今回の学会で印象に残ったことは些細なことであるが、ある研究発表会場で起こった日米の文化的相違であった。アルドン・ニールセンとローリ・ラミーの編による『さよならしてもいなくなったわけじゃない―アフリカン・アメリカンによる革新的詩作品アンソロジー』(アラバマ大学出版局、2006年刊)というアフリカン・アメリカン詩作品のアンソロジー刊行にちなんだ発表を聞きに行ったときのことである。このアンソロジーの序文にはラングストン・ヒューズが革新的な詩『ママにきけ』で橋渡しをした革新的な若手詩人が再評価されていると書かれている。
この『さよならしてもいなくなったわけじゃない』にちなんだ研究発表会場ではアフリカン・アメリカン作家のイシュミエル・リードがこのアンソロジーに入っている自作の詩を読み上げ興味深かったが、その直後に聴衆のなかから一人の老婦人がやおら立ち上がって、この場は詩をみなで楽しむところだからと言って自作の詩を朗読し始めた。初めのうちはパネリストや聴衆が「おいおい、何が起こったんだ」という様子で見ていたが、この女性が朗読を了えたときには最後にはみな拍手で迎えた。これが実になごやかで心温まる光景であった。もし仮にこのようなことが日本で起こったらどうなっていただろうか。日本人の研究者はどのような反応を示すだろうか。私はこの日米の違いを想像しながらこれが学会中ずっと気になって考えていた。
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詩人のアル・ヤングにサインをもらう
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学会にはもう一人、アフリカン・アメリカンの詩人アル・ヤングが、近隣在住ということでゲストとして詩の朗読と講演を行った。ヤングはカリフォルニア州桂冠詩人としてカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーにパーティーへ招かれ、そのとき知事と交わしたユーモラスな対話についての講演を行った。ヤングは親切にも私がその場で買った彼を最新桂冠詩人として特集号とした『シアトル・レヴュー』28 (2) (2006年5月)を含め、4冊の詩集すべてにサインしてくれた。
私はこの学会参加中ふと思い立ち、せっかくサンフランシスコで行われているこの学会に参加しているのだから、ついでに近くにあるラングストン・ヒューズが1933年に一年間過ごしたカーメル(正式には「海辺のカーメル」という)へ行ってみることにした。カーメルは俳優のクリント・イーストウッドが1986年の4月に市長に当選して2年間任期を勤めたことで話題になった芸術家村である。
カーメルはサンフランシスコから約200キロ南に下ったところにある太平洋に面した海岸線上に位置する小さく美しい町である。車で行けばサンフランシスコから3〜4時間ほどで行くことができる。その途中にはサリーナスのスタインベック・センターもあって、道路の両側に広がるレタス畑は『エデンの東』を思い出させられ、アメリカ文学研究者にとっては興味の尽きないところである。
ヒューズはまず1932年にサンフランシスコでノエル・サリヴァン(1890-1956)と出会った。サリヴァンは、アメリカの慈善家、美術品収集家、歌手であり、カーメルに住んで慈善活動に積極的に参加し、カーメル音楽協会やモンテレー郡交響楽団の理事会のメンバーを勤めていた。
ヒューズは1933年にこのサリヴァンの招待を受け、カーメルにあるサリヴァンの家である山小屋「エネスフリー」で一年間の贅沢な執筆生活を送った。ヒューズがカーメルにいたあいだ、サリヴァンはヒューズに執筆と休息の時間を与えることでヒューズの仕事を支援し、彼の生活費用をすべて支払ったのである。ヒューズはここを離れたあとも長年にわたって何度も訪れている。ヒューズにとってカーメルの滞在がいかに恵まれたものであったかは、1930年代のアメリカ社会のことを考えれば容易に想像がつく。1930年代といえばヒューズも深く関わったアラバマ州のスコッツボロ事件を思いつく。アフリカン・アメリカンの少年が白人女性を強姦した罪で裁判にかけられ、たった25分の審理で死刑判決を受けた事件である。これは冤罪かつ合法的リンチであると、国を挙げての批判にさらされ、大論争が巻き起こった。
また歌手のビリー・ホリデイが、リンチで木から吊されたアフリカン・アメリカンを「奇妙な果実」となぞらえて歌ったのも1930年代である。オクラホマ州では白人居住区にアフリカン・アメリカンが居住しようとして暴動になり、州知事が戒厳令を発することを余儀なくされたのも1933年である。これほど人種差別のきびしかった1930年代のアメリカで、リベラルなカリフォルニア州とはいえこれだけ自由な環境で執筆活動に専念できたのがいかに幸運であったかは、ヒューズ自身が一番よく知っていたはずである。
ヒューズはカーメルの滞在中に詩人かつ劇作家のロビンソン・ジェファーズ(1887-1962)、ジャーナリスト・作家であるリンカーン・ステフェンズ(1866-1936)、その他の作家・芸術家とも知り合いになった。こうした文人・芸術家たちとの交流がヒューズの文学に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。
この当時31歳であったヒューズは心身ともに充実しており、カーメルでの一年で短編集『白人さんのやり方』(1934)、自伝『ぼくは多くの河を知っている』、カーメルの海岸に打ち寄せる波を描く詩「月光の夜―カーメル」(1934)、カーメルからさらに20キロほど南へ下った景勝地の自然の美しさをたたえる3行の詩「ビッグサー」(1941)などの重要な作品を生み出した。
ヒューズはカーメル滞在中に詩の朗読会を行った。その会のあとに、ヒューズはロビンソン・ジェファーズから、ジェファーズ自身がカーメルの海岸沿いに建てたホーク・タワー(鷹の塔)、トア・ハウスに招待された。この家のすぐ向こう側には太平洋が眼下に広がっている。ここでヒューズは集まった詩人や芸術家たちと文学を論じ、詩作を行った。
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ホーク・タワー(鷹の塔)とトア・ハウス(ごつごつ岩の家) |
このホーク・タワーとトア・ハウスはいまは観光地となっていて一般公開されている。私がここを訪れたとき、入り口にはもそもそ語る老ガイドがいた。一度に6人までしかガイドを引き受けないし、私が今日最後のガイドの相手だという。入り口の小屋に写真があったのでそれを見ると、ジェファーズがカーメルに来たときこのあたり一帯は荒涼とした野原で何もなかったが、何年もかかってジェファーズが一人で石を積み上げてトア・ハウスとホーク・タワーを作ったことがわかる。
ヒューズがここに来て1年住んだとき、庭に何度も立ったことだろう。そしてここから雄大な太平洋を眺め、それからトア・ハウスのなかへまた入っていったのだろう。ジェファーズは、自ら名付けたこのホーク・タワー(鷹の塔)の名でわかるとおり、鷹には深い思い入れがあり、「傷つきし鷹」という詩も残している。この詩は、神をも恐れぬ人間(鷹)の所業も、死ぬときには神と人生の真の価値を知ることだろう、と詠むものである。
カーメルの町並みはアウトレット・モールが並び一見すると軽井沢のようであり、海岸線は東尋坊のような絶景が広がっている静かな美しい町である。しかし、私はただ海岸まで行って砂浜から遠くを見つめていたが、海岸線はじっと立っていられないほど風が強く、吹き上げてくる風によって松がひしゃげてしまうほどで、その自然のきびしさも印象に残った。
ヒューズはカーメル滞留のころ、キリストを揶揄する詩「さよなら、キリスト」に対する世間の反応に落胆し病を得、人生の苦い一面をも味わっていた。しかし、サリヴァンのような慈善家やジェファーズのような詩人と出会って、人生の楽しくも美しい一面も同時に味わっていた。ヒューズはジェファーズのこの詩に詠まれた鷹のように、このホーク・タワーから海を眺めては、人生の楽しさと厳しさとをかみしめていたに違いない。私は、そのようなことを考えながら、トア・ハウスとホーク・タワーとのあいだに輝く太平洋を眺めていると、ヒューズの詩を一層理解できるような思いになった。