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雄松堂Net Pinus 64>広島経済大学図書館所蔵稀覯書紹介

Net Pinus 64号

図書館の珠玉
大学図書館所蔵書紹介

2006/06/26
広島経済大学図書館 稀覯書紹介
広島経済大学稀覯書紹介


 広島経済大学図書館は、昭和42年経済・経営系専門大学として広島経済大学が開学した折りより開設され、優れた人材の育成のための一大基本施設として所蔵資料の充実を計ってきました。平成12年には地上4階地下2階建最先端設備で装備した新図書館を建立、視聴覚資料やデジタル資料利用の十分な設備を配置し、情報集積の迅速性、利用のための利便性、機能性を追求した新しい21世紀型図書館を構築しています。その一方で「知の系譜文庫」として、15世紀から19世紀にかけて印刷された西洋古版の今日では入手しがたい貴重な書籍も多数収蔵しており、2000年に『知の系譜−広島経済大学所蔵稀覯書目録−』(広島経済大学図書館編)として刊行された目録は、2000年度私立大学図書館協会協会賞を受賞するなど、グローバルな資料提携の場としての図書館の役割を見事に果たしています。今回はその素晴らしい稀覯書コレクションの中から5点、いずれの本もその分野の黎明を代表する世界的名著をご紹介させていただきます。

広島経済大学図書館 稀覯書室1 広島経済大学図書館 稀覯書室2
広島経済大学図書館 稀覯書室
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記事は広島経済大学図書館報『山の上』より転載しています
シェーデル(館報「山の上」No.15 Apr. 1998) 42行聖書(館報「山の上」No.7 Apr. 1994)
コペルニクス(館報「山の上」No.10 Oct. 1995) ヴェサリウス(館報「山の上」No.23 Apr. 2002)
ゲスナー(館報「山の上」No.24 Oct. 2002)

シェーデル「ニュルンベルク年代記」
Schedel, Hartmann.(1440-1514)
Liber Chronicarum.
(歴史、雄松堂から購入)

シェーデル「ニュルンベルク年代記」見開き
15世紀の中頃にドイツのマインツでグーテンベルクによって発明された活版印刷術は、ヨーロッパ各地に伝わり、15世紀末までにほぼヨーロッパ全域に広まった。ニュルンベルクに最初の印刷所が開設されたのは1470年頃であり、二番目に印刷所を開業したアントン・コーベルガーの作業所では、24台の印刷機を動かし、100人の職人が働いていたといわれ、当時ヨーロッパ最大の印刷所を営んでいた。その印刷所において1493年に挿し絵本の最高傑作の一つとされる大部な書物が刊行された。「年代記の書」というタイトルで、天地創造から同時代までを図解した歴史書であり、一般に「ニュルンベルク年代記」と呼ばれている。

 本書には、非常に多くの挿絵が入っており、挿絵の無いページのほうがはるかに少なく、天地創造に始まる聖書関連のものから人物・風景・都市図・地図までモチーフも多様で、大きさも5cm四方のものから見開きの大判まで様々であり、延べ1809点の木版画が印刷されている。この多くの図版は、工夫を凝らした巧みな配置によって本文と呼応しながらレイアウトされており、一定の大きさの図版を規則的に本文にはめ込んでゆくそれまでの方法とはまったく異なっている。そのため入念に文字と絵とが書き込まれた印刷用の稿本が作成され、それによって活字が組まれ、版木の下絵彫りの作業が進められた。この稿本と割付け書は、ニュルンベルク市立図書館に現存しており、本書の出版契約書等も保存されているなど当時のものとしては例外的に多くのドキュメントが残っている。

 本書の著者は、ニュルンベルクの医者であり人文学者として有名なハルトマン・シェーデルである。挿絵を担当したのは、画家のミヒャエル・ヴォールゲムートとヴィルヘルム・プライデンヴルフであり、ヴォールゲムートの工房では若きアルブレヒト・デューラーが徒弟として働いており本書の制作にデューラーが何らかの形でかかわった可能性も示唆されている。シェーデルは、他の歴史家の著書を多く引用してこの「年代記」を執筆しており歴史書としてはあまり評価されていないが、その挿し絵、たぐい稀なグラフィック・デザイン、印刷またその木版画や諸都市についての記述によって高く評価されている。「ニュルンベルク年代記」は、15世紀の印刷技術が生んだ偉大な作品の一つであり、グーテンベルクの「42行聖書」についで15世紀のもっとも有名な出版物である。

 本書は、ラテン語版が制作された同じ年にドイツ語版も刊行された。制作部数は推定でラテン語版1,500部、ドイツ語版1,000部とされ、現存部数も多く我が国でも、ラテン語版12部、ドイツ語版2部の所蔵が確認されており、本学図書館では、ドイツ語版も所蔵している。


「42行聖書」

Gutenberg, Johannes.(1397?-1468)
A Noble Fragment Being a Leaf of the Gutenberg Bible,1450/1455.
(聖書)

 「42行聖書」は、15世紀の中ごろドイツのマインツでグーテンベルクが発明した活版印刷術によって初めて印刷された聖書として知られている。このラテン語の聖書は、「グーテンベルク聖書」とも呼ばれ、1763年にフランスの書誌学者ド・ビュール(Franois Guillaume de Bure)によってマザラン文庫※から偶然に発見された。以来、貴重本中の貴重本として、また世界で最も高価な印刷物として有名である。
シェーデル「ニュルンベルク年代記」見開き

 グーテンベルクが印刷した聖書には、42行聖書」の他に「36行聖書」が存在する。彼の作品には「カトリコン」以外は刊地も発行年も記されていないため、どちらの聖書が先に印刷されたかについては、諸説粉々としている。しかし、現在では、最初に「36行聖書」の準備がグーテンベルク自身によって行われたが、事業資金の不足で一時中止され、印刷の事業化を企図するヨハン・フスト(Johann Fust)の援助を受けて、新たに小型の活字をつくり「42行聖書」の印刷を始め、これを完成したという説が定説になっている。

 この「42行聖書」は、1455年頃に完成されたと言われ、本の大きさは縦41cm、横30cmの大型二つ折り判で、多くは上下2巻に分かれている。本文は二段組で総数642葉、ほか目次4葉で構成され、頁1〜9は40行、頁10は41行、頁11以降は42行で刷られている。活字印刷はゴシック体の墨刷で、行のはじめの頭文字は後で手彩色するために空白になっている。印刷部数は160〜180部といわれ、そのうち4分の1が羊皮紙に、残りは手漉きの紙に印刷された。その存在が確認されたものは48部であるが、ドイツにあった2部は第二次大戦後に行方不明となり、アメリカにあった1部は1921年にニューヨークでバラバラにして売りに出されたため現存するのは実質的には45部である。

 本学で所蔵しているのは、1921年に売り出されたうちの1葉で、頭文字の部分と本文中及び天の余白には、あざやかな赤と青を使った手彩色がほどこされている。また旧約聖書レビ記の第23章の途中からの部分で、第24章では「・・・目には目を、歯には歯をもって・・・」と言う有名なくだりの部分が含まれている。

※ 文芸の保護に力を注いだと言われる、17世紀のフランスの宰相マザランが創設した文庫。


コペルニクス「天体の軌道について」
Copernicus, Nicolaus.(1473-1543)
De revolutionibus orbium coelestium.
(天文学)

「天体の軌道について」見開き
 中世ヨーロッパ社会は、古代ローマ時代に地球中心に太陽と惑星が回転しているという宇宙体系を説いたプトレマイオスの「天動説」によって、その世界観を支配されていた。これに対してポーランドの天文学者コペルニクスは、地球は太陽を回る一つの惑星にすぎないとする「地動説」を唱えた。

 コペルニクスはポーランドのトルンに商人の子として生まれ、少年時に父を亡くしたが有力な聖職者であった伯父の庇護の下に1491年にクラコフ大学に入り、96年にはイタリアのボローニア大学で法学を、パドバ大学では医学を修めた。コペルニクスは、約30年間のイタリア留学中にギリシャの古文献に触れて古代ギリシアの天文学者アリスタルコスの太陽中心説を知り、「地動説」の考えを固めたと言われる。

 コペルニクスの「地動説」は、本書によって公表されたが、本書の主要部分は1530年頃には、完成しており、またそれ以前に<要綱 Commentariolus>を書いて信頼のできる科学者達に回覧していたため、彼の説は友人間には知られていた。本書の刊行についてコペルニクスは、教会の目を恐れて慎重であったが、晩年になって友人達の勧めも断り難く、ついに彼は出版を承諾した。出版を委託されたオシアンダー(Osiander, A.)は、本書の内容が聖書の教えに反し、異端として糾弾されることを心配して、本書の理論が単なる仮説に過ぎないという弁明をつけた。本書の見本刷りができあがったのは、1543年5月24日の死の直前であった。こうして刊行された「地動説」は、予想通り当時の多くの天文学者や宗教家の激しい非難を受け、1612年にカトリック教会の禁書目録に載せられた。1757年に一度は解除されたもののその後再び禁書となった。ようやく1822年に解除され、ガリレイをはじめとし、ケプラーやニュートンらの研究・発見によってその正しさが証明された。

 本書の刊行は、天文学のみならず近世の思想界、科学界に大革命を生み、近代科学の発端となった。また、天文学を離れて社会全般に与えた影響も大きく、本書で「回転」の意味に用いられた"revoluio"は1600年頃から<革命>の意味に使われるようになり、カントはその著「純粋理性批判」第2版(1788)の序言で、従来の主観が客観に従うという立場をすてた主観的観念論への転回を<コペルニクス的転回>という言葉で表現した。


ヴェサリウス「人体の構造について」
Vesalius, Andreas, 1514-1564.
De humani corporis fabrica libri septem.
(医学、雄松堂から購入)

「人体の構造について」装丁
 近代医学は、アンドレアス・ヴェサリウスによって始まったといわれている。

 古代から中世にかけて、医学はギリシャのガレノスの学説が権威を保っており、その権威は千年以上の間、ほとんど修正されなかった。ガレノスは、古代ギリシャのヒポクラテスに次ぐ古代ローマ最大の医学者であり、ガレノスの解剖学は、その量と精密さにおいてこれに比肩するものが無かったのである。しかし、彼が解剖したのはサルや下等動物であったため、誤りが多くあった。ベサリウス以前にも、すでに13世紀ごろからヨーロッパの大学では解剖が行われていたが、実情は腑分けであり、一段高い席に陣取った教授がラテン語で書かれたガレノスの教科書を朗読し、身分の低い助手が黙々と解剖をするといった図であり、ガレノスの権威を疑う余地も無かった。しかし、ヴェサリウスは自ら多数の人体解剖を行い、実証によってガレノスの誤りを修正した。

 ヴェサリウスは、ベルギーの解剖学者、外科医で、ルネサンス最大の解剖学者であった。彼は、ブリュッセルに生まれパリ大学で医学を学んだが、戦禍のため中退し、ベルギーに戻りルーヴァン大学で勉学を続けた後、イタリアのパドヴァで解剖学を修め、23歳でパドヴァ大学の解剖学と外科学の教授に抜擢された。

「人体の構造について」図版1
「人体の構造について」図版2

 ヴェサリウスは、1543年にこの代表的著作を出版したが、本書は、略称「ファブリカ」と呼ばれ、大型フォリオ判、本文600ページ、付図300以上の大著である。本書は、彼の解剖学教授としての5年の経験と実物調査にもとづいた人体のあらゆる箇所の完全な解剖学的・生理学的研究書である。正確な表題は「人体の構造についての7つの書」であり、7つの部分、すなわち骨、筋肉、脈管、神経、腹部内臓、胸部臓器、脳および感覚器に関する詳細な解剖書であり、本書によって解剖学の歴史は変えられた。

 しかし、ヴェサリウスの実証による論述に対して、ガレノス支持の多かった当時の学者たちは猛烈に非難したため、彼は出版直後にパドヴァ大学をやめてドイツ皇帝の侍医となっている。侍医として忙しいにも拘わらず研究をすすめ、1955年にはさらに大きな第二版の「ファブリカ」を刊行し、イェルサレム巡礼の途中に50歳で客死している。

 ファブリカ初版の出版の年1543年を、多くの研究者は自然科学史上で中世から近世に移行する年とみなしている。このことは「ファブリカ」の出版が解剖学や医学の歴史だけで重要なのでなく、自然科学全体の歴史においても重要であることを示している。ポーランドでコペルニクスが地動説を発表したのも、この年である。日本人にとって興味あることに、この年は種子島に鉄砲が渡来した年でもある。


ゲスナー「動物誌」
Gesner, Conrad, 1516-1565.
Historia Animalium.
(博物学)

 
ゲスナー「動物誌」図版
ルネサンス期には、いわゆる地理上の発見ををつうじて珍しい動植物がヨーロッパにもたらされ、活版印刷術の広まりとともに、各種の図譜が刊行された。16世紀のヨーロッパでは、必ずしも博物学について学的体系化が見られたわけではないが、動植物の百科事典的記述が行なわれ、様々な著作が刊行された。ゲスナーの主著であるこの『動物誌』は、それらの書物を代表する作品のひとつに数えられている。

 ドイツ系スイス人のコンラート・ゲスナーは、自然科学者でチューリヒの大学の博物学教授として知られ、近代のプリニウスとも称される人物である。彼は、1516年に毛皮職人の息子としてチューリヒに生まれたが、生活が貧しい上、兄弟が多かったため母方の大叔父にあずけられた。チューリヒの司祭であった大叔父は植物学に造詣が深く、自宅の庭に多くの植物を栽培しており、幼いゲスナーに深い感銘を与えた。ゲスナーは、奨学金によって勉強を続け、書誌学、医学、神学などのあらゆる知識を修め、博物学者としてラテン語、ギリシャ語、仏語、英語など外国語に通じていた。

 本書は、16世紀までに観察され、記述された動物と植物に関する著作を集大成するという構想に基づいて刊行されたものである。本書の編纂に際してゲスナーは、徹底した収集と観察により分類を行なった。木版による図版は、約1,200葉を収録しており、彼自身の観察によるもののほか、それまでの多くの書物から引用した。自分の知らない動物の図は、友人を通じて広く取り寄せるとともに、様々な国からも動物を送らせスケッチした。

 動物名は、アルファベット順に配列され、それぞれの動物についての精細な挿絵とともに、(1)各国語による名称、(2)生息地、生活様式・外部および内部の形態、(3)生理学および病気、(4)習性・本能・心理的特徴、(5)動物の利用、飼育、狩猟、管理、(6)食料としての動物、(7)薬学における効用、(8)名称の語源(岩石・植物・人間・河川・都市・寓話・聖なる動物・格言に登場する動物の名称)などが記されている。

ゲスナー「動物誌」扉絵
ゲスナー「動物誌」装丁

 ゲスナーがラテン語でつけた動物名には、現代動物学の学名に受け継がれている例が多く、動物学における重要な命名者のの一人と言える。挿絵では、アルブレヒト・ヂューラーの原画をもとに製作されたサイの木版画が特に有名である。

 「動物誌」は、1551年に第1巻の刊行が始まり、たった7年という短い期間のうちにゲスナーは、フォリオ(二つ折り判)の全4巻からなる厖大な著作を刊行した。第5巻はゲスナーの没後20年経ってから、未完の遺作として出版された。内容は、第1巻が「胎生四足類」、第2巻は「卵生四足類」、第3巻は「鳥類」、第4巻は「魚類と水棲生物」、第5巻は「ヘビ類とサソリ類」についてである。予定としては、第6巻として「昆虫」があったが、刊行されることはなかった。全5巻の刊行が終わったのは1587年であった。


64号 2006/06/26
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