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雄松堂出版刊『築地外国人居留地』補遺2

2006/03/25
バード夫人と築地居留地
築地外国人居留地
愛知大学国際問題研究所 客員研究員 川崎晴朗

 筆者は2002年10月、雄松堂出版のお世話で『築地外国人居留地』を刊行した。冒頭に書いた通り、この本を書いた目的の一つは、東京府京橋区の一画(現在の東京都中央区明石町)にあった築地居留地のありのままの姿を知って頂くため、居留地を訪れ、またここに滞在した外国人が書き残した記録をいくつか紹介することであった。
 しかし、筆者はイギリスの女性旅行家として有名なバード(Isabella Lucy Bird, 1831-1904年)が妹にあてた1878(明治11)年5月27日付書簡で、築地居留地を描写していることに気付かなかった。おくればせながら、次に彼女の手になる描写を訳出し、若干の解説を加えることにしたい。

 
当時の築地
当時の築地[拡大PDF
築地─これは「埋立て地」を意味する─は居留地で、日本政府お雇いでない外国人だけが居留できる。この土地は隅田川河口近くで、(東京)湾に面した結構な浅瀬の上に築かれているが、運河(複数)がめぐらされ、橋が架けられている。
 東京は外国貿易を行う場所としては完全に失敗で、築地居留地にはごく少数の商人しか住んでいない。洋風ホテル(複数)は大したことはなく、客も少ない。米国以外の大国の公使たちはみな宮城の外濠の内側にある官庁街の近くに住んでいるのに、米国公使館はまだ築地にしがみついている。
 居留地の道路は広く、清潔であるが、その外観は退屈でわびしい。外国人はおたがいに近所に住んでいるが、近過ぎていつもおたがいの退屈な行動を見ては絶えずいら立っている。
 築地にはキリスト教各教派の教会建物が全部集まっており、(キリスト教国では)破損されている教会の統合がみごとに証明される結果となっている。宣教師の住宅の数はかなり多く、彼等にとってはこのように狭隘な土地に詰め込まれているのは苦痛であろう。
 宣教師達は、彼等の住宅および教会のほか、女の子のための寄宿舎学校をいくつかもつ。(東京)一致神学校はアメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会(RCA)およびスコットランド一致長老教会が共同で運営している。
 スコットランド一致長老教会には5人の宣教師がおり、その一人はフォールズ医師(Dr. Henry Faulds)であるが、彼は小さな病院を開いた。
 イギリス海外福音伝道会(SPG)は4人、イギリス教会宣教会(CMS)はたった1人、またカナダ・メソジスト教会も1人の宣教師を擁する。宣教師の大部分は月に1回、集会を開く。
 YMCAは最近築地に部屋(複数)を開設したが、ふつう以上のレベルの施設を備えている。

 横浜にあったJapan Gazette社は、関東大震災まで毎年 The Japan Directoryを刊行していた。これで日本各地に居住していた外国人について基礎的なデータを得ることができるのであるが、1879年版を繙いてみよう。この版が前年当時の築地居留地の状況を示していると考えられるからである。
 バード夫人はスコットランド一致長老教会に5人の宣教師がいたという。上記 The Japan Directory によると、同教派の陣容は次の通りであった。

 Rev. Hugh Waddell
 Rev. Bob Davidson
 Rev. S. G. McLaren
 Henry Faulds
 Miss Gamble

 彼女は、SPGに4人の宣教師がいたというが、 The Japan Directoryでは次の6人があげられている。

 Rev. W. B. Wright
 Rev. A. C. Shaw
 Mrs. Wright
 Mrs. Shaw
 Miss Hoar
 Miss F. Shaw

 おそらく、ライトおよびショー両夫人は数えずに4人といったのであろう。
築地ホテル
当時築地にあった築地ホテル「The Far East」より
 CMSについては、 The Japan Directoryは9名の宣教師を掲げるが、東京にはRev. J. Piperのみがおり、あとは大阪、長崎、函館に2名ずつ、新潟に1名、所在地が明らかではないのが1名(Mr. J. Batchelor)である。
 カナダ・メソジスト教会については、 The Japan Directory には3名の宣教師が掲げられているが、1名は甲府にいた。Rev. George CochranおよびRev. G. M. Meachamの2人が築地居留地4番にいたが、バード夫人が築地を訪れたとき、Meacham師はまだ沼津にいたと思われる。
 東京一致神学校は1887(明治20)年9月創立の明治学院神学部の前身である。その前年、アメリカ長老教会など三つの在日ミッションが合同で日本基督一致教会をつくり、日本人聖職者を養成することとして東京一致神学校を設立した。1877(明治10)年9月、授業を居留地6番および南小田原町4丁目8番地にあったフォールズ医師の築地病院で開始した。バード夫人の来日する7ヵ月前のことである。
 築地病院は1874(明治7)年5月、フォールズ医師が木挽町1丁目の民家ではじめた施療所を起源とする。
(136頁、図A) 新異国叢書「バード日本紀行」
表A[拡大PDF]
「バード日本紀行」
この病院については、拙著174-7頁[この頁を読む(PDF)]を参照して頂きたい。
 YMCAは、公式には1880(明治13)年に神田乃武(ないぶ)らの提唱により結成されたといわれている。バード夫人が1878年、築地居留地でみたというYMCAの部屋というのは何であったのか。
 彼女はまた、米国公使館だけが築地にあるという。1879年版 The Japan Directoryによると米国が築地居留地1番、フランスが三田、ドイツが永田町、イギリスが麹町、ロシアが外務省近く(near the Gaimusho)にそれぞれ公使館を置いていた。オーストリア・ハンガリーも公使館があったが、 The Japan Directory はアドレスを示していない。拙著の表で示したように(136頁、図A)、オーストリア・ハンガリー公使館は1876(明治9)年、築地居留地31、32番地に開設されたが、同じ年の11月29日に火災で焼失した。バード夫人が来日した1878年当時、公使館はどこにあったのか。彼女は築地にある洋風ホテルは大したことがなく、客も少ないと記述する。オーストリア・ハンガリーの公使たちはホテル住まいではなく、居留地域以外の民家で仮住まいしていたのであろうか。

 いずれにせよ、バード夫人の築地居留地の描写は非常に正確であると思う。1872年4月3日(明治5年2月26日)、「銀座の大火」と呼ばれる火事があり、築地居留地も甚大な被害を受けた。これを機会に商人の多くは横浜に移り、築地居留地にはしばらくの間、住民の主体が宣教師で占められるという状況になった。そこにバード夫人が訪れ、印象を妹に書き送ったことになる。貴重な記録であるといってよい。
 お断りしておくが、バード夫人による築地居留地の描写は筆者のものが初訳ではない。
楠家重敏ほか訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版、2002年)で同じ箇所が日本語に移されている(16-7頁)[この頁を読む(PDF)]
 筆者の感想であるが、1869年1月1日(明治元年11月19日)から1899年 (明治32)年7月17日まで築地にあった外国人居留地については、もっと多くの日本人・外国人の手になる描写があると思う。書簡や日記もあれば写真やスケッチもあろう。日本の7ヵ所にあった外国人居留地─東京のほかには函館、新潟、横浜、大阪、神戸および長崎─についての研究は十分でなく、いわば日本史研究の盲点となっている。新しい資料が掘り起こされるのを期待したい。

川崎晴朗氏プロフィール

昭和8(1933)年生まれ。昭和31(1956)年、外交官・領事官採用試験合格。昭和32(1957)年国際基督教大学教養学部卒業。同年より平成9(1997)年まで外務省に勤務。平成10(1998)年より平成16年(2004)年まで東京家政学院筑波女子大学国際学部教授。同年より現職。法学博士

著書:『幕末の駐日外交官・領事官(東西交流叢書4)』雄松堂出版 1988年
   『築地外国人居留地』雄松堂出版 1988年

63号 2006/03/25
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