| 武蔵野美術大学美術資料図書館 稀覯書紹介 |
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武蔵野美術大学美術資料図書館は、美術・デザインを中心とする造形分野の総合専門図書館として、和書・洋書合わせて約20万冊の蔵書と雑誌3900種を所蔵しています。また、金原・服部文庫、欧米の絵本コレクションと奈良絵本を中心とした近代日本の絵入本のコレクション、国内外の展覧会カタログ、イギリスの私家版ケルムスコット・プレス資料、万国博覧会資料、バウハウス関連資料、『Pan』『Wendingen』をはじめとした世紀末芸術関連の貴重雑誌など、造形分野の貴重書とそれに準ずる資料の収集にも積極的に取り組んでいます。今回は所蔵貴重書のなかから精選した挿絵本4点をご紹介していただきました。
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| El Lissitzky. |
| Berlin: Skythen, 1922. |
| 28.0x22.0cm |
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ロシア・アヴァンギャルドの芸術家エル・リシツキー(1890-1941)の代表作のひとつです。子どものためのこの絵本は黒い正方形(混沌)と赤い正方形(秩序と光明)の動きによりロシア革命の勝利を象徴的に描かれています。宇宙的な力、創造的な力といったリシツキーの目指すデザイン理論が表現され、特にタイポグラフィやデザイン上の実験において視覚芸術に革新をもたらしました。また、この表紙は1917年頃オランダで始まったデ・スティルの運動の機関誌「デ・スティル」誌の表紙デザインとして用いられたことでも知られています。さらに興味深いことに、この資料の見返し部分には、ドイツのタイポグラフィ・デザイナーでバウハウスとロシア構成主義の影響を受けリシツキーの理論を継承したヤン・チヒョルト(1902-70)が所蔵していたものとされる書き込みがあることです。リシツキーに深く影響を受けたとされるチヒョルトは後に「ノイエ・タイポグラフィ」を提唱したことでも知られていますが、この資料の書き込みは少なくともリシツキーとチヒョルトの繋がりを推測する上で重要な手がかりのひとつであると思われます。
エル・リシツキー
ロシア出身のグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家。ドイツのダルムシュタット工科大学で建築学を学ぶ。第一次世界大戦を機にロシアに戻りリガ工科大学で大学卒業資格を取得、卒業後建築の仕事にたずさわる。1919年シャガールによってヴィテプスク美術学校の建築とグラッフィックアートの教授に任じられ、ここで同僚のカジミール・マレーヴィチの影響を受ける。1920年代にかけて、西ヨーロッパ主にドイツで活動を展開、ソヴィエトロシアにおける芸術運動諸外国に伝達した。
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| [寛文〜延宝年間]([1661-1680]) |
3冊、24.5x18.5cm
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室町の頃、常陸の鹿島大神宮の雑色文太は忠義者であったが、大宮司に暇を出され常岡の磯で塩焼きに奉公し、成功を収め長者となり名を文正常岡と改める。授かった姫は都の関白の子二位中将と心を通わせ契りを結び、文正は大納言に出世し長寿を保ったというめでたきずくめの出世物語。
“文正の文にあやかれ姫小松”
と謳われるように江戸時代には子女の習いはじめに、この『文正草子』を与えるのが慣わしであったようです。
『文正草子』は奈良絵本のなかでも最もよく読まれた作品であり数種のものが制作されています。本学美術資料図書館館が所蔵する奈良絵本『ふんしやう』(上・中・下3冊本)はそのひとつであり、それぞれ20頁前後の袋綴じ縦型の美しい立派な写本です。紺色表紙には金泥で松の木や草花などを描き、朱の題簽が付いています。描かれている構図は天地に淡青の泥絵具をひいた雲形のすやり霞をつけ金箔を散らしてあり、画風は大和絵風の素朴で稚拙な絵であるものの人物の表情は愛らしく生き生きと描かれています。江戸初期の制作と推定されていますが、その書き手や年記・制作地等の記載がないことも奈良絵本の特徴のひとつです。
奈良絵本は、武家社会の成立を背景にその多くは室町後期より江戸中期寛文の頃にかけて、絵巻物を模倣した絵入りの冊子本として制作されましたが、奈良絵本という名称は明治以降の呼び名でありその由来も諸説あり定かではないというのが現状のようです。
冊子体の形態の本としてはじめて庶民の間に登場した奈良絵本は、ある意味でわが国における本の誕生と捉えることもできるでしょう。図書館の江戸期絵入本コレクションのうちの貴重な一点ものです。
奈良絵本
室町時代から江戸時代にかけて書かれた挿絵入りの短編の物語。朱、緑など鮮やかな色彩と金銀箔・泥の使用を特徴とする華やかな絵本で嫁入本とも呼ばれていたといわれていたという。形は大体、横本・縦本・大型縦本の三つにわけられる。 |
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| Bernardi Siegfried Albini. |
| Londini : Joannem & Hermannum, 1747. |
| 67.5x49.5 cm |
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歴史的に人体の組織や骨格といったものを図に描いたのは16世紀イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチが最初であるとされていますが、『人体構造七書』(1543)を刊行した解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス(1514-64)は「解剖図の父」と称された人物です。ヴェサリウスは解剖死体を彫刻のように立体的に立たせ描いて木版印刷で出版しましたが、そうした理由のひとつには医学的研究の他に彫刻制作の手本としての目的があったようです。それから約200年後にオランダのライデン大学教授であったベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス(1697-1770)は、この偉大なヴェサリウスの業績を継承し優れた版画工ヤン・ヴァンデラーとともに銅版画の技法を用いて特大の大型フォリオ版の解剖図譜を制作しました。本書に収められた12点の図譜の特徴は、ヴェサリウスの粗い木版印刷とは異なり銅板の細い鋭い線で詳細に描かれた人体構図に背景がつけられていることであり、その背景のモチーフには寓意的要素を含む天使、動物、植物や建築物などの風景画が描かれています。例えば人体の背景に動物のサイが描かれている骨格図は生命力の象徴としてユニコーンと同一視されていたサイを描くことにより死者である骸骨に生命を復活させるという寓意が表現されています。またヴァンデラーは<踊る骸骨>と形容される立体的な骨格図を描くために綿密な計算に基づいて驚異的とも言える科学的な正確さで理想のプロポーションをデザインしたと言われています。
アンドレアス・ヴェサリウス
解剖学者。ブリュッセルに生まれ。パリ大学中退後、イタリアのパドヴァで解剖学を修めてパドヴァ、ボローニャ、バーゼル大学の教授を歴任。「人体解剖学」(1543)で詳細な描写と図解によって、解剖学発展に大きく貢献しものの、人体を解剖したかどで死刑を宣告されるが、エルサレムの巡礼に減刑された。
ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス
ドイツの解剖学者、生理学者、外科医。幼児期に父と共にオランダのライデンに移住。ライデン大学解剖学・外科学教授のち生理学理論を担当。記述的解剖学のすぐれた研究者かつ改革者であった。
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| 中国(蘇州) |
| 明代万暦〜天啓年間(1621-1627) |
| 8冊、29x21cm |
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中国の版画は、歴史的に見て明時代の万暦の頃から清時代初期の頃(日本では桃山時代末期から江戸時代初期の頃)に、摺り技法および絵の描法や構図に格段の進歩を遂げ絵画の領域に匹敵するような鑑賞するための芸術として確立され多くの様々な絵を集めた画譜や箋譜が作られました。その代表的なものが中国蘇州で出版された『八種画譜』です。江戸初期の頃わが国に伝えられ狩野派や土佐派の画家たちに影響を与え絵師の仕事の手本とされたものです。その後寛文の頃になると京都や江戸の唐本屋で翻刻刊行され流布し、特に南画や文人画の画家たちの作品にしばしば構図や図柄が酷似するものを見ることが出来るほど強い影響を与えています。8冊はその名のとおり「五言唐詩譜」「七言唐詩譜」「六言唐詩譜」「梅竹蘭菊譜」「草本花詩譜」「木本花鳥譜」「古今画譜」「名工画譜」の八種類のジャンルから成り江戸中期頃から後期にかけて出版された絵手本の先駆けであるばかりでなくわが国における絵本の成り立ちの原点であるとも言えます。『八種画譜』は黒一色で摺られたものですが、まもなく舶載された清時代の唐本箋譜で多色版画を集めた『芥子園画伝』とともにこれらはやがてわが国独自の浮世絵版画へと継承され浮世絵錦絵を生み出す原点となっていきました。
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