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雄松堂Net Pinus 66>市場経済とエズラ・パウンド
Net Pinus 66号

「アメリカ文学ライブラリー」リレーエッセイ

2006/12/27
アメリカ文学ライブラリー 「エズラ・パウンド事典」訳者のエッセイ!
市場経済とエズラ・パウンド
江田孝臣略歴: 1956年 鹿児島県生まれ。千葉大学卒業。1982年 東京都立大学大学院修士課程卒業。現在、早稲田大学文学部教授。
主な著訳書
『初めて学ぶアメリカ文学史』 (ミネルヴァ書房、1991年)
『アメリカ現代詩101人集』(思潮社、1999年)
『ウラジーミル・ナボコフ書簡集』第1巻(みすず書房、2000年3月)
『エズラ・パウンド事典』(雄松堂出版)
2007年秋刊行予定

江田孝臣氏
 グローバライゼーションの世の中である。資本の論理と市場経済の原理が、世界の隅々まで貫徹しようとしている。ありとあらゆるものが商品化され、よりよいモノをより安く、生産し流通させ消費するために、世界レベルでの競争が激化している。冷戦体制の崩壊によって、世界が市場経済の原理に覆い尽くされて、もはや地球に住んでいる限り、市場経済からの出口はどこにもない、というか、そもそも市場経済には逃げ出すべき「外側」がないかのような様相だ。この世界状況にもっとも激烈に抵抗しているのがイスラムだろう。しかし、彼らの怖れているのは、アメリカによる軍事支配ではあるまい。そんなものはしょせん長続きしない。一番の脅威は、市場経済の原理が国中にくまなく浸透することであろう。競争力のない国内産業は壊滅するだろう。しかしそれ以上にイスラムにとって恐るべき事態は、そこから立ち直って、外国資本の導入等によって、世界の国々と同じ土俵で競争しはじめたときに生じるだろう。しかも、それがごく短期間に起こることになる。その変化のなかでも、イスラムにとってもっとも堪え難いのは、モスクや部族を中心にした古い共同体の破壊だろう。競争力のある企業に一番必要なものは何よりも優秀な人材である。優秀でさえあれば、会社は社員の身分や出身を問わない。産業の発達にともなって、人間の大移動が起こる。人材の(産業にとっての)最適な配置は、地縁、血縁、そして何よりも信仰で結びついたイスラム共同体をばらばらにせずにはおかない。当然、宗教が衰退の一途をたどることは目に見えている。

 日本でも維新以後同じようなことが起こった。身分制度の撤廃による人材の再配置によって、列強に伍するための産業を育成しはじめ、旧来の共同体は徐々に解体されていった。それに対する抵抗として旧氏族の反乱等はあったものの、ほぼ順調にこの解体が進んだのは、何よりも共同体内部の絆が概して宗教的なものではなかったからだろう。戦後しばらくしてはじまった高度経済成長による人口の都市集中はこのプロセスを加速したが、田舎の共同体を脱して都市に出てきた人々は、都市で新たな共同体に参加した。すなわち、終身雇用と年功序列からなる会社という共同体である。しかし、そもそも人々がある共同体から別の共同体へ易々と移ることができたのは、人々をつなぐ絆がここでも宗教的なものではなかったからだ。そして、ここ十数年で、そのような会社文化が急速に衰退したのも、同じ理由による。このことと金融自由化、ペイオフ解禁、そして昨今のプチ投資ブームは無縁ではなかろう。終身雇用の後退によって、個人は生活保障を会社という共同体に頼れなくなった。稼げるときに稼ぎ、それを元手に(起業する度胸と才覚がなければ)利殖に励まなければならない。「宵越の銭はもたねえ」ことが粋だった江戸っ子の職人たちから見れば、まったく無粋な世の中になったものだ。「浮世の頼みが金だけたあ、お寒い限りだ」と彼らは嘆くに違いない。

 しかし、市場原理の浸透によって、あらゆるものが商品化したかといえば、必ずしもそうではない。たとえば臓器である。たとえば血液である。資本主義先進国でも、これらの商品化には一定の歯止めが働く。それらの提供は法的には贈与として扱われる。臓器、血液の提供はほぼ無償で行なわれるから、市場でのモノのやりとりとは明確に違うが、我々の身近には、無償の、一方的な贈与ではないが、かといって市場での等価交換でもないようなモノや金のやり取りが存在する。まず、お中元、お歳暮、そして慶弔の贈答。金品の贈物に対して、通常お返しをするのが礼儀だが、贈られたものと等価あるいはそれ以上のものを返すことは、かえって礼を失することになる。しかし、かといって文句を言うことはできない。お返しが少ないと文句を言うことも、もちろんできない。これは日本にいまも残る数少ない禁忌のひとつだろう。実はこの禁忌が、贈与交換を市場での交換と区別する大きな特徴である。正確には計量し得ないものの提供の場合も、贈与して取り扱われる場合が多い。たとえば、手習い事の場合、教授された側は当然報酬を出すが、それは代金というよりは贈物に近いものとして差し出され、受け取る側も、文化継承のために一方的に与えたものに対する予期せぬ返礼として受け取ることを好むだろう。つまり、実際には等価交換であっても、両当事者とも、それがあたかも贈与交換であるかのごとく振舞うことを好むのである。同じことは、日本人がチップを払うのが苦手であることを理解する場合にも助けとなる。もちろん、日本人はウェイターやウェイトレスの親切なサービスと笑顔に金を払いたくないわけではない。事実、サービス料は勘定に込みになっており、それに文句を言う日本人はいない。我々は、親切や笑顔は無償で提供される贈与なのだという「フィクション」を好むのであり、そういった親切や笑顔に対しては、また来て食べる(ひいきにする)という返礼で応えようとするのだ。

 このように贈与交換の経済は、市場経済に徐々に侵食されながらも、未だに細々と残り続けている。しかし、これは共時的な視点に立って世界のありようを見た場合のことだ。では通時的に眺めるとどうなるか。たとえば、エジソンは電球の発明で大きな富を築いた。これは市場経済原理に基づく現象だが、エジソンの電球がなければ、それを基にした真空管の発明もなく、真空管がなければトランジスタもICもLSIの発明もなく、従ってコンピュータもなく、今日のIT社会もなかった。すなわち、エジソンは人類に莫大な貢献をした。エジソンが電球で儲けた金など、それに比べれば無に等しい。通時的に見れば、エジソンの電球は人類への贈与だったことになる。そして、この死者からの贈与は、我々がそれに直接返礼できないがゆえにより一層純粋な贈物である。これは通常、文化遺産と呼ばれる。

 アメリカ・モダニズム詩の立役者エズラ・パウンドは、T・S・エリオットと並んで、骨の髄まで古典主義者だった。彼は、古典文学という文化遺産に学び、多大の恩恵を被った。それは彼にとっては「贈与の一撃(un coup de don)」だった。彼は偉大な死者たちから一方的な贈物をされたと感じたが、死者たちには当然ながら直接の返礼のしようがなかった。律儀なパウンドは負債を背負わされたと感じた。何らかの形で返済しなければならなかった。創作と並んでパウンドの偉大な業績は翻訳である。ギリシア・ラテンの古典に始まり、古プロヴァンス詩、カヴァルカンティ、アングロ・サクソン詩、はては唐詩や四書の翻訳にまで及んだ。翻訳は死者に対する敬意の表明であると同時に、負債返済の代替行為でもあったのだ。パウンドにとって、もうひとつの返済法は、生きている作家の才能を発掘し、出版・掲載を支援し、あるいは金銭的に精神的に直接援助するという形を取った。彼ほど一方的に与える人は現代世界には珍しい。同じ世話になった先輩でもガートルード・スタインなどには辛辣だったヘミングウェイが、ことパウンドについては次のように書いている:「パウンドは自分の時間の五分の一を詩に捧げた。残りの時間を使って、彼は友人たちの芸術的な、そして物質的な富を増やそうと努めた。友人が攻撃されれば、弁護した。彼らの作品を雑誌に載せた。刑務所にいる友人をそこから出してやった。金を貸し、絵を売ってやった。コンサートを準備してやり、友人たちについての記事を書いた。彼らを裕福な女性たちに紹介し、出版社には友人たちの原稿を出版させた。死にそうだという時には、夜通し見守って、遺書の証人となった。病院代を貸してやり、自殺を思い止まらせた。」

 パウンドは贈与交換経済に生きる人だった。この通時的「空間」においては、死者は「死んで」はいなかった。この死者たちに自分は「生かされて」いると感じていた。贈り主が死者であるがゆえに行われる忘恩には、彼の良心は堪えられなかった。資本主義市場経済は死者から受け継いだ文化遺産を利用しながらも、そのことを不遜にも忘却し、目先の利潤の追求に血道をあげているかのように思えた。あまつさえ、彼が"usury"(高利貸)と呼ぶ金融資本は軍需産業と結託し、己が利益に目がくらんで第一次世界大戦を引き起こしたとパウンドは考えた。そのため彫刻家アンリ・ゴーディエ=ジャレスカ、イマジズムのかつての盟友T・E・ヒュームといった友人たちが戦死し、多くの有形の文化遺産が失われた。

 1930年代の大不況の時代に、パウンドは、他の多くの文人同様、政治経済の領域に関心を示し、とりわけ社会信用論(Social Credit)という異端的な経済理論の研究にのめりこんだ。彼は貨幣発行の権限を国家が金融資本に委ねていることを諸悪の根源とみなし、その権限を国家が取り戻すことを提唱したが、その際の貨幣発行を裏づける国家の信用として、彼は、ダグラスの社会信用論に従って、過去の文化的遺産(発明、思想など)を念頭においていた。すなわち偉大な死者たちの贈物(贈与)を背景に通貨発行を増やし、緩やかなインフレによって大不況を克服しうると考えた。この考え方は、古今東西の作家たちへの言及・引喩に満ち、時間が空間に化したかの様相を見せる大作『キャントウズ』の詩作法と、まさしく相似形であった。

アメリカ文学ライブラリー リレーエッセイ
(1)亡霊がひしめくアメリカ南部を巡って:前田絢子 氏(早稲田大学教授)「 F・S・フィッツジェラルド事典」訳者
(2)マルコムXの精神的遺産:荒このみ 氏(東京外国語大学教授)「トニ・モリスン事典」訳者
(3)カリフォルニア州カーメルのラングストン・ヒューズ:木内徹 氏(日本大学教授)「ラングストン・ヒューズ事典」訳者
(4)ウィスコンシンの休日:寺沢みづほ 氏(早稲田大学教授)「ウィリアム・フォークナー事典」訳者
(5)北の夢―シアトルからオリンガーまで:鈴江 璋子氏(実践女子大学名誉教授)「ジョン・アップダイク事典」訳者
(6)市場経済とエズラ・パウンド:江田 孝臣氏(早稲田大学教授)「エズラ・パウンド事典」訳者
(7)我流パソコン翻訳法:高尾 直知氏(中央大学大学教授)「ナサニエル・ホーソーン事典」訳者
(8)ラム・ハウスのヘンリー・ジェイムズ:別府 惠子氏(神戸女学院大学名誉教授)「ヘンリー・ジェイムズ事典」訳者
(9)エミリ・ディキンスン国際会議:鵜野 ひろ子氏(神戸女学院大学教授)「エミリ・ディキンスン事典」訳者
(10)ドライサー事典翻訳余聞―ポーの墓:村山 淳彦氏(東洋大学文学部教授)「セオドア・ドライサー事典」訳者
(11)異文化体験作家:ジェイムズとハーン:里見繁美氏(大東文化大学教授)「ヘンリー・ジェイムズ事典」訳者
(12)零度のエスニシティ?ロバート・L・ゲイル『ハーマン・メルヴィル事典』の余白に:巽孝之氏(慶應義塾大学教授)
(13)メルヴィル作品の中の実在した二人のインディアン:福士久夫氏(中央大学経済学部教授)「ハーマン・メルヴィル事典」訳者
雄松堂出版刊 2006年5月第1期刊行開始!!
アメリカ文学に必要な基礎的知識から、アメリカ文学の代表的な作家16人の各作家・作品をめぐる個別の問題を包括。それぞれの専門の研究家の翻訳によるA−Zの事典形式のレファレンス。
66号 2006/12/27
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