Pinus_logo Pinus_logo Pinus_logo
雄松堂Net Pinus 64>芥川龍之介の生誕地をめぐって

Net Pinus 64号

雄松堂出版刊『築地外国人居留地』補遺

2006/6/26
芥川龍之介の生誕地をめぐって

川崎晴朗氏プロフィール

昭和8(1933)年生まれ。昭和31(1956)年、外交官・領事官採用試験合格。昭和32(1957)年より平成9(1997)年まで外務省に勤務。平成10(1998)年より平成16年(2004)年まで東京家政学院筑波女子大学国際学部教授。同年より愛知大学国際問題研究所客員研究員現職。法学博士

著書:『幕末の駐日外交官・領事官(東西交流叢書4)』雄松堂出版 1988年
   『築地外国人居留地』雄松堂出版 2002年

愛知大学国際問題研究所 客員研究員 川崎晴朗
1

 芥川竜之介は、1892(明治25)年3月1日、東京府京橋区入船町八丁目(現在の住居表示では東京都中央区明石町10番)で生まれた。当時ここは東隣りの新栄町七丁目と共に築地外国人居留地の予備地で、芥川の実父、新原敏三はその一隅で耕牧舎を経営していた。筆者はNet Pinus 62号(2005年12月27日)で、耕牧舎のあったあたりは現在では聖路加看護大学の敷地の一部になっている旨を述べた。
 それでは、入船町八丁目が新栄町七丁目と共に築地居留地に編入されることが本決まりになり、東京府の要請で新原敏三など住民が立ち退いた直後、耕牧舎の跡地はどうなったのか。本稿はこの問題を取り上げたものである。あるいは、本稿とNet Pinus 62号の稿とは順序を入れ替えるべきだったのかも知れない。
 筆者は岩波書店『文学』2004年3・4月号に寄せた拙稿で、外務省外交史料館所蔵のファイル「東京外国人居留地取拡一件」(3・12・2・22)に含まれている1888(明治21)年当時の新栄町七丁目および入船町八丁目の住宅地図を紹介した。これには新原の所有する建物(住居・耕牧舎)が描かれているが、100年以上の歳月を経て埃をかぶり、かなり汚れている。『文学』にはCG処理を行ったものを載せたが、図1 [PDF]はこのような処理が加えられていないものである。
 ちなみに、新栄町七丁目には53番から56番までの四つの地所(lot)が造成され、1889(明治22)年5月16日、外国人を対象に競売が行われ、また入船町八丁目には57番から60番まで、やはり四つの地所がつくられ、南側の57番および58番は1893(明治26)年10月17日、また北側の59番および60番は同年12月8日に競売に付された(図2 [PDF])。計八つの地所は、いずれも米国聖公会が落札した。
 各地所の面積(道路部分を含む)は、次の通りであった。

53番 487坪2合 57番 498坪9合1勺
54番 488坪8合
58番 367坪8合
55番 490坪4合
59番 366坪6合
56番 466坪6合4勺 60番 365坪4合

合計3、531坪7合5勺であって、居留地全体の面積(29,173坪3合5勺)の約12.1%である(1)
 周知のように、日本では1899(明治32)年7月に居留地制度が撤廃されたが、このときから築地居留地(もちろん、新栄町七丁目および入船町八丁目を含む)は東京府京橋区明石町となった。現在の東京都中央区明石町である。

(1) 東京都編・刊『都史紀要』4、『築地居留地』(1957年)、附表B。

2

 北川千秋氏は、新原敏三が耕牧舎の経営に乗り出した1883(明治16)年ごろの新栄町七丁目および入船町八丁目について、当時このあたりは野草の生えるにまかせた原っぱで、南に寄ったところに日本人の家屋が3軒ほどあった、耕牧舎はそのうちの一つで、他に車屋があった、といっている(2)
 日本人の家屋が3軒あった云々は、明らかに竜之介の姉のヒサの次のような回想によるものである。

 私達姉弟が生れた築地入船町は、其当時外人居留地になつて居て、日本人で戸を構へてゐるのは三軒きり。新原家の隣りは車屋(其姓は知らず)。此車やは外人目的、其当時は交通の便悪ければ何よりも重宝がられてゐた(3)

 入船町八丁目は、1893年になってはじめて居留地となった。ヒサの回想では、この点があいまいになっている。
 一方、「野草の生えるにまかせた原っぱ」という描写は、明らかに北川氏が土地の故老から聞き出したものである。北川氏は1902(明治35)年生まれであるが、1941(昭和16)年11月から1967(昭和42)年10月まで築地の聖路加国際病院に勤務した。その後も、1985(昭和60)年の死没まで、同病院の嘱託であった(筆者は、1982年、北川氏が嘱託をしておられたころ1度お会いした)。同氏が聖路加国際病院に勤めていたころは、まだ居留地時代の築地を知る人々が相当数生きていたであろう。同氏はしばしばこういった人々を訪ね、聞き書きを行った。その努力は正当に評価しなければならない。
 しかし、北川氏は、日本人の3軒の家は(新栄町七丁目および入船町八丁目の)南に寄ったところに建っていた、と述べる。同氏は、居留地でも道路などに予定された場所は日本人にも貸していたそうである、したがって3軒の家は斜掛け道路にあたる場所にあったということになる、と書いている。しかし、耕牧舎があったころの新栄町七丁目および入船町八丁目はまだ居留地ではない。また、『文学』の拙稿で明らかにしたように、斜掛け道路の建設は1888(明治21年)年7月になってようやく計画されたものである。新原敏三が1883年に築地で耕牧舎を開業したころ、新栄町七丁目にも入船町八丁目にも斜掛けの道路はなかった。図2 [PDF]および図3 [PDF]で明らかなように、この道路がこの二つの町域の南に寄ったところにつくられたことは事実である。しかし、道路が完成したときは、新原を含む日本人は全部立ち退いていた。
 北川氏は、3軒の日本人の家屋の一つは馬越恭平氏のものであったともいっている。『文学』で述べたように、馬越氏が入船町八丁目に住むようになったのは1888年以降である。北川氏の誤りであるといわねばならない。
 率直に申し上げることをお許し願えるならば、北川氏の記述は複数のソースからの情報をとりまぜたものである。資料の引用にあたっては、やはり個々のソースを明白にしなければいけないと思う。

(2) 『築地明石町今昔』(聖路加国際病院礼拝堂委員会、1986年)、157-8頁。

(3) これは岩波書店『芥川龍之介全集』月報第2号(1934年12月刊)に載っているという。筆者はこれを参照できなかったため、関口安義『芥川龍之介と聖書』(小沢書店、1955年)より再引用した(10頁)。

3

 新栄町七丁目および入船町八丁目を築地居留地の予備地とする考えは、1872年8月8日(明治5年7月5日)、外務卿副島種臣(そえじまたねおみ)が諸外国の駐日公使に提案したもので、居留地に編入されるまで日本人が東京府から土地を借り居住できることとなったが、すでに述べたように、ヒサの記憶では10年後の1883年ごろになっても、ようやく3軒ほどが存在するだけであった。しかし、それからわずか5年後、すなわち図1 [PDF]が東京府の手で作成されるまでに、新栄町七丁目および入船町八丁目、とくに入船町八丁目には相当数の日本人が住み付くようになったのである(4)
 新原敏三はここで乳牛を飼い、牛乳やバターを製造していた。居留地の外国人にとって、彼は車屋同様、大変に有難い存在であったに違いない。当初、彼は「野草の生えるにまかせた」予備地で牛を自由に放ち飼いにしていたことであろう。しかし、周囲には家屋がだんだんと立て込んできた。図1 [PDF]を見ると、入船町八丁目の南東隅に加藤満という人が住んでいたこと、そして彼が新栄町七丁目の大部分の土地を府から借りていたことがわかる。新原は、加藤の了承を得て、相変わらず乳牛の放牧をつづけていたことが想像される。
 しかし、1889年5月、前述したように新栄町七丁目の土地は米国聖公会の手に移り、建物が建設されるようになった。1893(明治26)年、新原は芝区新銭座町に店を移すのであるが、それ以前から飼牛を少しずつ芝に移動させていたのではないか。
 築地と芝とはおたがいに近い。新原は搾乳を芝で行うようになっても、築地にいる顧客には、これまで通りミルクやバターを届けていたことであろう。

(4) それも、社会的な地位があり、また富裕階級に属する人が多かった。この点については、筆者が近く学燈社『国文学』に発表する拙稿を参照されたい。

4

 新栄町七丁目および入船町八丁目につくられた八つの地所(53番−60番)は全部米国聖公会の所有に帰したので、聖公会は府が定めた地所の境界にかかわりなく、ここに建物を建設していった。これらの建物の配置を示したのが図3 [PDF]である。
 1874(明治7)年2月3日、米国聖公会のウィリアムズ主教は築地で学校を開いたが(5)、これに「立教学校」の名称が与えられたのは学校が京橋区新栄町五丁目1番地の家屋に移ったあとのことである(移転は、おそらく1874年12月)。その後、ウィリアムズ主教は1880(明治13)年2月に居留地26、37および38番、また1882(明治15)年2月に25、39および40番の六つの地所を入手したが、立教学校は新栄町五丁目から京橋区築地一丁目22・23番地に移ったあと、1882年12月、37番の新校舎に入った。はじめての自前の校舎であったが、3階建てで3階が寄宿舎となっていた(6)。しかし1894(明治27)年6月20日、大地震が東京を襲い、37番の校舎は崩壊した(7)
 しかし、幸いなことに、米国聖公会は1894年の地震に先立って居留地53−60番の土地を入手しており、とくに旧新栄町七丁目に造成された53−56番では、1889年5月に入手してただちに建物の建設がはじめられた。『立教学院百年史』は、「(18)89年に53番に三一神学校校舎兼寄宿舎、39番に聖三一大聖堂を、翌年に三一神学校本館、その翌年には・・・・・54番に三一会館が出来て、築地の一角には立教関係の洋館が立ち並び、会館の高塔から鳴り渡るチャイムの音とともに築地名物にかぞえられていた」と書いている(8)
 53番の建物は図3 [PDF]の10および11で(建物14は寄宿舎であるが、あとから建てられたものであろう)、また54番の三一会館は建物12および13であるが、1890年にできたという「神学校本館」はどの建物であろうか。
 米国聖公会は、1893年に落札した57−60番、すなわち旧入船町八丁目には、立教中学校の校舎、寄宿舎および事務所を新しく建設した。図3を見て頂きたいのであるが、3の寄宿舎(のち「西寮」)は1895(明治28)年12月に、また2の校舎は翌年3月、それぞれ竣工した(9)
築地外国人居留地
 耕牧舎があったあたりには、5の寄宿舎東寮、一層正確にいえばその西半分があった。東寮はいつここに置かれたのか。実はこれについては時期も、また新築か否かもはっきりしないのである。
 『立教中学校100年史』によると、立教学院(1899[明治32]年9月に成立)は専門学校令による大学の設立を志向し、1906(明治39)年秋、建物2の南翼にあった校長住宅を取り払い、6(大学校舎)の建設に着手、翌年早々に完成したが、これと平行する形で寄宿舎東寮の建て替え工事が実施され、間もなく終了したという(97頁)。
 1901年、『立教学院歴史』が刊行された。筆者はこれを参照できなかったが、『立教中学校100年史』が引用している(67頁)。これによれば、「1899(明治32)年9月の新学期に間に合わせようと、(立教学院寄宿舎の名称のもとに)在来の西寮に加えて三一神学校から移築中であった東寮の工事を急いだ」という。菅円吉編『立教学院設立沿革史』も、中学校の校舎(図3 [PDF]の建物2)は1895(明治28)年4月から使用されたが、「その後、隣地の神学校寄宿舎の一部を切離して、本校寄宿舎の東側に移し、東寮と称した」と述べている。同書によると、寄宿舎は1895年12月に竣工したという(10)
 『立教学院歴史』などによると、図3 [PDF]の建物10には三一神学校の寄宿舎もあったが、この部分が60番に移築された(そして、神学校の寄宿舎として14を新築した)ように思える。『立教学院百年史』の図版XXIIIの説明には寄宿舎東寮は「明治32年移築」とあるが、これは『立教学院歴史』に準拠しているのであろう。
 『立教中学校100年史』のいう「建て替え」はおそらく移築ではなく、もともと60番のあたりにあった建物を建て替えたという意味であろう。しかし、『立教学院歴史』では東寮は別の場所から移築されたといっているようである。建て替えまたは移築の時期も両書では異なる。
 このような、一見くい違いのある記述から、誰にでも納得のできる結論を導き出すことができるか。東寮は、(i)1899年ごろ、別の場所にあった寮(三一神学校、すなわち建物10の一部)がここに移されたものか、または(ii)1906年ごろ、もともとここにあった東寮が建て替えられたものか。──どちらの記述が正しいのか、これは立教学院が手持ちの資料で判断すべきことである。しかし筆者としては、一応次のように考えたい。それは、「1899年ごろ、53番にあった三一神学校の寮がここに移築された。これが東寮であるが、神学校校舎兼寄宿舎は1889年に建てられたもので(前述)、すっかり古くなったので、1906年ごろに建て替えた」という仮説である。
 この仮説を裏付ける資料があるのか否か、筆者にはわからない。いずれ、立教学院の関係者にうかがってみるつもりである。

(5) 筆者は、築地居留地19番にあった建物を借りて開校したと考えている(拙著『築地外国人居留地』第9章、とくに154-8頁)。

(6) 立教中学校100年史編纂委員会編『立教中学校100年史』(立教中学校、1998年)、31頁。

(7) 同、35頁。

(8) 海老沢有道編『立教学院百年史』(立教学院、1974年)、189頁。

(9) 『立教学院百年史』によると、57−60番に校舎を新築することは1893(明治26)年7月に決定され(当時、校舎2階が寄宿舎にあてられていたという)、「5階建の新校舎と、中央のいわゆる六角塔など全計画が竣工したのは、1899年7月であった」と述べている(197、218頁)。なお、1896(明治29)年4月、立教学校を廃し、立教尋常中学校が設置された。これは、1899(明治32)年4月、立教中学校と改称された(『立教中学校100年史』、45、49頁)。

(10) 32-3頁。『立教学院設立沿革史』は1954年、立教学院八十年史編纂委員会により刊行された。校舎(図3 [PDF]の建物2)は、そのわきに六角塔校舎(建物1)があるので「六角塔校舎」と呼ばれた。同書37頁に写真がある。また、「本校寄宿舎」というのは図3の建物3のことで、東寮ができたあとは「西寮」となった。

5

 図1 [PDF]および図2 [PDF]を比較すると、耕牧舎の跡地は大体、居留地60番の東半分および59番の一隅(北東部分)に相当することがわかる。1893年末、米国聖公会の所有地となったが、どうやら数年間は空き地であったらしい。
 この空き地のあたりに立教学院寄宿舎東寮(正確にはその西半分)ができるが、それが1899年にここに移された寮であったにせよ、1906年に建て替えられた寮であったにせよ、この状況は1923(大正12)年9月の関東大震災までつづく。これに先立つ1918年(大正7)年6月、立教大学は池袋に移転していたが、こんどは立教中学校も池袋に移った。この間、1899(明治32)年7月、築地居留地は廃止され、京橋区明石町となった。
 1896(明治29)年6月13日、米国聖公会のウィリアムズ主教の努力により、居留地37番に築地病院が開院したが、1901(明治34)年2月、これが聖路加病院として再開業し(11)、同病院はトイスラー院長(Dr. Rudolf B. Teusler)の下、周囲に用地をひろげていった。震災後の1924(大正13)年6月、米国聖公会本部は旧新栄町七丁目および旧入船町八丁目(明石町53−60番地)を含む築地の所有地を聖路加メディカル・センターに譲渡した。病院はここに6階建の新病院(地下1階)を建設することを決定、1928(昭和3)年1月、基礎工事がはじまった。これは、芥川龍之介が死んだ翌年にあたる。
 新病院(聖路加国際病院)が完成したのは1933(昭和8)年6月で、外来棟、看護大学、礼拝堂などを収容するものであった。もっとも、礼拝堂の部分については、Net Pinus 62号で述べたように、1935(昭和10)年8月に建設を開始し、翌年11月に完成した。この礼拝堂のあたりが、まさに耕牧舎の跡地なのである。
 聖路加国際病院は1982年(昭和57)年、病院とその関連施設の再開発事業に着手した。いまや新病院はかつての居留地37番を含む一画(明石町9番)でその威容を誇っている。いい換えれば、病院は開業(そして再開業)当時の場所に「里帰り」したことになる。しかし、1936(昭和11)年11月に竣工した礼拝堂を含む旧病院の一部はほぼそのまま残され、病院1号館となっているのである。

(11) 拙著『築地外国人居留地』、202-7頁。聖路加国際病院は、何故かその開業を1902(明治35)年2月としている。なお、居留地37番は、居留地廃止後に京橋区明石町37番地となった。明石町23-27番地および37-41番地が現在の中央区明石町9番である。

64号 2006/6/26
 [目次に戻る]  

Net Pinus