私は学部の卒論でエドガー・アラン・ポーを扱い、大学院の修士論文でセオドア・ドライサーに取り組んだ。アメリカ文学に関してひとりの作家の主な作品すべてを、まがりなりにも一通り読んだと私が言えるのは、この2人しかいなかった。だがその後、この分野で仕事をするようになると、「どういう方面がご専攻ですか」などという質問を受けることもあり、それにまともに答えたら不思議そうな顔をされることに嫌気がさしてきた。こんな対蹠的な作家両者に興味を持つなんて、二重人格か統合失調症でもあるにちがいないと思われても、仕方がなかったのかもしれない。
たしかに、一方は作品が短いことを文学の必要不可欠の条件として理論化し、その理論を実行に移してみせた作家であるし、他方は、放っておけばいくらでも書き継いでいき、長い長い原稿を綴り続けて、誰か他人に文章を大幅に刈り込んでもらわなければ本にまとめることもできなかった作家である。文章の質からいっても、主題の傾向からいっても、両者は正反対に位置すると見られるのが普通である。この2人のあいだに何のつながりも関係もないと見るのが学識というものであろう。じじつ、この度私が翻訳の機会を与えられた『セオドア・ドライサー事典』には、当然ながら、ポーに関する項目などない。
しかし、できればこの種の事典にポーの項目を書き加えたいとさえ思うのが、私の業である。本稿はそんな思いに発しているが、アメリカ文学研究でたどってきた自分の経路を正当化したいという底意は些細なものでしかない。それよりももっと根本にあるのは、ドライサーがなかなか肝心なところでポーを受け継ごうとしていたことを明らかにしたいという願いである。
私の修論では、ドライサーの全小説作品を刊行順に論じた後、終わりのほうの総括的な章のひとつで「ドライサーの芸術」を論じ、そのなかでドライサーとポーの絆に触れたのであった。修論の講評を受けたときに、ここがもっとも説得力の弱い箇所であると酷評されたことを、今でも忘れることができない。その後何年も経ってから、トマス・リジオの「アメリカのゴシック――ポーと『アメリカの悲劇』」が『アメリカン・リテラチャー』誌に出て、ロバータ殺害の企みにとりつかれたクライドの描写がポーにおける異常心理の描き方を引き継いでいると論証してくれた。ところが修論後の私は、バフチンのドストエフスキー論を援用することでドライサー文学の独自な迫力を説明しようとする試みにたどりついたものの、さて、ポーからの継承という問題になると、待ったをかけられたような気がしたせいか、まだ論じきれていないのである。ここでそれを論じる余裕はないが、せめて修論のなかでも使ったエピソードを紹介してみたい。
ドライサー自身は早くからポーの影響を受けたと、自伝やエッセイなどで述懐している。また、世間から理解されず孤立を強いられた受難の芸術家として、ホイットマン、ボードレールに共感を寄せるとともに、誰よりもとりわけポーに自分を同一化しようとする文章をあちこちに書いている。なかでもH・L・メンケンとやりとりした書簡に見られるポーの扱い方が傑作である。
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ポーの墓
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1920年8月7日付でメンケンがドライサーに書いた手紙には、「先日、イヌに小便を引っかけられました。凶兆」という1行があった。これに対するドライサーの返信(8月13日付)には、「私に霊界からのお告げが届き、貴兄の不興を招いたあのイヌは、エドガー・アラン・ポーのさまよえる魂を宿していると知らせてくれました。復讐にきたわけです」とある。このやりとりの背景には、やや尾籠な話にわたって恐縮だが、メンケンの本拠地ボルティモアにあるポーの墓にいつもイヌが小便をかけているという笑い話があった。それはメンケン一流の冗談のひとつであって、しかもメンケンは、友人たちとビアホールでくだを巻いた後、連れをポーの墓へ伴い、立ち小便をする習わしであったという。ドライサーは諧謔好きのメンケンに調子を合わせながらも、その不埒な行為を、ポーになりかわって諫めたつもりらしい。
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ボルティモア街頭の道路標識
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私が最初の滞米中にポンコツ車を駆ってボルティモアを訪れたのは、まず何よりもこの墓を見たかったからである。その後10年以上経ってからさる学会に出席するためにボルティモアを再訪したときは、ウォーターフロントをリゾートとしてよみがえらせた都市再開発によって見違えるようになったので驚いたが、当時のボルティモアは、見るからに斜陽の荒廃した街であった。ボルティモアに行ったついでにポー・ハウスや、メンケンの住んでいた家も見てきた。ポーの家は今や黒人街の一角を占めるにいたり、150年ほども昔の建物であるはずなのに、困窮者用の公共住宅として現役に供されていると、近くでぶらぶらしていた人から聞いた。ポーが住んでいたことを記した銅板は貼ってあるけれども、住人がいるとのことで内部を見ることはできなかった。メンケンの家は、もっと瀟洒なロウハウスの一軒であり、やはり銅板はあるものの、そこに現に住んでいる若夫婦が、家の前の路上で洗車をしていた。
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メンケンの家
(右側の玄関)
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メンケンの家を示す銅版
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メンケンは米国のピューリタニズムや俗物根性をシニック派風にこき下ろし、ドライサーを押したてる勢力の旗手を演じることで文化革新をはかった、1910年代の大物批評家であった。彼から見るとポーもドライサーも、アメリカ主流文化から除け者にされた犠牲者であって、復権されるべき先覚者であった。ただし、ポーもドライサーも一方で科学的探究に絶大な関心を抱きつつ、他方で超自然的な神秘にも魅惑されていたし、ロリータ・シンドロームを抱える芸術至上主義的なボヘミアンでもあった。そういう類似点こそポーとドライサーのつながりを考える上でもっとも重要な特徴なのだが、あいにくメンケンにとっては、そういうところこそもっとも気に入らない傾向であった。ポーの墓にオシッコを引っかけるなどというのも、ポーへのねじれた崇敬の念のあらわれであろうが、ドライサーに対してもメンケンは、1920年代になると同様のねじれを徐々にあらわにしていった。ドライサーの左傾を、グレニッチヴィレッジのボヘミアンたちに影響されて迷信深い田舎者の本性をあらわし、くだらない大義を信じるようになった結果としかみなさなかったメンケンは、やがてドライサーとの不仲を募らせていき、『アメリカの悲劇』成功後に2人は訣別してしまった。
しかし、ドライサーは晩年、メンケンとの関係修復をはかった。他方メンケンは、表面上はともかく、本音でドライサーを再評価するにはいたらなかったようである。それでもドライサーは1943年3月27日付の長い手紙で、かつて批評家メンケンが自分のための擁護に尽力してくれたことに対する謝意を縷々述べたあげく、つぎのように書いた。「私は死の瞬間まで貴兄を敬愛します。ですから、世間から忘れられた私の墓にも、エドガー・アラン・ポーにやったのと同じことをやらかしたりしないでください。わかりましたか。さもなければ私は仕返しをしに、あの世から戻ってきますからね。しかもしこたまね!」ここには、20年以上も前のメンケンとのやりとりを忘れずに、世間からの白眼視を避けられなかったポーと自分を重ねてみせたドライサーの自己認識がうかがえる。