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鵜野ひろ子氏
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日本エミリィ・ディキンスン学会(EDSJ)は、本年8月3日から5日までの3日間、エミリ・ディキンスン国際学会(EDIS)の第6回国際会議 "Emily Dickinson in Japan: Like Fabrics of the East" を京都のザ・パレス・サイド・ホテルにおいて共催し、盛会の内に幕を閉じることができました。
EDISは1988年に創設され、学術雑誌Emily Dickinson Journalおよび会報Emily Dickinson Bulletinを発行し、毎年、年次大会を開催しています。また1992年にワシントンDCで第一回国際会議を開催して以来、原則として3年毎に国際会議を開催し、その2回に1回は、本拠のある米国以外で開催することとなっていて、1995年にはオーストリアのインスブルックで、2001年にはノルウェーのトロンハイムで開催されました。
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会場:ザ・パレス・サイド・ホテル
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学会ポスター
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日本エミリィ・ディキンスン協会(後に「学会」と改称)は、古川隆夫先生のご尽力で1980年に創設されました。創設以来、毎年全国大会を開催し、ニューズレターを発行し、1985年には米国で開催されたエミリ・ディキンスン没後100年記念の三つの国際会議に団体で参加し、またその前後には、故リチャード・シューアル教授等を日本に招待し講演会を開催するなど、活発な研究活動を行ってきました。
今回の日本での開催に際しましては、アメリカ大使館とアメリカ研究振興会から資金の援助をいただき、ブラウン大学のバートン・セント・アーマンド教授、マウント・ホリヨウク大学のクリストファー・ベンフィー教授を招待講演者としてお招きすることができました。また、EDISの資金で、ワシントン大学のレベッカ・コープランド教授を特別講演者としてお招きし、日本からは新倉俊一明治学院大学名誉教授と稲田勝彦比治山大学副学長が特別講演をしてくださいました。さらには、渡辺教具製作所の渡辺美和子社長など、ディキンスンの詩を愛する人々からご寄付をいただきましたお陰で、資金の心配をする必要もなく、運営することができましたこと、心より感謝申し上げます。またプログラムは私の大学院の授業を聴講しているイラストレーターの前田まゆみさんが装丁してくださいました。日本の夏の花と言えば、朝顔ですが、ディキンスンも愛したであろう西洋朝顔をデザインした涼やかなプログラムとなりましたので、ポスターにも使わせていただきました。花を愛し、育てたエミリ・ディキンスンが西洋朝顔となって日本の京都に現れたかのような気がいたしました。
参加者はアメリカを初め、オーストリア、ロシア、イギリス、デンマーク、韓国、カナダ、ドイツなどから約45名、日本人がほぼ同数というもので、海外からの参加者の家族やアシスタントの院生などを入れると、総勢100名を越えるものとなり、借り切ったホテルの2階がほぼ満杯の状態となりました。8月初めという会期でしたので、京都の猛暑や台風を心配しましたが、台風が逸れてくれたお陰で、暑さもそれほどではなく、会議室の窓からは御所の緑が見え、真夏だというのに、爽やかで、和やかな雰囲気の中、レベルの高い講演や発表、そして質疑応答が活発に行われ、大変充実した会議となりました。
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学会の風景1
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学会の風景2
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1日目の夜の晩餐会では、裏千家で外国人に英語で茶道を教授されているブルース・整一・浜名先生に茶道の講義をしていただきました。2日目の午後は、希望者の48名がバス・ツアーを楽しみました。まず、公開されていない裏千家今日庵を特別に拝観させていただき、お茶室でお菓子とお茶のご接待を受けました。その後、神戸女学院大学の通訳の講師によって、仏教や寺院についてのガイドを受けながら、京都を抜け、大津市の三井寺法明院に向かいました。法明院では、アーネスト・フェノロサのお墓を参拝し、境内から琵琶湖を望んだ後、比叡山の延暦寺根本中道を参拝しました。丁度、宗教サミットが終了した後で、しかも青少年の平和の祈りの集いが行われている最中でした。子ども達の平和を祈る姿も、参加者の印象に深く残ったようです。その後、普段は入れない延暦寺の迎賓館と呼ばれている建物で精進料理の夕食をいただき、裏千家からのお土産の「ふのやき」というお菓子もいただきました。夕食後、比叡山頂上のガーデン・ミュージアムで、涼しい風を受けながら、京都と大津の夜景を展望し、またモネの庭を再現した庭園も楽しみました。
国際会議前日の8月2日の、役員会、レジストレーション、両学会の役員懇親会から始まり、8月5日(日)午後のEDIS総会まで、ぎっしりとスケジュールが詰まっていて、めまぐるしい日々を過ごしました。しかし、会議終了後、皆様から、「大きな期待をはるかに超えた、これ以上望めないほどの、素晴らしい国際会議だった」との、お褒めの言葉を頂戴し、開催者代表として、ほっとしているところです。EDSJ理事の皆様やザ・パレス・サイド・ホテルの従業員の方々など、いろいろな分野で様々な方々にご協力をいただきました。そのようなご協力なしには、今回の国際会議の成功は在り得ませんでした。この場をお借りしまして、皆様に心より御礼申し上げます。
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学会の風景3
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学会の風景4
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さて、私にとっての初めての国際会議での発表の経験は1986年4月28日に米国マサチューセッツ州立大学アマースト校で開催されたエミリ・ディキンスン没後百年記念国際会議です。これはマサチューセッツ州立大学のデイヴィッド・ポーター教授と、そこに留学されたことのある日本エミリィ・ディキンスン協会事務局長(当時)の古川隆夫岡山大学教授が企画して、日本にいらしたこともある、今は亡きチャールズ・アンダースン教授にも参加していただいて開催された、日本人のための国際会議のようなものでした。未熟な私に、そのような国際会議での発表の機会を与えていただいたお陰で、その後、ディキンスンの国際会議だけでなく、エズラ・パウンド国際会議などでも発表をすることができるようになったのだと、古川教授とポーター教授に深く感謝しております。
またそのマサチューセッツ大学での国際会議の直前には、ノース・カロライナ大学で、またその後の5月の初めには、ワシントンDCにあるフォルジャー・シェイクスピア図書館の劇場でも、それこそ本物のディキンスン国際会議が開催されましたので、日本エミリィ・ディキンスン協会の有志10人余りがツアーを組んで、その3つの会議に出席しました。ノース・カロライナ大学での国際会議では、授業の関係で、一人遅れて夜遅く現地に到着した私を、飛行場で迎えるためにご子息を寄越してくださったノースカロライナ大学のルイス教授のご配慮が忘れられません。またジョイス・キャロル・オーツの記念講演も印象に残っています。
フォルジャー・シェイクスピア劇場での記念祭は、中でも最も盛大なもので、J・ライダ教授、故シューアル教授、ベンフィー教授にも、そこで初めてお目にかかることができました。ハイライトは3人のパネラーの壇上での発表と討論でした。その議論の中、一つの疑問が残り、誰もその疑問に答えられずにいました。すると、フロアーにおられたアンダースン教授が手を挙げて立ち上がり、「その疑問には、日本人のHiroko Unoなら答えることができる」と、言ってくださいました。直前のマサチューセッツ大学での発表の中で、ちょうどその点に触れていたからです。そこで、私も壇上に上って答えることになりました。幸運にも、自分の発表したその論文を持ち歩いていましたので、壇上で、簡単に自己紹介をした後、その問題についての箇所を読み上げたことを覚えています。アンダースン教授の、人種差別をするどころか、無名の日本人の若手研究者にそのような晴れがましい機会を与えてくださった、温かな、広い心に触れることができ、感激いたしました。私は以前より、教授の著作から大いに学んでいたのですが、そのような経験から、教授を心の底から尊敬し、私も彼のような人間になりたいと願っています。
その後設立されたEDISの第1回目の国際会議には出席できなかったものの、2回目以降は毎回出席し、インスブルック大会、トロンハイム大会では発表もしました。インスブルックの会議では、開催校のインスブルック大学のグラバー教授の学生さんが作成した、ディキンスンの詩についてのビデオが印象に残っています。トロンハイムの頃には、親しい友人ができていましたので、国際会議が世界中の友人と会える楽しい機会となっておりました。またそれまで出てこられなかったオスロ大学の故ブリタ・リンドバーグ=セヤーステッド教授にお目にかかる貴重な機会ともなりました。
このようにそれぞれの国際会議は、大いに学ぶことができる機会であるばかりでなく、世界中の研究者と交流を持ち、友情を深めることができる貴重な機会です。これまで各地でお世話になってきましたので、今回はそのお返しとして、私が中心になって、京都での国際会議のお世話させていただきました。今回の京都での会議が若い研究者にとって身近なものとなり、刺激となって、今後はもっと大勢の日本人が発表されることを期待しております。さらに、今回の成功が、これまで日本エミリィ・ディキンスン学会を設立し、ご苦労くださった新倉俊一先生や古川隆夫先生を初めとする先生、先輩諸氏に対して、少しでもご恩返しとなればと願っております。
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