横浜にあったJapan Gazette社は、関東大震災まで毎年 The Japan Directoryを刊行していた。これで日本各地に居住していた外国人について基礎的なデータを得ることができるのであるが、1879年版を繙いてみよう。この版が前年当時の築地居留地の状況を示していると考えられるからである。
バード夫人はスコットランド一致長老教会に5人の宣教師がいたという。上記 The Japan Directory によると、同教派の陣容は次の通りであった。
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Rev. Hugh Waddell
Rev. Bob Davidson
Rev. S. G. McLaren
Henry Faulds
Miss Gamble
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彼女は、SPGに4人の宣教師がいたというが、
The Japan Directoryでは次の6人があげられている。
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Rev. W. B. Wright
Rev. A. C. Shaw
Mrs. Wright
Mrs. Shaw
Miss Hoar
Miss F. Shaw |
おそらく、ライトおよびショー両夫人は数えずに4人といったのであろう。
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当時築地にあった築地ホテル「The Far East」より
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CMSについては、
The Japan Directoryは9名の宣教師を掲げるが、東京にはRev. J. Piperのみがおり、あとは大阪、長崎、函館に2名ずつ、新潟に1名、所在地が明らかではないのが1名(Mr. J. Batchelor)である。
カナダ・メソジスト教会については、
The Japan Directory には3名の宣教師が掲げられているが、1名は甲府にいた。Rev. George CochranおよびRev. G. M. Meachamの2人が築地居留地4番にいたが、バード夫人が築地を訪れたとき、Meacham師はまだ沼津にいたと思われる。
東京一致神学校は1887(明治20)年9月創立の明治学院神学部の前身である。その前年、アメリカ長老教会など三つの在日ミッションが合同で日本基督一致教会をつくり、日本人聖職者を養成することとして東京一致神学校を設立した。1877(明治10)年9月、授業を居留地6番および南小田原町4丁目8番地にあったフォールズ医師の築地病院で開始した。バード夫人の来日する7ヵ月前のことである。
築地病院は1874(明治7)年5月、フォールズ医師が木挽町1丁目の民家ではじめた施療所を起源とする。
この病院については、拙著174-7頁
[この頁を読む(PDF)]を参照して頂きたい。
YMCAは、公式には1880(明治13)年に神田乃武(ないぶ)らの提唱により結成されたといわれている。バード夫人が1878年、築地居留地でみたというYMCAの部屋というのは何であったのか。
彼女はまた、米国公使館だけが築地にあるという。1879年版
The Japan Directoryによると米国が築地居留地1番、フランスが三田、ドイツが永田町、イギリスが麹町、ロシアが外務省近く(near the Gaimusho)にそれぞれ公使館を置いていた。オーストリア・ハンガリーも公使館があったが、
The Japan Directory はアドレスを示していない。拙著の表で示したように(136頁、図A)、オーストリア・ハンガリー公使館は1876(明治9)年、築地居留地31、32番地に開設されたが、同じ年の11月29日に火災で焼失した。バード夫人が来日した1878年当時、公使館はどこにあったのか。彼女は築地にある洋風ホテルは大したことがなく、客も少ないと記述する。オーストリア・ハンガリーの公使たちはホテル住まいではなく、居留地域以外の民家で仮住まいしていたのであろうか。
いずれにせよ、バード夫人の築地居留地の描写は非常に正確であると思う。1872年4月3日(明治5年2月26日)、「銀座の大火」と呼ばれる火事があり、築地居留地も甚大な被害を受けた。これを機会に商人の多くは横浜に移り、築地居留地にはしばらくの間、住民の主体が宣教師で占められるという状況になった。そこにバード夫人が訪れ、印象を妹に書き送ったことになる。貴重な記録であるといってよい。
お断りしておくが、バード夫人による築地居留地の描写は筆者のものが初訳ではない。
楠家重敏ほか訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版、2002年)で同じ箇所が日本語に移されている(16-7頁)
[この頁を読む(PDF)]。
筆者の感想であるが、1869年1月1日(明治元年11月19日)から1899年 (明治32)年7月17日まで築地にあった外国人居留地については、もっと多くの日本人・外国人の手になる描写があると思う。書簡や日記もあれば写真やスケッチもあろう。日本の7ヵ所にあった外国人居留地─東京のほかには函館、新潟、横浜、大阪、神戸および長崎─についての研究は十分でなく、いわば日本史研究の盲点となっている。新しい資料が掘り起こされるのを期待したい。