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雄松堂Net Pinus 65>立教学校はどこで生まれたか

Net Pinus 65号

雄松堂出版刊『築地外国人居留地』補遺

2006/09/25
立教大学はどこで生まれたか

川崎晴朗氏プロフィール

昭和8(1933)年生まれ。昭和31(1956)年、外交官・領事官採用試験合格。昭和32(1957)年より平成9(1997)年まで外務省に勤務。平成10(1998)年より平成16年(2004)年まで東京家政学院筑波女子大学国際学部教授。同年より愛知大学国際問題研究所客員研究員現職。法学博士

著書:『幕末の駐日外交官・領事官(東西交流叢書4)』雄松堂出版 1988年
   『築地外国人居留地』雄松堂出版 2002年

愛知大学国際問題研究所 客員研究員 川崎晴朗

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 立教学校は、1874(明治7)年2月3日、東京築地の一画で産声を上げた。創設に関わったのは米国聖公舎のウィリアムズ主教(Channing M. Williams)、クーパー(William B. Cooper)、ブランシェー(Clement T. Blanchet)およびニューマン(Charles H. Newman)の4人である。
 問題は、立教学校が築地のどこで誕生したかということである。拙著『築地外国人居留地』(雄松堂、2002年)でこれが築地居留地をめぐる最大の謎であると書いたが(149頁)、この問題は開校後130年余を経過した現在でもまだ終着を見ていない。筆者は、立教学校の生誕地は築地外国人居留地19番であるという考えであるが、その理由は拙著で、また立教大学諸聖徒礼拝堂Chapel Newsの1999年9月──2000年2・3月号で詳しく述べた。
 しかし、立教学校は築地居留地でなく、その北および南側にひろがる日本人街に設定された相対借り地域のどこかで発祥したという説が依然として根強く唱えられている。立教大学の山田久美子教授訳『ロングフェロー日本滞在記─明治初年、アメリカ青年の見たニッポン─』(平凡社、2004年)の末尾で、日本写真芸術学会評議員の石黒敬章氏が、立教学校がスタートしたのは相対借り地域においてであった公算が大であると主張されている(374-9頁)。そこでもう一度、この問題を取り上げることとしたい。



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  立教学校の生誕地がどこであったかを知る上で、次の2点に留意する必要がある。

(1)幕府は1867年11月26日(慶應3年11月1日)、諸外国の駐日公使と「外国人江戸ニ居留スル取極」を締結したが、これにより本来の意味の居留地(筆者は「狭義の居留地」と呼ぶ)および相対借り地域の二つを築地に設定した。そして、「狭義の居留地」については日本側がすでにある家屋を撤去して地所を造成し、外国人にこれら地所を貸与する、また「相対借り地域」では外国人が日本人から家屋を借りて住むことができるとした。すなわち、外国人が住宅、事務所、学校、教会などの建物を新築する場合は、「狭義の居留地」で地所を入手するより他はなかったのである。

(2)『エヴァンジェリン』などの作品で高名な米国の詩人ロングフェロー(Henry W. Longfellow)の長男チャールズ(Charles A. Longfellow)は1871年6月25日(明治4年8月11日)に来日、1873(明治6)年2月21日に横浜を離れたが、彼はその間、築地に武家屋敷風の家屋を構えていた。そして約一年後、この家屋で立教学校が開校した。つまり、チャールズの住居が判れば立教学校の発祥地が判るのである(注1)

(注1)1998年、Christine Wallace Laidlaw 編のCharles Appleton Longellow: Twenty Months in Japan 1871-1873 (Cambridge, Mass.; Friends of the Longfellow House) が刊行された。拙著でも、版元の許可を得て写真を1葉転載したが(160頁)、これに先立ち、立教大学の鈴木範久教授が『立教大学コミュニティ福祉学部紀要』の創刊号(1993年3月刊)でLaidlaw の書物を紹介された。筆者も立教史学会『史苑』の第60巻第2号(2000年3月刊)で若干のフォロー・アップをさせて頂いた。つづいて山田教授の前掲の訳書が上梓の運びとなったのである。


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 チャールズは家族にあてた手紙では自分の住居を「東京の家」(my house in Yedo)といっているだけで、正確な位置を示していない。この家が完成したのは1872年2月末と思われるが、外交官・領事官でもなかったチャールズが東京に住むとすれば、築地居留地においてでなければならない。
 筆者が何よりも強調したいのは、チャールズの住居が新築であったという点である。彼は1872年11月7日(明治5年10月7日)付の妹エディスにあてた手紙で、ぼくが東京に建てた家の写真を欲しいというので(You asked for a photo of my house that I had built in Yedo)、一枚送ると言っている(原書174-8頁、山田訳218-9頁)。また、ウィリアムズ主教は、1874(明治7)年2月4日付米国聖公会本部あて書簡で、築地で最初に借りた家屋から別の家屋に引っ越したことを報告しているが、この書簡で2軒目の家屋につき、「これは詩人ロングフェローの息子が自分の居住用に建築した家屋です」(It was built by the son of the poet Longfellow for his own use)と述べている(拙著152頁)。
 チャールズ自身が「東京に建てた家」といい、これを借りたウィリアムズ主教が「(チャールズが)建築した家屋」といっていることが判る。そして外国人が築地居留地に建物を新築するとなれば、「狭義の居留地」でなければならなかったのである。したがって、立教学校は、ipso facto(おのずと)狭義の居留地で発祥したことになる。筆者は、新資料も使用し(注2)、それが居留地19番であり、チャールズはこの土地の所有者、Ernest Seyd(横浜に住むドイツ人商人)の許可を得てここに建物を建てた、と結論したのである。

(注2)東京市政調査会『都市問題』第90巻第12号(1999年12月刊)、「立教学校の発祥地を求めて」を参照されたい。



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 石黒敬章氏による相対借り地域説の根拠の一つは、「これだけの武家屋敷を、わずか2ヶ月から6ヶ月でつくれるはずもないだろう」という同氏のお考えである(377頁)。「狭義の居留地」で外国人が建物をつくる場合、日本側に建築許可を求める必要はなく、また当時は大火・耐震に対しては殆ど配慮しなかったため、工期は驚くほど短かった。日本の大工、左官、屋根葺きなどは優秀で、簡単な間取り図や外観図を示せば、その通りの建物をつくった(注3)
 1868年9月3日(慶應4年7月17日)、江戸は東京となったが、各藩は藩士のほとんどを国許に引揚げ、旧江戸にあった武家地の邸は荒廃した。当初、新政府は各藩が大名邸を町人に売却しても差し支えないと布告した(注4)。また、取り壊される屋敷も多かった。この様な旧武家屋敷から大工などが移築した構造物もあったであろう。
 ようやく1871年4月26日(明治4年3月7日)になって政府は「自今外囲門堀長屋向玄関表座敷建築取毀候節ハ一応東京府ヘ可伺出・・・。」との布告を出し、武家屋敷をなるべく保存し、官庁用建物・官員用住居に供する方針を取った(注5)。チャールズが来日する数カ月前のことである。
 当時の東京ではまだ武家屋敷の冠木門や石灯籠など、チャールズは大工などを通じ自由に購入できたであろう。
 もう一つ付け加えたい。チャールズは1872年8月4日(明治5年7月1日)に付書簡で、「自分の家は2000ドル以上の価値がある」という(原書145頁、山田訳183頁)。チャールズが日本にいつまで滞在するつもりであったか判らないが、永住する考えであったと思えない。そのような場合、大金を出して住居を確保しようとするであろうか──という疑問が当然に生まれると思う。石黒氏も同じ疑問を呈しておられる(138頁)。
 しかし、チャールズは金には困っておらず、また、1873(明治6)年2月10日付書簡で、「家を売り払うという考えなどない時期に、1ダースばかりの人がそれを手に入れたいといった」と書いている(原書181頁、山田訳227頁)。外国人にとって住宅難であった当時を考えれば、建物にいくら金を使っても、それはあとで取り戻すことができたのである。

(注3)筆者は、築地居留地に住んだ最初の宣教師は米国長老教会クリストファー・カロザース(Christopher Carrothers)であると考えているが(『史苑』第61巻2号(2001年3月刊)、拙稿)、彼は1870年6月2日(明治3年5月4日)、狭義の居留地で6番の地所を入手した。建物は2階建てで、同年10月1日(9月7日)前後には既に居留可能となっていた。カロザース夫人の著書によると、「木造で、タイル張りの屋根と壁でできており、本物のドア、窓および煙突が自慢の種であった。上のヴェランダからは、通り過ぎる小舟や帆船の中までのぞけるようであった」(Julia D. Carrothers, The Sunrise Kingdom [Philadelphia: Presbyterian Board of Publication, 1879], pp.91-2)。これが築地居留地というより、東京でつくられた最初の洋館であり、しかも、日本人の棟梁はそれまで洋館を建築した経験がなかった(『都市問題』第83巻第1号[1992年1月刊])。チャールズの住居は平屋でシンプルな構造であり、しかも和風のものであった。建設期間は非常に短かった筈である。

(注4)東京都編・刊『都史紀要』13、『明治初年の武家地処理問題』(1965年)、45頁。

(注5)同、100頁。



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 拙著で述べたように、筆者は立教学校のみならず聖路加病院も米国聖公会ウィリアムズ主教が東京に残した遺産であると考えているが、前者についてはいつ発足したかは判っているが発祥地がはっきりせず、また後者についてはどこにつくられたかは判明しているが、発祥の日時が確定されていない。それぞれがウィリアムズ主教の教育伝道・医療伝道の結晶で、いずれも三つの世紀にまたがる歴史を刻んで今日に至っているが、いささか奇妙なことに、二つの謎は放置されたままである。
 筆者は長い年月をかけて築地居留地につき研究を進め、未解決の諸問題について筆者なりに考えてきた。これが拙著『築地外国人居留地』に結晶したのであるが、筆者は築地居留地に関わるいかなる問題も個々に取り上げるのではなく、なるべく総合的な視野から眺めなければならないと痛感している。筆者はこの20年余、これまで利用されることがなかった文献を渉猟し、また色々な角度から立教学校の生誕地の問題を眺め、考えてきた。長年、未解決となっている問題を扱う以上、一研究者としての当然の礼儀を持してきたつもりである。もちろん、筆者の考え方に対しては御批判もあると思われるが、その場合はどうか十分な資料的裏付けのあるコメントを頂きたいと思う(注6)

(注6)聖路加病院がいつ発足したかについては拙著199頁以下でふれているが、尚2002年11月・12月のChapel Newsを参照されたい。

65号 2006/09/25
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