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新栄町七丁目および入船町八丁目につくられた八つの地所(53番−60番)は全部米国聖公会の所有に帰したので、聖公会は府が定めた地所の境界にかかわりなく、ここに建物を建設していった。これらの建物の配置を示したのが図3 [PDF]である。
1874(明治7)年2月3日、米国聖公会のウィリアムズ主教は築地で学校を開いたが(5)、これに「立教学校」の名称が与えられたのは学校が京橋区新栄町五丁目1番地の家屋に移ったあとのことである(移転は、おそらく1874年12月)。その後、ウィリアムズ主教は1880(明治13)年2月に居留地26、37および38番、また1882(明治15)年2月に25、39および40番の六つの地所を入手したが、立教学校は新栄町五丁目から京橋区築地一丁目22・23番地に移ったあと、1882年12月、37番の新校舎に入った。はじめての自前の校舎であったが、3階建てで3階が寄宿舎となっていた(6)。しかし1894(明治27)年6月20日、大地震が東京を襲い、37番の校舎は崩壊した(7)。
しかし、幸いなことに、米国聖公会は1894年の地震に先立って居留地53−60番の土地を入手しており、とくに旧新栄町七丁目に造成された53−56番では、1889年5月に入手してただちに建物の建設がはじめられた。『立教学院百年史』は、「(18)89年に53番に三一神学校校舎兼寄宿舎、39番に聖三一大聖堂を、翌年に三一神学校本館、その翌年には・・・・・54番に三一会館が出来て、築地の一角には立教関係の洋館が立ち並び、会館の高塔から鳴り渡るチャイムの音とともに築地名物にかぞえられていた」と書いている(8)。
53番の建物は図3 [PDF]の10および11で(建物14は寄宿舎であるが、あとから建てられたものであろう)、また54番の三一会館は建物12および13であるが、1890年にできたという「神学校本館」はどの建物であろうか。
米国聖公会は、1893年に落札した57−60番、すなわち旧入船町八丁目には、立教中学校の校舎、寄宿舎および事務所を新しく建設した。図3を見て頂きたいのであるが、3の寄宿舎(のち「西寮」)は1895(明治28)年12月に、また2の校舎は翌年3月、それぞれ竣工した(9)。
耕牧舎があったあたりには、5の寄宿舎東寮、一層正確にいえばその西半分があった。東寮はいつここに置かれたのか。実はこれについては時期も、また新築か否かもはっきりしないのである。
『立教中学校100年史』によると、立教学院(1899[明治32]年9月に成立)は専門学校令による大学の設立を志向し、1906(明治39)年秋、建物2の南翼にあった校長住宅を取り払い、6(大学校舎)の建設に着手、翌年早々に完成したが、これと平行する形で寄宿舎東寮の建て替え工事が実施され、間もなく終了したという(97頁)。
1901年、『立教学院歴史』が刊行された。筆者はこれを参照できなかったが、『立教中学校100年史』が引用している(67頁)。これによれば、「1899(明治32)年9月の新学期に間に合わせようと、(立教学院寄宿舎の名称のもとに)在来の西寮に加えて三一神学校から移築中であった東寮の工事を急いだ」という。菅円吉編『立教学院設立沿革史』も、中学校の校舎(図3 [PDF]の建物2)は1895(明治28)年4月から使用されたが、「その後、隣地の神学校寄宿舎の一部を切離して、本校寄宿舎の東側に移し、東寮と称した」と述べている。同書によると、寄宿舎は1895年12月に竣工したという(10)。
『立教学院歴史』などによると、図3 [PDF]の建物10には三一神学校の寄宿舎もあったが、この部分が60番に移築された(そして、神学校の寄宿舎として14を新築した)ように思える。『立教学院百年史』の図版XXIIIの説明には寄宿舎東寮は「明治32年移築」とあるが、これは『立教学院歴史』に準拠しているのであろう。
『立教中学校100年史』のいう「建て替え」はおそらく移築ではなく、もともと60番のあたりにあった建物を建て替えたという意味であろう。しかし、『立教学院歴史』では東寮は別の場所から移築されたといっているようである。建て替えまたは移築の時期も両書では異なる。
このような、一見くい違いのある記述から、誰にでも納得のできる結論を導き出すことができるか。東寮は、(i)1899年ごろ、別の場所にあった寮(三一神学校、すなわち建物10の一部)がここに移されたものか、または(ii)1906年ごろ、もともとここにあった東寮が建て替えられたものか。──どちらの記述が正しいのか、これは立教学院が手持ちの資料で判断すべきことである。しかし筆者としては、一応次のように考えたい。それは、「1899年ごろ、53番にあった三一神学校の寮がここに移築された。これが東寮であるが、神学校校舎兼寄宿舎は1889年に建てられたもので(前述)、すっかり古くなったので、1906年ごろに建て替えた」という仮説である。
この仮説を裏付ける資料があるのか否か、筆者にはわからない。いずれ、立教学院の関係者にうかがってみるつもりである。
(5) 筆者は、築地居留地19番にあった建物を借りて開校したと考えている(拙著『築地外国人居留地』第9章、とくに154-8頁)。
(6) 立教中学校100年史編纂委員会編『立教中学校100年史』(立教中学校、1998年)、31頁。
(7) 同、35頁。
(8) 海老沢有道編『立教学院百年史』(立教学院、1974年)、189頁。
(9) 『立教学院百年史』によると、57−60番に校舎を新築することは1893(明治26)年7月に決定され(当時、校舎2階が寄宿舎にあてられていたという)、「5階建の新校舎と、中央のいわゆる六角塔など全計画が竣工したのは、1899年7月であった」と述べている(197、218頁)。なお、1896(明治29)年4月、立教学校を廃し、立教尋常中学校が設置された。これは、1899(明治32)年4月、立教中学校と改称された(『立教中学校100年史』、45、49頁)。
(10) 32-3頁。『立教学院設立沿革史』は1954年、立教学院八十年史編纂委員会により刊行された。校舎(図3 [PDF]の建物2)は、そのわきに六角塔校舎(建物1)があるので「六角塔校舎」と呼ばれた。同書37頁に写真がある。また、「本校寄宿舎」というのは図3の建物3のことで、東寮ができたあとは「西寮」となった。
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