2000年の夏のこと、私は当時勤めていた女子大の国際交流センター長として、公務で英国サセックス大学とほか2校、そしてアメリカはシアトルのワシントン大学視察の旅に出たのである、というと聞こえがいいのだが、実は前年の秋から学長の意を受けて、学生のために超特急で作り上げ、「海外語学研修」として総合教育科目の2単位も取り付けた夏季海外語学研修の実施状況を確かめ、相手校に挨拶し、付き添いの先生を慰労して、1週間ほど学生の面倒をみるお手伝いをするのが、役割だった。
ワシントンと名の付く大学は全米に無数といえるほどあるのだが、ワシントン州を代表するユニヴァーシテイ・オブ・ワシントン(以下UW)は大都市シアトルを門前町として、700エーカーの緑の土地に悠然と広がっている。1861年の創立で、シアトル・キャンパスだけでも学生数は4万人近く、教員やスタッフが27600人いるというマンモス大学は、私が所属する女子大の相手としては大きすぎるのだが、なに、構うものか、全学を相手にするわけではない、その中のごく小さな部門を相手にすればいいのだ。それに金を払うのはこちらなのだから――。それでも協定書は学長同士のサイン交換にしよう、とか、経費が高すぎるとか、私は頑張った。「うちの学生は朝食を5ドル分も食べない、せいぜい2ドル分くらいだ」と粘ったのだけれど、担当のバイデルスパック教授も退かなかった。「あなたの大学のために特別クラスを作ろう、学内の寮に宿泊することと朝食を寮で取ることが条件だ、朝食券は一回5ドルで3週間分。」
特別クラスなど要らない、サマスクールの一般学生に混ぜて貰って、授業料を安くしよう、という私の考えは内外から反対された。「現地の学生と混ぜるなんてとんでもない、うちの学生だけでグループを作るべきだ」「なぜ?」「親が心配するから」というのが学内の反対。バイデルスパック教授の言い分は「日本人学生は教室で不活発だ。教室の中で日本人学生のところだけにブラックホールができると授業に支障を来たす。特別クラスであれば、沈黙がちな学生も喋るようになる。」こう言われては返す言葉がない。学内の反対論に従ったことにして、それでもUWの学生を補助員として数人付けることにして、特別クラス案を呑んだのだった。交渉が煮詰まってくるとメールでは済まなくて、電話となる。相手の時間に合わせて明け方の3時頃に電話すると「アキコ、そっちは今何時だ?東京から電話がかかる時間ではないが」と、国内の誰もねぎらってくれないことをねぎらってくれる相手でもあった。
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バイデルスパック教授たちとの会食
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割り当てられたハゲット寮はキャンパスの北奥に位置し、窓からワシントン湖が見える。ヨットの白帆が陽に染まり、湖面に漣が立つのを見ると、とても部屋で勉強などしてはいられない。木々をわたる微風を肌に受けて、表のユニヴァーシティ通りや裏のヴィレッジを漂流したくなってしまう。授業が済んでもキャンパスやダウンタウンの見学に励んでいる学生たちに習って、私も夕方までキャンパス周辺の視察にいそしんだ。ユニヴァーシティ通りの骨董屋には小さな染付けの皿が飾ってある。通りに面した大きなブックストアでは金曜の夕方、詩の朗読会が開かれる。土曜の朝にはスーパーマーケットの前に農産物の朝市が立つ。頼もしい「お父さん」役を演じていてくださる若い内山先生と街角の軽食堂に入って、バゲットのハムサンドを4つに切って貰い、先生が4分の3、私が4分の1を食べるというつましいお昼も楽しんだ。なにしろ5ドルのバイキング朝食を食べているから、お昼は軽くていいのだ。
大学から20分くらい歩いたところに先住民族の住居を使ったという魚料理専門の店がある。柱も梁も時代の付いたどっしりと太いレッドウッドの丸太で、窓のすぐそばまでユニオン湖の水がひたひたと寄せてくる。「鮭にはピンクサーモン、ホワイトサーモン、シルヴァーサーモンの3種類があり、その3種類ともお出しします」という説明付きで出てきた大皿盛りの見事な鮭のステーキのおいしかったこと。あっさりと塩コショウにバターの味付けで、湯気の立つ鮭の身がホクホクしている。鮭という魚があんなにおいしいなんて、それまで思ったこともなかった。帰国後気をつけていても、あの味には出会えない。あの鮭を食べるためだけにでも皆と連れ立ってシアトルに出かけたいものだ。いいえ、一人では駄目。例えばハマグリの白ワイン蒸しだって、貝塚ほどに大盛りなのだから。鮭にはずいぶん大きくなる種類もあって、なかには体長5フィート、重さ100ポンド、だいたい私くらいの背格好にもなるのがいるらしい。シアトル周辺で少年期を過ごし、近くのポート・エンジェルに夏の家を持っていたレイモンド・カーヴァーは「夜になると鮭は」という詩を書いている。それによると、夜になると鮭は川を出てパシャパシャと街にやってきて、住宅のドアの取っ手を回したり、ケーブルテレビの線にどすんとぶつかったりするのだそうだ。アップダイクの詩「泳ぐ君」の彼女は、夜、闇に濡れた顔をし、愛の泡を捕らえようと唇を半開きにして、彼のベッドのそばに立つ。そこで「ぼくたちは死んだ人たちの生を泳ぐ」のだ。
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キャンパスの風景
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UWのキャンパスには218の建物があるというのだが、何という様式だろう、例えばディニーやパーリントンのような、装飾を凝らした典雅な主殿があり、左右に長方形の無装飾の建物が置かれて、魅力的な中庭を囲むという型がいくつか繰り返されている。そしてすべての道が赤レンガを敷き詰めた広大な中央プラザに出るような設計なのだ。レッドウッド、松、樅、楡、楓などの巨木が群生して、キャンパスは緑に覆われている。『エデンの東』を翻訳したときに、「絶対に腐らぬ不滅の木材」とスタインベックが称えているredwoodすなわち「セカイヤメスギ」を、先例に倣って「アメリカ杉」と訳しながら、その正体に疑問を持っていたので、尋ねてみると、バイデルスパック教授は「いや、あれはセコイヤなんです。この地に杉は原生していません。ただ、皆、何も知らないので、まっすぐ立って、いい匂いのする木は杉と呼んでしまうんですよ」と言う。「でもセコイヤって落葉樹でしょう?」「いや、常緑の種類もあるんです。」やりとりをしているうちに彼が実は森林学の教授なのだということが分かった。「え、ではなぜ英語教育を?」「言葉というものは決してそれだけでは存在しない。何か内容と結びついてはじめて存在するのです。だから言語教育とは不思議なもので、言語だけを修練するということはありえないのです。」彼のこの言葉こそまさに私が聞きたかったものだった。私たちは何か内容を持っていて表現を探す。拾い集めた言葉の中から、しっくりするものをあれこれと漁る。でもその行為の中で私たちは表現を創造しているのであり、実は内容を創造しているのだ。むしろ表現が見つかったときに内容が完成するのではないだろうか。日本語では言いにくいこのような考えを、私は英語という他者の言語を使い、バイデルスパックという見知らぬ人を相手にしてはじめて、語ることができたのだった。
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鉄道王J.J.ヒルの銅像
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キャンパスの奥まった一隅に堂々とした風貌の胸像がある。グレート・ノーザン鉄道を創設した鉄道王J.J.ヒルだ。銀行家のJ.P.モーガンとも結んで北西部一帯の鉄道網を支配し、金融にも、対アジア通商にも権勢のあった帝国建設者(エンパイヤビルダー)の銅像がここにあるということは、きっとUWに寄与するところも大きかったに違いない。規模が巨大であればあるほど維持に経費がかかることは、バイデルスパック教授がキャンパスを使わせよう、収益を上げようと必死になっている様子からも察しられる。胸像基部の石には列車を刻んだ銅版がはめ込まれている。私は「いつぞやはお世話になりまして」と挨拶した。実は1959年の冬、私は夫とともにシアトルからグレート・ノーザンに乗り込み、3日2晩にわたる列車の旅をしてシカゴに到着、さらに軽便鉄道モノンに乗り継いで、彼の研修先となるインデアナ州ブルーミントンのインデアナ大学にたどり着いたのだった。モンタナ、アイダホ、ミネソタと窓外に広がる雪原また雪原の広大な白い大陸が、アメリカという国の第一印象となった。エンパイヤビルダー号に力強く牽引されて進む悠然とした感覚も忘れがたい。
大平原のネブラスカも豪雪地帯で、ウイラ・キャザーの『私のアントニア』ではボヘミア移民のシメルダ一家がネブラスカの開拓地に入植して冬の寒さに苦しみ、2月の猛烈な雪嵐の夜に父親が悲惨な自殺を遂げる。イーディス・ウォートンの『イーサン・フローム』では、マサチューセッツの寒村から脱出を果たしそこなったイーサンが、愛するマティとの心中を覚悟して雪の急坂に橇を走らせる。坂の下の巨木めがけてまっしぐらに橇を走らせようという、作家としても力技を振るう迫力たっぷりの場面である。ミネソタ育ちのフィッツジェラルドの[冬の夢]で、デクスター少年は「長いミネソタの冬が箱の白い蓋を閉めるようにすべてを閉ざしてしまう」と、ゴルフコースに積もった雪の上をスキーで滑りながら、夏・秋にゴルフで豪華な成功を収めることを夢見て恍惚となる。
ところで同じように冬のさなかに春を夢見るものに、シューベルトの『冬の旅』の11節「春の夢」がある。詩はウィルヘルム・ミューラー(1797-1828)なのだが、3番に「だが、あの窓硝子に/木の葉を描いたのは誰だろう/その人は夢見た者を笑っているだろうか/冬のさなかに、花を見た者を?」とある。状況はまさに逆なのだが、窓辺に葉を描いたのはオー・ヘンリー(1862-1910)だ。晩秋の冷たい雨の夜、老いた貧しい絵描きが病む少女のために壁に描いた「最後の一葉」が、少女に生命への希望を与える。しかし、ずぶ濡れになって外壁に一枚の蔦の葉を描いた老人は、肺炎になって死んでしまう。ミューラーの詩において、窓硝子に落ち葉を一枚貼り付けて冬の到来を宣言するのが神の御業であるとするならば、紅葉しても散ることのない葉を壁に描くのはまさにヒューマンな仕業であり、反逆であって、老芸術家は懲罰としての死を従容として受け入れることになるのだが。
カーヴァーも、フィッツジェラルドも、スタインベックもオー・ヘンリー賞を受賞している。アップダイクは「ブルガリアの女詩人」と「砂岩の農家」で、2度オー・ヘンリー賞第1位となっているほか、1961、62、70(複数作品)、75、76、83、85、88の各年に受賞していて、おそらく受賞最多記録ではないだろうか。88年の受賞作「紅葉の季節」でも、紅や黄、茶、紫など色とりどりに紅葉したヴァーモントの森の木の葉は、少女たちが仰ぎ見ているとき、一枚も散らない。「誰も気付かないうちに、葉柄――春には芽だった葉の付け根が、散るときだ、と決める瞬間が来るの」…「誰にも見えない、でも、それは起こる。そして、突然という感じで、森はすっかり葉を落としてしまうのだわ。」少女たちにそう教えるリンダは、前夜、白いナイトガウンに軽々と包んだ細身の体の、乳首がガウンの内側に触れる様を、ジョシュに盗み見られているのだ。
「グリニッチ・ヴィレッジに雪が降る」という魅力的なタイトルの短編では、小道具の淡雪に情緒的な扱いはない。むしろ情感をこめる妻にリチャードが違和感を感じる、という作りである。『ケンタウロス』の背景は1月はじめの大雪だ。不器用なジョージ・コールドウェルは、毎日走りなれた通勤路の雪道で車の事故を起こし、息子の信頼を失ってしまう。死を決意したジョージ、すなわちケンタウロスは白い広野を歩む。大雪原ではなくて、実はそれはペンシルヴェニアの小さな町の、長年見慣れた家の近所の風景である。事故を起こした黒い愛車が、片隅で雪に埋まっている。自分の生命を若い芸術家に与えようとして自ら死に向かう彼が踏み出すのは、歩道の縁石を越えて車道へという、ほんの一歩なのだ。だが、その一歩には「永遠」が必要である。アップダイクは『帰ってきたウサギ』でもアームストロング船長の月面での「小さな一歩」の背負う大きな意味と、ラビットの無関心を対比している。