到来の経緯

昨年12月2日にパシフィコ横浜で開催された雄松堂フォーラム2005で、イタリア・ルネサンスの出版人アルドゥス・マヌティウスについて(講演録:懐中のルネサンス─ アルドゥスが生んだ500年前の文庫本─)お話をしたおりに、おしまいのところでアルドゥスの友人であったフランスの愛書家ジャン・グロリエに触れ、「今日の愛書家たちのあいだで、金箔押しの幾何学的な文様で装飾された彼の旧蔵本は、生涯に一度は手にしたいコレクターズ・アイテムの頂点に立っています」といったようなことを述べさせていただきました。
そうしたところ、なんという巡りあわせか、フォーラムの後10日ほどして海外の古書店から、そのグロリエの旧蔵本、いわゆるグロリエ本を掲載した目録が送られてきたのです。現存するグロリエ本は600冊ほどが知られ、その多くが欧米の著名な図書館に収まっており、滅多に古書市場に姿をみせません。たとえ姿をみせたとしても、決して良品とは限らず、また大きなオークションだと昨年のピエール・ベレスの売立のように見積の3倍以上に跳ね上がり、なかなか入手することができません。ところが今回のグロリエ本は、ベレスの売立ほど高価ではなく、しかも目録でみるかぎり、製本に後世の修理の跡がない、よくグロリエ本の特徴を備えた佳品とみえます。決してお安くはないのですが、もしこれを逃せば一生グロリエ本を手にする機会はないのではないかと思い、さっそくオファーを入れてみたところ、他からも注文があったようなのですが、今年になって確認の返事がきて、ついさきごろ無事にこれを入手することができました。僥倖というほかありません。

図1.「グロリエとアルドゥス」F.Flamengの油彩画(1890.グロリエ・クラブ蔵)に基づく複製
愛書家ジャン・グロリエは、ニューヨークのグロリエ・クラブ(図1)や、雄松堂書店のグロリア・クラブなどに、今日でも名を遺す愛書家のパイオニアです。戦前の神戸にあった「ぐろりあ・そさえて」も、グロリエの遺徳を偲んで設立された愛書家クラブです。
邦書に取り上げられたグロリエ本の例を見ますと、早いところでは田中敬氏の『図書学概論』(大正13年)や庄司浅水氏の『書籍装釘の歴史と実際』(昭和4年)に図版が掲載され、グロリエの事跡が紹介されています。戦後の例になりますと、寿岳文章氏が『書物への愛』(昭和34年)や『図説 本の歴史』(昭和57年)で図版を紹介し、グロリエに触れて「書物の天空に輝く明星」とまで讃えております。ただ残念なことに、いずれの書影も洋書からの引用と思われ、グロリエ本の実物がわが国にもたらされた形跡はありません。おそらく今回の一冊が、わが国に将来した初めてのグロリエ本ではないでしょうか。
グロリエ旧蔵『アンブロシウス著作集』第2巻

ジャン・グロリエは1489年にフランスのリヨンで生まれました(グロリエの生年はこれまで1479年とされてきましたが、最新の研究によれば1489年となっています)。1509年に父親の後を継ぎミラノ公領の財務官に就任し、政変による3年ほどの中断を挟んで1521年までその任にありました。このイタリア時代にアルドゥスやエラスムスなど多くの人文主義者と交わり、大いに愛書趣味を育んだようです。再び帰国してからはパリで財務長官に就いて国政を担い、1565年に亡くなっております。彼は宮廷の高官でありましたが、その名を後世に遺したのは、お役人としての業績ではありません。寿岳氏の言葉を借りれば「書物の内容ばかりではなく、印刷・製本・装本など、工芸的な面にかれほど深い理解と愛情を示した人は、少なくとも同時代にはほかに誰もいない」。とりわけ蔵書の装丁に深い愛情を注ぎ、その様式は「グロリエ風」と呼ばれ、後世の規範となりました。御承知のように、20世紀の前半くらいまで、西欧の本は仮綴じで出版されるものが多く、購入後に読者が製本するのが慣例となっていました。グロリエはこの製本に心を砕き、自らの蔵書に、一流の職人の手による芸術性の高い装丁を施しました。愛書家と製本家が手を携えた製本工芸の歴史が、ここから始まったといえるでしょう。今日、彼の名が語り伝えられる所以です。
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図2.「アンブロシウス著作集」第2巻(1538年)標題紙
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今回到来したグロリエ本は、1538年に刊行されたアンブロシウスの著作集全5巻のなかの第2巻です(図2)。これまでに調査されたグロリエ本のリストには載っていないので、新出の資料ということになります。著者のアンブロシウスはローマ時代の初期ラテン教父で、四大聖人の一人です。ギリシア・ローマの文人や、ルネサンスの人文学者の著作を中心としたグロリエの蔵書のなかで、教父の著作というのは例外的な存在のように思われます。グロリエ本のリストには、アウグスティヌスやヒエロニムス等の有名な神学書は含まれておらず、一見この著作はグロリエの蔵書として収まりが悪いような気がするのですが、アンブロシウスがミラノの聖人であることを思えば、決して不自然な話ではありません。アンブロシウスはミラノで活躍した教父であり、聖人となってからはこの町の守護聖人として崇められ、今でもミラノに行くと「アンブロジアーナ」の名を冠した美術館やホテルやカフェがあり、この町の人たちに深く慕われているのです。グロリエは20歳のころから10年ほどをこの町で過ごし、ここでルネサンスの息吹に触れ、イタリアの愛書趣味に染まりました。ミラノは愛書家グロリエにとって青春の地であり、いわば彼の第二の故郷ということができましょう。つまりミラノの守護聖人アンブロシウスは、ミラノという土地で愛書家として洗礼を受けたグロリエにとって、たいそう縁の深い聖人であるわけです。
もうひとつ、この本とグロリエを結びつけているのは、このアンブロシウス著作集を監修したエラスムスです。グロリエとエラスムスは、おそらくアルドゥスを介してのことと思いますが、親密な交流があったことが知られています。エラスムスは1527年に4巻本でアンブロシウスの著作集を出版しているのですが、これはその第2版にあたります。エラスムスは1536年に亡くなっていますから、没後の版ということになります。版元はエラスムスの著書を多数出版したことで知られるバーゼルのフローベン書店です。

図3. グロリエ本「アンブロシウス著作集」第2巻(1538年)装丁
肝心の製本を見ておきましょう(図3)。総革装金箔押。金箔の模様は、平行する四本線が矩形と円形を描きながら交差する幾何学的なデザインを基調とし、ところどころに唐草模様で装飾が加えられています。シンメトリックに構成された平行線とアラベスク模様が、リズミカルに反復し、優美な連続模様を生み出しています。四本線という点がやや例外的(通常は三本線)ですが、全体的に見て典型的なグロリエ本のデザインといえます。1540年代の製本でしょうか。当時パリにアルドゥスやフローベンの図書を扱っていたジャン・ピカールという書店があり、ここの製本工房でグロリエのために製本されたものと推定されます。グロリエ本の過半は、このピカールのもとで製本されました。この装丁とたとえば中世までの装丁と比べるなら、いかに知的でシンプルな構成か、お判りいただけるかと思います。
表紙下方には "IO. GROLIERII ET AMICORUM(ジャン・グロリエとその友人たちの)" という有名なラテン語の銘が箔押しで記されています。銘の解釈についてはいろいろと言われてますが、わたしは単純に、グロリエは、本という人文的な知の形を、友人たちと共有することを喜びとしたのだと思っています。これまで教会や修道院に独占されていた知識を、活版印刷本によって広く人々のあいだに普及させることが、ルネサンスの人文主義の大きな潮流であったことはいうまでもありません。
フォーラムの際にもお話ししましたが、この時代に本の姿は、ルネサンスの新しい時代思潮に同調しながら、中世の宗教的な権威を象徴する形態から、人文主義的な知性を表象する形態に変化しました。グロリエの旧蔵本は、そうした形態の変化を映し出した一大モニュメントということができます。
グロリエ本の意義

ルネサンスという、人文主義的な知性が誕生した時代に、活版印刷が発明され、今日の本の基本的な様式が作られました。クラシックな内容を、同一の小振りなフォーマットで、安価に、継続的に刊行する文庫本という出版様式が、アルドゥスの小型本を先駆とすることはフォーラムでお話ししたとおりです。本の装丁ということでいいますと、この時代に、総革装に金箔押しを施した装丁が定着し、以降、今日にいたるまで、最も格式のある装丁として、いわば装丁の王道をなしてきました。グロリエは自らの蔵書に、非常に洗練されたスタイルで、この金箔押しの総革装を施し、装丁に関して後世の愛書家たちの規範となりました。とりわけ19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、愛書家のための製本工芸はかつてない隆盛をみるのですが、そのブームなかで先駆者としてのグロリエの存在は、大いに賞賛され、ほとんど神話化されたといっても過言ではありません。
エラスムスはグロリエに宛てた手紙のなかで「あなたは書物に何ものも負うてはいないが、書物はあなたに甚だ多くを負うている」と述べていますが、これはグロリエが単にアルドゥスの出版事業を支援したという意味のみならず、500年後の今日から振り返るなら、後世、美しく装丁され愛書家たちに愛蔵された書物が、先駆者グロリエに負うているものまで言い当てているということができるでしょう。
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気谷 誠(きたに まこと):1953年生。美術史、書物文化史をめぐる評論を多く執筆。著書は『愛書家のベル・エポック—アンリ・ベラルディとその時代』(図書出版社)、『風景画の病跡学—メリヨンとパリの銅版画』(平凡社)他。「芸術新潮」「銀花」等にも文章を寄せている。
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