アメリカの大学はすでに夏休みに入り、5月の末には、寮の前に車が数珠つなぎになっていた。両親、友人が荷物を運び出すのを手伝っている。卒業する学生もいるが戻ってくる学生もいる。夏の間3ヶ月、寮を開け渡すために、かれらはこまめに引越し荷物をまとめる。
30年ぶりのマサチューセッツ州ケンブリッジ短期滞在、13年ぶりのアメリカ暮らしをしている。先回、13年前にコロンビア大学を少し覗いたときには、学生が教室の最前列で、目の前で先生が講義をしているというのに、堂々と水を飲み、サンドイッチを食べているのに唖然とした。名門大学でこうなのだから、日本の大学生の授業中の食事も大目に見るべきかなどと妙に納得したものだったが、今回、また少しばかりハーヴァード大学の授業を覗かせてもらい、そういえば誰も飲み食いしていないことに気がついた。いささかほっとした。
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1.マルコムXの甥ロドネル・P・コリンズ(ロックスベリーの壁画の前で)
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2.マルコムXが率いたハーレムの第7テンプルだった建物(現在はイスラーム教育文化センター)
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3.マルコムXおよびベティ・シャボズ博士記念・教育センターの壁画(かつてオーデュボン・ボールルームがあった場所) |
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マイノリティ文学関係の研究書を何冊も出していて名高いワーナー・ソローズ先生と話していると、アメリカ文学研究の動向がわかるが、ハーヴァード大学では、かなり保守的に文学作品研究がなされているようだ。作品を読むという基本が守られている。もっともソローズ先生の学部クラスでさえ、1週間に1冊ということであるから、たやすいすいことではない。そのたびにリスポンス・ペーパーを書かされ、メールで送付するシステムになっており、インターネットとメールが使えなければ学生は確実に落第する。私にとっては難しい世の中になった。
今回、私が属しているのは、アフリカンおよびアフリカン・アメリカン研究のデュボイス研究所であり、今年度はノーベル賞作家ウォレ・ショインカが研究所の在住作家として1年間招かれていた。かつてトニ・モリスンも来所したことがあり、所長のゲイツ・ジュニアの牽引力もあって、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン研究の中心的役割を担っている。フランス・ドイツ・スペインからの研究者およびアメリカ国内の研究者がここに集まって、意見交換をし、お互いに刺激し合っている。文学研究が、象牙の塔の中でのこもった研究ではなく、アメリカ社会の要請を意識しながら、大学が予算を組み研究を奨励していることがよくわかる。
研究所主催の講演会が盛んで、ショインカが講演し、その他、アフリカン・アメリカン作家ポール・マーシャルが3回にわたる連続講演をして、アフリカン・アメリカンにとっての「水(川・大洋)」との接触を自伝風に語って心動かされた。
ケンブリッジに到着した翌週の日曜日に、私はボストンへ出かけて行った。ロックスベリーという地区に、黒人運動の活動家になったマルコムX(1925-65)が、少年のころステップ・シスターに引き取られて住んでいた家が、まだ残っているかもしれないと期待しての探索だった。
アメリカの1950年代60年代は、人種問題で揺れた時代だった。南部のかつての奴隷州では、奴隷解放後もジム・クロウ法と呼ばれる人種差別法が施行されており、公共機関・学校・乗り物・ホテル・映画館など白人用と黒人用に別れていた。それが是正されたのは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師などが指導する運動の成果で、1964年に公民権法がようやく議会を通過してからだった。その前年の1963年、「ワシントン大行進」でのキング・ジュニア牧師の「私には夢がある」という演説は名高い。非暴力の組織では生ぬるいというので、ブラック・パンサー組織が生まれ、「黒は美しい」と黒人の力を誇示するようになるのは、その後、60年代後半からである。
マルコムXは、メディアなどによってキング・ジュニア牧師と対照的に扱われてきた。そこには政治的思惑があったように思う。非暴力組織と暴力的組織の構図を意図的に勝手に描き、黒人一般大衆にカリスマ的な力を発揮していたマルコムXに、白人社会は恐怖を感じていたのだった。じっさいはマルコムXもまた非暴力の人であった。そのような思いから私のマルコムX探索は始まった。
おそらく最寄駅だろうと当たりをつけた地下鉄の駅で降りて、番地を頼りに出かけていくと、その家はかろうじて建っていた。周囲にテープが張られ、壊す予定なのかそれとも改造するのだろうか。親切な隣人が、マルコムXの甥がもうすぐ戻ってくるよ、と教えてくれた。この家は、まだその甥の所有であるらしい。私はアレックス・ヘイリーの書いた、マルコムXの『自伝』に出てくる、マルコムXが働いていたというドラッグストアや、親類に強要されて通ったという教会などを見ようとぶらりと歩きだした。
教会のあった交差点で向こうの車の中から私に合図している男がいる。それがマルコムXの甥だった。お喋り好きのようで、それから3時間あまりマルコムXとのこと、自分の母親のことを話してくれた。甥のロドネル・コリンズにとってマルコムXはビッグ・ブラザーのような存在だったという。母親のエラ・コリンズはマルコム少年に強い影響を与え、意見を異にすることはあってもマルコムXの活動を陰で支え、アフリカ訪問に際しては資金援助をしている。
かつて私が中学生から高校生だった1950年代の終わりから60年代初めにかけて、日本の新聞は、マルコムXと「ネイション・オブ・イスラム」について恐怖の暴力団体のような印象で報じていた。近頃、「黒い回教徒」と名乗る組織が、「白人は悪魔だ!」と叫んでいるという論調だった。そこには人差し指を威嚇的に突き出し、口角泡を飛ばしている風情の黒縁目がねをかけた男マルコムXの写真が添えられていた。そのマルコムXを兄としてあがめた人物と接しながら、半世紀ちかい時間の流れを経て、マルコムXが少年から青年になる時代をすごした土地で、マルコムXの話を聞いている、なんとも不思議な感覚になった。甥のロドネルは私と同世代だった。
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4.マルコムXおよびベティ・シャボズ博士記念・教育センター1階のマルコムXの銅像 |
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5.創立記念式典でマルコムXの3女イルヤサ・シャボズと著者 |
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それから1ヶ月あまりたって、私は数日間のニューヨーク旅行を計画していた。5月19日がマルコムXの誕生日だということは失念していた。マルコムX暗殺の場面になったオーデュボン・ボールルームが、今ではコロンビア大学に買収され、研究所に改築されたというので、そこを訪ねてマルコムXの銅像の写真でも撮っておこうというつもりだった。オーデュボン・ボールルームを残したいという動きもあったが、コロンビア大学の研究所になった。マルコムX像のほかは何もないものと思っていたら、大きな建物の一部の1階ホールに、キオスクと称してマルコムXの資料を映像で見せるテレビ画面がいくつか設置されている。キオスクを作成したのはコロンビア大学で、大学の厚意で研究所の1階部分と2階部分が、「マルコムXおよびベティ・シャボズ博士記念・教育センター」の受け入れの場として提供されることになった。その創立記念式典をマルコムX81歳の誕生日に合わせて行うという。ホールにいたアフリカン・アメリカンのおじさんが、明日来てごらんよと言ってくれた。前日の18日のことだった。
翌日、出かけて行くと、ニューヨークのテレビ局やプレスの人たちも来ていた。マルコムXには暗殺の数ヶ月後に生まれた双子も入れて6人の娘たちがいるが、そのうち3人が会場に姿を現した。三女のイルヤサ・シャボズとは電話でも話していたので、じっさいに会えて幸運だったが、この娘が今、一番マルコムXの精神的遺産を守ろうと努力しているようである。
マルコムXは、自分自身を知ることの大切さ、自分の「文化的アイデンティティ」を持つことの重要さを唱えていたが、センターはそのための場所になっていくのだろう。妻のベティ・シャボズは結婚前は資格のある看護婦であり、夫が暗殺された後、6人の娘を育てながら大学院に進学し博士号を取得した。いっぽうマルコムXは第8学年で教育を終わってしまったが、勉強家・読書家だったことで知られている。今その2人の遺志を継いで、コロンビア大学や地元のマンハッタン地区役所からの資金援助を受けて、イスラームおよびアフリカン・アメリカンの文化教育のために、マルコムXの名前を冠したセンターが設立された。
かつて公民権運動を二分した形で比較されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、ノーベル平和賞を授与され顕彰された。だが都会のゲットーに住む多くの黒人大衆の魂をつかんだマルコムXは、メンバーだった「ネイション・オブ・イスラム」組織に対するキリスト教徒たちの恐怖心もあって、その否定的なイメージのみがメディアによって喧伝された。それでも21世紀に入っている今、コロンビア大学も町もマルコムXの果たした役割の大きかったことを認識しなおしている。マルコムXは激しい言葉遣いで黒人大衆の心をつかみ、白人社会から恐れられたが、じっさいには非暴力の人間であった。
そのマルコムXが銃弾に斃れたのは悲劇であったのみならず、アメリカ社会にとっての大きな損失だった。アメリカ社会を構築していく上で、大きな役割を果たしたであろうと思われる天才的なアフリカン・アメリカンを失ったのだった。1965年2月21日午後3時、166丁目にあったオーデュボン・ボールルームでマルコムXは暗殺された。