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愛知大学国際問題研究所 客員研究員 川崎晴朗
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川崎晴朗氏プロフィール
昭和8(1933)年生まれ。昭和31(1956)年、外交官・領事官採用試験合格。昭和32(1957)年より平成9(1997)年まで外務省に勤務。平成10(1998)年より平成16年(2004)年まで東京家政学院筑波女子大学国際学部教授。同年より愛知大学国際問題研究所客員研究員現職。法学博士
著書:『幕末の駐日外交官・領事官(東西交流叢書4)』雄松堂出版 1988年
『築地外国人居留地』雄松堂出版 2002年
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拙著『築地外国人居留地』は2002年10月、雄松堂より出版されたが、同書の「はじめに」で述べたように、筆者がこの書物を執筆した目的の一つは、1869年1月1日(明治元年11月19日)から1899(明治32)年7月17日まで現在の東京都中央区明石町に存在した築地外国人居留地のありのままの姿を読者に伝えるため、居留地を訪れ、またここに滞在した日本人・外国人が書き残した記録を紹介することであった。
もちろん、このような記録を全部集めることは到底不可能である。相当数を探し出したつもりであったが、拙著の刊行後もいくつか発見することになった。例えば、イギリスのバード夫人による築地居留地の描写があることに気が付き、Net Pinusの63号(2006年3月25日)で紹介させて頂いた(なお、Net Pinus62号およびNet Pinus65号にも関連記事を載せた)。
今回は、築地居留地にあった教会の一つ、イギリス教会宣教会(CMS)が建設した聖パウロ教会を若き芥川龍之介が訪れ、描出しているので、これをご紹介したいと思う。
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芥川龍之介は、1892(明治25)年3月1日、東京市京橋区入船町八丁目で誕生した。父は新原敏三(にいはら としぞう)といい、ここで耕牧舎を経営し、牛乳、バター、チーズなどを製造・販売していた。龍之介は出生直後、当時の俗習により、新原家の筋向いの教会の門前にいったん捨てられ、父の友人に拾われることになる。この教会が聖パウロ教会で、築地居留地52番にあった。これで明らかになると思うが、新原家は居留地とは道路1本をへだてたところにあった。ここは、もともと居留地の予備地とされた土地の一部であった(図参照)。 |
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築地居留地略図[拡大]
出典:東京都編・刊『築地居留地』(1957年) 70−71頁の間。
注 :居留地52番にイギリス教会宣教会の聖パウロ教会があった。また、×印に耕牧舎があった。
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幼児の龍之介が本所区小泉町15番地の芥川家に引き取られたあとのことであるが、新原は東京府から立退きを求められ、耕牧舎の跡地は居留地の一部となった。
以上の諸点についての詳細は、岩波書店『文学』2004年3・4月号に寄せた「芥川龍之介の生誕地」および學燈社『國文学』2008年2月臨時増刊号の「交詢社『日本紳士録』と新原敏三―納税額のことなど―」の二つの拙稿を参照されたい。
さて、芥川龍之介による聖パウロ教会の描写はいたって短かいもので、彼は未定稿「十八年目の誕生日」で次のようにいっている。
私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした 家のうしろが小さな教会でこンもりした柊の木立の間から 古びた煉瓦の壁が見えて 時々やさしい歌の聲が 其中からもれて來たのと 低い腰掛が二かはに行列よくならンだ 薄暗い部屋のつきあたりに黒い髪の女の大きな額がかゝつてゐたのとは 未だにはつきり覺えております
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これは葛巻義敏編『芥川龍之介未定稿集』(岩波書店、1968年)に採録されている芥川の初期の文章の一つである(471−2頁)。この文章は「私は十八年目の誕生日をむかへました。」ではじまる。当時は数え年で年齢をあらわしたので、彼は1909(明治42)年3月1日またはその直後にこの文章を書いたことが一応想像される。
芥川は、同じ文章で次のようにも書いている。
あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて静に海の上をすべツてゆくのや 勢のいゝ船歌や 茜色がかつた水がたぷたぷ石垣をなめてゐるのが…(中略)…海の底にある國の事を考へてゐた幼児に どンな感じをおこさせたかは たしかに覚えてゐません
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芥川が1909年3月にこの文章を書いたとしても、その日はじめて築地の生地を訪れたとは考えられない。それ以前にも彼は何回か築地を訪れ、教会から流れる賛美歌に耳を傾けたり、内部をのぞいたりしたのであろう。「大きな額」の黒髪の女とは、聖パウロ教会を司牧したWilliams宣教師の母親かも知れない(ただし、これは筆者の勝手な想像である)。海の描写は、もっと幼いころの芥川が女中に伴なわれ、築地周辺に遊びに行ったことを示している(このあたりは、かつては現在以上に東京湾の湾口に近かった)。
芥川のこの文章では、いつの記憶を述べたものかの点があいまいなのである。芥川は、同じ文章で「いくつの時でしたか 本所に住む様になつて こゝから學校へかよひました」とも書いているが、彼が本所区小泉町に移ったのは実際には生後七、八ヵ月で、当時の彼が生家やその周囲のことを記憶している筈がない。未定稿についてとやかく論じてもはじまらないが、物心つくころから18歳までの間の思い出のいくつかを、芥川が一つの文章にまとめて綴ったと考えるべきであろう。
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「十八年目の誕生日」を読んで、筆者が不思議に思うことが一つある。
1874(明治7)年2月3日、築地居留地で立教学校が発足した。場所は居留地19番(付図)というのが筆者がたど辿りついた結論であるが(拙著149−161頁)、その後、学校はアドレスを転々と変えた。入船町八丁目は、芥川が本所区に移ったあと、すぐ隣の新栄町七丁目と共に築地居留地に編入されるのであるが、ここには、1893(明治26)年10月―12月、57番から60番まで四つの地所が造成され、外国人を対象に競売に付された。新栄町七丁目には、これより早く1889年5月、53番―56番の四つの地所が造成され、やはり競売に付された。1893年10月、立教中学はこの計八つの地所に新校舎を建設することを決定した。『立教中学校100年史』(立教中学校、1998年)によると、1895(明治28)年には寄宿舎が竣工、翌年には未完成ながら校舎の使用を開始したという(39−43頁)。
芥川は築地を訪れた際、それが1895年以降であれば、当然、生家を含む旧入船町八丁目・旧新栄町七丁目の様相が一変し、立教中学校の校舎や寄宿舎が立ち並んでいるさまを目にした筈である。しかし、彼は何故かこの点については何も書いていないようなのである。
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芥川龍之介が生まれた1892年当時、築地居留地には新旧キリスト教の何の教派が本拠を置き、そしていかなる宣教師が居住し、活動していたか。明治・大正時代の在日外国人の氏名や住所は、横浜で毎年刊行されていたThe Japan Directoryでほぼ明らかになるが、1893年版がその前年の状況を伝えている。この年鑑は、ゆまに書房刊『The Japan Directory 幕末明治在日外国人・機関名鑑』の第15巻に復刻されているが(1996年刊)、東京にあった「宗教団体」の項を眺めて見よう(47−56頁)。
これによると、1892年ごろ築地居留地にいた宗教団体のアドレスと宣教師名は次の通り。
| 4番 |
カナダ・メソジスト教会
Davidson MacDonald |
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30番B |
アメリカ・バプテスト教会
Charles H.D.Fischer |
| 4番B |
アメリカ・オランダ改革派教会
Guido Herman Fridolin Verbeck |
35番 |
ローマ・カトリック教会
Pierre Marie Osouf |
| 15番A |
アメリカ・メソジスト監督教会
J.G.Cleveland |
37番 |
アメリカ聖公会
Channing M. Williams |
| 18番 |
アメリカ・ルーテル教会
James A.B.Scherer |
50番 |
アメリカ福音教会
Frederick W.Voegelein |
| 23番 |
アメリカ長老教会
David Thompson |
52番 |
イギリス教会宣教会
James Williams |
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52番にあったイギリス教会宣教会の教会が聖パウロ教会である。
芥川龍之介が生まれたのは、1899年の「条約改正」によって築地を含む各地の外国人居留地が撤廃される約7年前である。しかし、東京では、築地居留地撤廃以前から居留地域外に居住する外国人が多数いた。上記以外の教派に属する宣教師も、市ヶ谷仲之町、牛込佐内坂、本郷真砂町など、市内のあちこちに住んでいた。ローマ・カトリック教会の宣教師にしても、築地居留地のほか神田猿楽町、浅草柳原町および小石川関口町にも何人かずつ居を構えていた。
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芥川龍之介が聖パウロ教会を描出したのは1909年3月のことであったと考えよう。当時はすでに居留地制度が廃止され、築地居留地のあった区域は京橋区明石町となっていた。しかし、東京都編・刊『築地居留地』(1957年)によると、築地界隈に住む外国人の数はその後かえって増加したという(327頁)。
築地居留地52番は明石町52番地となったが、それでは1909年当時、ここには誰が居住していたであろうか。このころの状況はThe Japan Directoryの1909年版(『幕末明治在日外国人』では第40、41巻、1997年刊)の「築地」の項で明らかになる。これによると、52番地は2分割され、Rev. Arthur Lea, M.A.およびMiss Marion Greeyが一つの区画を、またMiss Juliusがもう一つの区画を占有していた。1910年版(同、第43巻)の「築地」の項でLeaおよびMiss Greeyの区画に変化はないが、もう一つの区画(52番Aとなっている)にはRev. W.P. Buncombreが夫人および令嬢と共に住んでいる。
Miss GreeyおよびMiss Juliusについては資料が見つからないでいるが、LeaもBuncombreも、James Williamsと同様、CMS派遣の伝教師である。Leaは九州地方で、またBuncombreは四国に定住し、伝道活動を行なっていたが、1908,09年ごろは東京に居住していたことがわかる。Greey嬢およびJulius嬢もCMSの婦人宣教師であったと想像される。
明石町52番地の坪数は487坪2合で、かなりの広さがあった。二つに分割したが、教会が置かれている区画の方が広く、ここにLeaおよびGreey嬢の居住区域があったと想像される。もう一つの区画の建物にいたJulius嬢は去り、そのあとにBuncombre一家が入居したことがわかる。
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ところで、イギリス人のジェームズ・サマーズは「お雇い外人」として来日、日本の各地で英語を教えたあと、お雇いの身分をはなれ、1883(明治16)年4月、居留地33番Aに住み付いた。やがて彼はここに歐文正鵠學館を開き、夫人、令嬢たちが英語を教えることになった。たまたま、同じ1883年には、新原敏三が入船町八丁目で耕牧舎の支配人になった。
サマーズの令嬢の一人、リリーによると、サマーズ夫人は33番Aのまわりの空地で羊を飼い、乳をしぼって一家の需要をみたしたのみならず、隣人、友人にも乳を分けてあげたという。この点は拙著でも触れたが(191頁)、新原にも「競争相手」がいたことになる。
歐文正鵠學館は俗称「サマーズ・スクール」であるが、この学校には新原の娘も通った。興味あることに、小学生の谷崎潤一郎もここに通っている。これについては、『國文学』2002年8月号の拙稿「谷崎潤一郎と『サマーズ・スクール』」を参照されたい。
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筆者は、『築地外国人居留地』でアメリカ長老教会のクリストファー・カロザースにしばしば言及したが、「交詢社『日本紳士録』と新原敏三」で彼に関して新資料を紹介することができた(137−8頁)。彼の英語塾のアドレスは入船町八丁目1で、後年芥川龍之介が生まれた場所と同じ番地である。しかし、この稿で明らかにしたように、入船町八丁目の住民は全員(といってよいであろう)が入船町八丁目1を住所としていた。この点を知っておかないと、龍之介が米国人の英語塾のあった場所で生まれた(その可能性を完全に排除することはできないが)と誤解する人が将来あらわれないとも限らない。
筆者は拙著で、ロシア正教会の宣教師ニコライが1872年3月に上京、その直後「銀座の大火」で被災したことを述べた(82−3頁)。最近、教文館から『宣教師ニコライの全日記』(全9巻)が刊行されたが、第1巻(2007年刊)は1870−1880年の分を扱う。しかし、1872年については、年初の日記はあるが(86−8頁)、そのあとは1879年の分となる(90頁以下)。監修・翻訳にあたった中村健之介教授によると、ニコライはこの間、日記を書かなかったのかも知れないという(89頁)。どうやら、ニコライによる築地居留地の描写はないようで、不思議である。もっとも、日記はなくても、友人にあてた書簡などが今後発見されないとは限らないであろう。
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筆者には、いまささやかな夢がある。イギリスへ行き、CMSが日本に派遣した男女の宣教師、とくにJames Williamsが本部に送ったであろう報告類を探し、読んでみたい、という夢である。耕牧舎から牛乳を配達して貰っていたこと、誕生直後の龍之介が彼の教会の門前に一時的にせよ「捨てられた」ことなど、本部に報告しているかも知れない。その他、彼は築地居留地について細かく描写しているのではなかろうか。Williamsは1883(明治16)年、いったん帰国したが、彼の後任者たち(Leaも含まれる)も、やはり居留地について何か記録している可能性がある。これを探ってみたいのである。
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