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雄松堂Net Pinus 68雄松堂の歴史をひもとく
Net Pinus 68号
雄松堂の歴史をひもとく
2007/06/30


Part 2 戦後の成長期−グローバルな企業を目指して−

 今年で雄松堂は創業から75年目にあたります。これまで様々な資料を大学その他機関に提供してまいりましたが、今日にいたるまでは、大正期の神田古本屋街から始まる長い道のりがありました。前回ネットピヌス67号では創業者の出発から戦後の再出発までの歴史を掲載しました。今回は戦後の後高度経済成長期、新制大学の設立、大学の規模の拡大、学界の発展の中、どのように雄松堂が成長してきたのかを探ります。

 1.視野を拡げて新たな出発へ

 2.マイクロフィルムの製作と出版の再開

 3.世界のAntique Booksをもっと日本へ

 4.本を愛する心でつながる世界

 1.視野を拡げて新たな出発へ

研究者に求められているものとは?
戦後、雄松堂として再出発したものの模索する日がつづいた。古書のほかに、図書館用品などを取り扱ったこともあったが、営業の中心に法律・経済・心理学などの学術雜誌のバックナンバーものを据えることに決めた。多くの大学では、戦時体制のなかで社会科学系の研究が中断された上、多くの文献が戦火で焼かれていたのでその需要をねらったものであった。また20年代の後半は新制大学がスタートし、その昇格認可には蔵書量がひとつの基準となっていた。そのため図書館にとって学術雜誌の収集は欠かせないものであった。こうした状況の中、外貨不足で輸入が困難な時代ではあったが雄松堂は洋書を手掛け始めた。
雄松堂と洋書との結びつきは戦前の昭和10年、夏の「竹帛」第7号に山田秀雄氏(日大教授)の洋書コレクション294点を掲載したことにはじまる。昭和14年4月には「東亜関係経資料目録」のなかに中国および日本関係のBlue Bookを特集した。しかし今度はロスマン(Fred B. Rothman & Co.)、クラウス(Kraus Periodicals, Inc)、ジョンソン(Johnson & Co., Inc)、キャナー(J. S. Canner Company)等、海外大手書店各社と広く取引するようになり、洋書バックナンバーの販路を、大学図書館や研究室に開いていった。
天理教真柱の中山正善氏は、国際的なコレクターとして知られ、雄松堂の収集にも協力していたが、長男である満夫が早稲田大学を卒業するにあたり「これからは古書業界も海外に目をむけるべき」と渡米を勧めた。そこで満夫は卒業すると同時にアメリカに渡り、ロスマン社、クラウス社で海外の洋書業界の実態を学ぶとともに図書館学も勉強して半年後に帰国した。そのひとつの成果としてアメリカの科学雑誌のバックナンバーを扱うことを開始する。

 2.マイクロフィルムの製作と出版の再開

古い資料の保存—マイクロフィルムの製作
国際感覚を身につけた満夫は「洋書の輸入によって日本の文化に寄与する」ことを信条とし、和本の古書で育ってきた父勇次とは違う視点から着想する近代的経営をめざした。35年(1960)2月、満夫は新宿区四谷1丁目17番地に約50坪の木造2階建社屋を借り、雄松堂書店を設立した。小石川時代は「雄松堂」であるが、ここで創業時の「雄松堂書店」にかえり、社長を満夫として四谷時代の幕がひらいた。勇次はその会社の会長として、若い世代の国際感覚を自由に発揮させるため、経営の実務から退いた。
しかし一方で勇次の事業への情熱も消えることはなかった。マイクロフィルムは既に日本でもつくられていたが、昭和37年(1962)アメリカミシガン州アナーバーのUMI社からこれを出版事業として成り立たせる方法を伝受してもらい、同社の日本総代理店となるとともに、雄松堂フィルム出版有限会社を設立、資料のマイクロフィルム化の事業に乗り出した。
最初に作成したフィルムは、明治初期の『府県史料』である。太政官布告による各府県からの歴史調査報告で、地方史研究の基本となるものであった。次は各府県が毎年発行したそれぞれの地域の諸種全般の統計を網羅した『府県統計書集成』で、十数年間を費やして明治6年ごろから昭和47年までを1460リールに収録。史料集・文書・統計など、約60のタイトルを収録し、地域研究資料の保存に大きく貢献した。

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府県統計書集成
マイクロフィルム国際大会1966
新しい資料の形を追究する


出版事業の再開
このマイクロ資料の保存のように、古書を扱う年月のなかで、流通市場から消えている貴重な資料を復刻する事は創業当時からの雄松堂のひとつのテーマといえる。勇次は巌松堂のころから本つくりに大きな関心を寄せていたので、独立後すぐに一茶の真蹟句稿『霞む日』を斎藤昌三の校で復製した。越前の烏の子紙を用い、オフセット五度刷りの豪華な愛蔵本である。こうした出版の経験は埋もれさせるのに惜しい財産であった。そして東京オリンピックの開かれた昭和39年(1964)、こうした復刻版の出版を復活させるべく、出版を会社の新しい事業として本格的にスタートさせた。
「東西の交流」を出版の最も重要なテーマとしてまず『The Far East. 全7巻』、『アジア協会紀要(Transactions of Asiatic Society of Japan.)全50巻』を復刻した。41年からは復刻版『異國叢書』をはじめ、43年から岩生成一、岡田章雄・洞富雄・沼田次郎氏らの新たな編集で、今では第3輯まで数えるロングセラー『新異国叢書』の第I輯全15巻を刊行した。さらに天理図書館善本叢書 洋書之部『クラシカ・ヤポニカ』、全訳「シーボルト『日本』」、復刻版『ジャパン・パンチ』など、日欧交渉史関係書で出版事業の主柱を形つくった。

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アジア協会紀要
クラシカ・ヤポニカ
新異国叢書
ジャパン・パンチ
シーボルト日本

和紙への愛惜

勇次は徒弟時代より和紙をつかった本のすばらしさを知っていた。「和紙を使った本をつくる」という思いは出版事業再開からの願望であったが、特に手漉き和紙を使用することにこだわりをもった。しかし手漉き和紙を利用した創業のころの『霞む日』のような本づくりを復活するには和紙の生産事情に雲泥の差があり、和紙は非常に高価なものになっていた。
昭和47年(1972)、ようやく和紙を使うにふさわしい企画が生まれた。『古辞書叢刊』である。書誌学者川瀬一馬氏とともに栃木県の足利学校遺跡図書館を見学したとき、その宿で構想が浮かび、原装で復製することになった。原装のためには、手漉きの和紙を調達するほかなく、ある紙問屋からなんとか仕入れたが、第一回配本にあたる48年刊の『和名類聚抄』はそのコストで続刊が危ぶまれるほどであった。そこで和紙を出版に使える方策を得るため埼玉県小川町の県立製紙工場試験場を訪ねた。和紙の衰退はもともと出版業界に見放されたことが大きな要因であったため、この訪問は和紙業者にとっても大きな意味を持った。こうして小川町の数人の紙漉き職人がこの紙づくりに協力することになった。「一千年の風雪に耐えてきた古辞書をさらに一千年の将来に伝える」といううたい文句で復刻された『古辞書叢刊』はその本つくりへのこだわりから好評を博した。その後『古典籍叢刊』、『テレキー西欧古刊日本地図帖』、『南欧所在 切支丹版集録』、『宋版王右丞文集』、『きりしたん版集成』などにも、手漉き和紙が用いられた。これらは手漉き和紙の逞しい強さへの信頼と命の長い本への情熱があってはじめて刊行できた本であった。
こうして雄松堂の出版は『手漉和紙聚芳』、『同国際版』、『和紙生活誌』の編集へと展開した。特に『細川紙誌』などは本文だけでなく表紙も抜き模様の技法で標題を記す贅沢な和装本であった。 

 
 3.世界のAntique Booksをもっと日本へ

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新聞でも取り上げられた古書展(PDF)
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第1回古書展の招待状
四谷での新しい発展
満夫が社長になって、新宿四谷一丁目に設立した株式会社雄松堂書店の初期の社員は15名であった。彼等は、アイデア豊かな若い社長を中心に、闊達に販路開拓の論議を重ねた、その頃の日本はいわゆる経済の高度成長期であり、研究機関や大学図書館が内容の充実を急いだため、洋書の需要が激増し経営は順調であった。35年度の売上は5000万円であったが37年度には3億円を突破するまでになった。バックナンバー、リプリントなどのゆたかな情報を提供し、誠実迅速に洋書を届ける社風が信頼を得、顧客を確実に増やしていった。そして昭和42年(1967)の創業35周年には、京都に関西営業所を開設した。

Antique Booksの東西交流を促進
数多くの外遊のなかで満夫は大英図書館でガラスのケースに陳列されていた4冊のFAMOUS BOOKSを見たときの強い印象をわすれることができなかった。その4冊はグーテンベルク四十二行聖書、キャクストン版『イソップ物語』『シェイクスピア全集』ファースト・フォリオ、ケルムスコット版『チョーサー著作集』である。「洋書の輸入を一生の仕事」と決めた彼は、このような美しいAntique Books を、自分の手で扱ってみたいと思った。そこで欧米の古書展や蔵書家をめぐり、カタログ注文で買い集めること数年、ようやくRare Booksの在庫が増え、41年(1966)夏、初めての洋書展を京王デパートで開催、その主なものは、米国歴代大統領自筆コレクション、フランス革命資料、インキュナビラ、ワイマール版『ゲーテ全集』、フランスの18世紀古地図集、小泉八雲コレクションなどであった。この展示会は、大学図書館やコレクターの雄松堂に対する関心を高め、日本では珍しい洋書公開に人々の注目が集まった。ある新聞は、「マルクス『資本論』の英語版初版をめぐって学者同士がジャンケンで買い手をきめた」と報じている。

翌42年(1967)11月に東京・新宿の伊勢丹で約400点という規模の第2回国際古書展を開いた。読売新聞が「これだけの規模のブックフェアが日本で催されるのは初めてのことと報じ、「開催前の招待日に約半数が売約済み」という驚くべき成果をあげた展示会であった。
ここでもっとも注目されたのは、日本にはない『シェイクスピア全集』のセカンド・フォリオ(第2版:1632年刊)とサード・フォリオ(第3版:1664年刊)の公開であった。このほかエンゲルスの署名入りマルクス『資本論』初版、マルクス自筆書簡、イギリス歴代首相自筆コレクション、ベートーベン、メンデルスゾーン、シュトラウスらの自筆楽譜、さらにカクストン版、ケルムスコット版、リカルディ版、ブレイク彩飾詩集などの美麗本を並べた。まさに、「収集家からため息」のもれる展示品の数々であり、文化遺産としての価値あるRare Booksを日本でも収集ができることを世に知らしめ、学者達の研究する意欲をかき立てることにつなげた展示会となった。
「週刊サンケイ」では、阿部賢一早大総長が、「西洋のりっぱな本を一堂に集めて、しかもこれほどさばけるとは日本も文化的に向上したものだな」と語った。また同じ誌面で松村竜一氏(日本古書籍協会副会長)は、外国で本を買うには技術と力と、さらには度胸がいります。新田さんはこの点じゅうぶん。加えて若さ、語学力、資本力もあるし、しかもアイデアが実にいい。」と当時の満夫の活動を評価した。

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第1回古書展の様子
本を見る人の目も真剣

 4.本を愛する心でつながる世界

本でつながるグローバルな交流をめざして
研究者の求めるものをさとり、それに敏速に対応する活動をささえるのは何よりも本を愛し、人と人との出会いを大切にする心であるが、海外書店との親身な付き合いも雄松堂書店の発展にはかかせないものであった。
日本で国際古書商連盟と呼ぶILAB(International League of Antiquarian Booksellers)は、1947年に組織されているが、そのモットーは、AMOR LIBRORUMNOS UNIT(本を愛する心はひとつ)である。このモットーに共鳴して、日本古書籍商協会ABAJ(Antiquarian Booksellers Association of Japan)が1963年に10名の発起人によって創立され、翌年ILABに加盟し、満夫はその事務局長として協会を運営してきた。また1973年日本で始めてILABの東京大会が開かれ、満夫は日本からただ1人選ばれてILABの常任理事を数年間つとめた。

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ILAB東京大会
新聞に掲載されたILABの参加
第5回国際古書展

また、この秋、東京・九段のグランドパレス・ホテルで第5回国際古書展をプロモート、その信頼と実績から海外から60余の一流古書店を集め、世界の貴重な文化遺産といわれる稀覯書を大規模に交流させた日本での最初の催しを開催した。日本からの呼びかけにより名だたる古書が集結することが可能になったのである。

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グロリアクラブ例会の模様
また、1974年に12名の同志とともにグロリアクラブを設立し、その事務局を雄松堂書店において会務を処理している。1884年に、ニューヨークの美術印刷業者Arthur B. Jurnur の呼びかけでつくられた愛書家の集まりグロリアクラブに倣って、その精神に沿った組織を日本につくったのである。これは本の内容を研究するよりも、本の芸術性、文化性を語り合うことを目的とし、しばしば国内外の著名な愛書家を招いて芸術品としての本を論ずる、当時日本では珍しい集まりであった。
これらの活動は、欧米の書店、学者との親しい交わりによって支えられ続けている。

学者情報をより早く
ところで、特定の学者や図書館を対象として一点ずつ販売する古書には、ひとつの限界がある。東西文化の交流という大きな目標のためには、より広い活動が求められる。その意味で、洋書リプリントや新刊書を導入するルートを、雄松堂の機構のなかにつくりあげた。このルートより新しい学術情報を、日本の研究者により早く伝えることを可能にした。
学術雜誌のバックナンバーなどは、すでに初代勇次のときから扱いはじめているが、満夫のもと海外書店の総代理店契約の形でより確かな強いものにした。マイクロフィルムのUMI社とは、既に述べたように昭和37年(1962)に特約しているが、40年(1965)には世界一の文学書リプリント出版社であるAMS社(AMS Press Inc.)の日本総代理店となった。
又、フランスのラルース社と契約してLa Grande Larousse Encyclopédie(全10巻)を販売する大仏百科株式会社を設立した。この別会社は後にニューフィールド図書販売株式会社と変更され、さらには46年(1971)4月には、本社にあった代理店事業部を拡大させる形で卸売り業務の新会社PIC (Publishers International Corporation) を設立した。

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現在のアトラス世界地図帳(11版)

当時PIC が代理店となったのはAMSのほか、Da Capo Press, Inc.、Greenwood Press, Inc.、Keip Verlag KG.、Havester Press Microfilm Publications Ltd.、Shoe String Press, Inc.、Newspaper Archive Development Ltd.、Clio Press Ltd.、Chadwyck-Healey Ltd. Times Books Ltd. などがあげられる。(2002年よりPICの代理店業務は本社に移動)タイムズ社の世界地図帳「タイムズ・アトラス」は1895年の初版から、常に新しい正確な情報を盛り込んで増補し、版を重ねている世界最高の地図であるが、PICは第4版から継続して扱い、その普及によって、地図をアトラスと呼ぶことが広がった。今では雄松堂出版がハーパー・コリンズ社との共同出版社となって2007年には12版を重ねる。
本社機構の中では、法律文献を扱っているMatthew Bender 社(現:LexisNexis社)などの代理店業務(2007年現在雄松堂ファンタスが引き継いでいる)をはじめた。UMI社(Proquest社)の学位論文は、アメリカとカナダの最新の研究動向を知る有力なルートとして研究者の間で重宝された。またイギリスで出版されている1475年からの総合出版目録(Short Title Catalogue)に収録された本のマイクロ化を進めており、そのコピーは大学図書館や研究者の需要が多く、研究論文の作成に重宝された。

90名を越える社員と共に
こうして彼の積極的な企画・活動は順調に伸び、経営は多角化して、43年(1968)10月、新宿区三栄町29番地に新社屋を建設した。鉄筋コンクリート建約1000平方メートルで、「新田」にちなんで「ニューフィールド・ビル」と名付けた。太平洋戦争後、小石川で再起したときは店舗のない古書商であったが、それから20年にして、近代的ビルをもつ会社に成長したのである。
古書はもちろん、リプリント、新刊書の流通、マイクロフィルムの製作、出版事業と、それぞれに競いあって、経営は拡大し、50周年を迎えた1982年は90名を数えた。そこでニューフィールド・ビルでは手狭になって、昭和55年(1980)11月には、文京区大塚3丁目42番地に鉄筋コンクリート550平方メートルのビルを購入、これを「第二ニューフィールド・ビル」と名づけ、出版事業部、営業開発部とPIC移動させた。国際的な信用をもとに、洋書の輸入と学術書の出版によって学界に寄与することが、雄松堂グループの信条のひとつとし、先代勇次が上京して50数年で東京に二つのビルを持つ会社に育ったのである。

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本社ビル
第二ニューフィールド・ビル

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68号 2007/03/30
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