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改造社がお蔵入りに?
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戦前に隆盛を誇った出版社「改造社」を創業した山本家が99年、改造社関係の大量の生原稿を出身地の鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)へ寄贈、「まごころ文学館」にて公開しています※。紅野敏郎氏(早稲田大学名誉教授)らの研究グループがこれら資料の内容を調査し、その中より織田作之助の「続夫婦善哉」200字詰め99頁の原稿の存在が確認されました。これまで「続夫婦善哉」の題名と冒頭が書かれた草稿1枚は大阪府立中之島図書館の織田文庫が所蔵していたものの、作品全体の本文は確認されていませんでした。研究者を涌かせた「発見」はどのような意味をもつのでしょうか。
※これら「改造」関係直筆原稿群は2007年9月に雄松堂出版によりDVD化されます。
「改造」直筆原稿 画像データベース 夫婦善哉 完全版
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改造社の雜誌
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鹿児島県の北部鹿児島県の北部の旧川内市(現在の薩摩川内市)には筑後川、球磨川とともに九州で最も著名な川内川が流れている。その川内市生まれの旧本郷藩士(薩摩藩の一族)有島武の子息が有島三兄弟(武郎、生馬、里見  )であり、とくに里見  を記念して「 川内まごころ文学館」が創設された。
山田洋次監督の寅さん映画のひとつに寅さんが丘の上よりこの川内市を眺め、「まごころ文学館」が近くオープンという話しを取り交わすシーンが出てくる。オープンのときには私も企画推進の1人として参加、数万の小さな街にもかかわらず当局の並々ならぬ決意が披露された。
その前後にやはり当地出身の改造社の創業者、山本実彦の御遺族より、文芸のみならず社会、経済全体にかかわった総合雑誌『改造』と改造社関係の諸雜誌(『文芸』『短歌研究』『俳句研究』など)や関連講座の生原稿230数点(寄稿者でいえば94余名)の寄贈があり、「まごころ文学館」はそのふたつを大きな軸として運営されるようになった。
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『改造』と『文芸』の創刊号
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発端の里見 の資料研究の時から私はタッチしていたので、この改造社関係のオープンの図録その他にも自然に関係し、学芸員と苦労をともにした。そこで全体像をキャッチし、これを広く公開する必要を感じたので、生原稿を研究するグループを各大学の近代文学専門家と組織した。早大の中央図書館において、マイクロ化やデジタルデータのことで縁の深かった「雄松堂出版」(東京)がバックアップしてくれ、同市の了解を得て、全生資料のデジタル化を完了した。現在は各自分担の作家の生資料その他に基づく論文作成に取り組んでいる。このたび大きな話題となった織田作之助の「続夫婦善哉」もその一環であり、神奈川大学の日高昭二教授が担当した。「続夫婦善哉」は『改造』にも『文芸』にも掲載されず、山本家に「お蔵入り」になったままで放擲されてきた完全原稿であったゆえ、同館オープン時の図録、さらに第2回目の図録(ここでは織田作之助の「競馬」を展示)にも除かれていたのである。
『改造』や『文芸』をしらみつぶしに調査したが、どこにも載っておらず、1940(昭和15)年9月号の『文芸』の「編集後記」に「本誌の頁数が一二九頁から一六二頁へ飛んで居りますが、これは手違ひのためで、落丁ではありません」と記されていた。
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1937年4月号
『改造』目次右頁[左頁]
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「夫婦善哉」は『文芸』の同年7月号に揚げられ、それが第1回文芸賞となり、織田作之助の出世作となったし、宇野浩二に次いでいかにも大阪出身らしい雰囲気を持った文学者の誕生となったのである。
『文芸』9月号の実物を手にすると、林芙美子の小説に続いて載るべきところが見事に落丁。その部分には従来、織田作之助の小説「六白金星」が掲載される予定だったといわれてきたが、今回の「続夫婦善哉」の生原稿の発見により、落丁部分にはこの小説が掲載される予定だった可能性も出てきた。「続夫婦善哉」は時局の推移の中で、舞台を大分・別府に移し、善良なぐうたら男と強気でいじらしい女が剃刀業など職を転々とするが、金属統制などの影響もあり、改造社の編集部の自主規制が働いての「お蔵入り」と推測される。
調査の途中経過の発表会を催したとき、日高氏の報告でことは一段と鮮明になってきたのだが、この種の「お蔵入り」、発表されずになってしまった生原稿がほかにもあり、芥川龍之介の没後早々に掲載された遺作の「或旧友へ送る手記」と「続西方の人」は芥川の筆跡ではなく、佐佐木茂索夫人のふさのペン字(芥川自身のものは、東京・駒場の日本近代文学館所蔵)、これは一体どういう理由で、ということも研究上極めて興味深く、いま早大の宗像和重教授がその追跡を行っている。これらもワーキンググループの論文集に「続夫婦善哉」の翻刻とともに収められる。
「続夫婦善哉」の原稿は端正に書かれていて、推敲は少ないが、推敲のおびただしい横光利一の「上海」や「純粋小説論」(かつて川内市で開いた企画展の図録に掲載)、関東大震災の年の『改造』の震災号に載った諸家の原稿はじめ大正末から昭和期にかけての伊藤野枝、堺利彦、小林多喜二らのものも含まれた「事件」と呼ぶべき生原稿の類の束なのである。
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アインシュタイン特別号
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1923年10月号『女性改造』
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改造社と『改造』について
山本実彦が創業した改造社。大正8(1919)年4月、社会派の総合雑誌として『改造』を創刊。創刊号には第一次世界大戦後の世界を展望した社説・論説のほかに、安部磯雄・与謝野晶子・山田わか・尾崎行雄・土井晩翠が執筆し、そして幸田露伴が名作「運命」を書いた。この雜誌『改造』は横関愛造と秋田忠義の二人の編集者にささえられ、次第に総合雑誌のさきがけ『中央公論』『太陽』とも肩をならべるようになる。そして志賀直哉の「暗夜行路」を皮ぎりに、白樺派の面々が『改造』の執筆に加わっていく。出版とセットにしたアインシュタインの召還など山本の企画は常に新しく大衆の心を掴んだ。また、女性の自我の目覚めをうたった婦人雑誌『女性改造』を創刊したり、単行本で大衆路線をねらい、石坂洋次郎の「若い人」や林芙美子の「放浪記」や火野葦平の「麦と兵隊」の刊行など常に社会に目をむけた出版を次々と重ねる。関東大震災の後、藤川靖夫を編集者として迎え、函入りの1円の書籍、いわゆる「円本」として文学全集に力をいれる。「現代日本文学全集」「マルクス・エンゲルス全集」「経済学全集」「日本地理大系」「日本短歌全集」と出版し、これが大当たりとなった。戦後、復刊された『改造』は暫く続くのだが山本の死とともに歴史から姿を消してしまった。
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織田作之助について(大正2年(1913)〜昭和22年(1947))
大阪市南区生玉前町に生まれる。結核のため三高中退。当初は劇作家志望であったが小説家へ転換。青山光二らと共に同人誌『海風』を創刊し1938年には処女作「雨」、続いて「俗臭」(1939)を発表、これが室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となり注目を集める。以降作家に専念し「わが町」(1943)「木の都」(1944)などで大阪の町と人情を綴った。戦後「世相」、「競馬」(共に1946)など次々と発表、新戯作派の1人として流行作家の地位を確立。しかし若い頃煩った結核に悩まされ、「可能性の文学」で志賀直哉を攻撃したあと短い生涯を綴じた。
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紅野敏郎(こうのとしろう)氏プロフィール
1922年兵庫県に生まれる。早稲田大学国文科卒業。
早稲田大学名誉教授。日本近代文学館常務理事。
【主な著書】
「本の散歩・文学史の森」冬樹社 1979年
「白樺の本・文学史の林」青英社 1982年
「増補新編 文学史の園─1910年代」青英舎 1984年
「近代日本文学誌─本・人・出版社─」早稲田大学出版部 1988年
「雑誌探索」朝日書林 1992年
「貫く棒の如きもの─白樺・文学館・早稲田─」朝日書林 1993年
「大正期の文芸叢書」雄松堂出版 1998年
「文芸誌譚─その「雑」なる風景 1910〜1935」雄松堂出版 2000年
その他、「大正文学アルバム」など編著書、
「志賀直哉全集」「白秋全集」「岩野泡鳴全集」など全集編集多数。
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