
1957年にキング牧師と共にSCLC(南部キリスト教指導者会議)を設立したジョウゼフ・ラウリー牧師は、ブッシュ大統領を前にしてイラク戦争に反対する自作の詩を読み上げた。
「あそこには大量破壊兵器なんてなかった/ コレッタも僕らもみな知っている、ここには指導者の判断ミスという危険な兵器があることを/ 健康保険のない何百万という人々、あふれる貧困/ 戦争のために使われる何億ドルという金、何も与えられない貧しい人々」。
かつてヴェトナム戦争に反対し、非暴力の抵抗で公民権運動を指導したキング牧師の夢実現までに、まだどれほどの時間がかかるのだろうか。このような複雑な問題を抱えながらも、独特の豊かな文化を育んできた南部を自分の研究対象に据えてから、いつの間にか35年以上が経った。
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