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雄松堂Net Pinus 73>「しれねえ」と私

Net Pinus 73号

精選近代文芸雑誌エッセイ

2008/12/26

精選近代文芸雑誌エッセイのTitle

紅野敏郎
(こうのとしろう)
1922年兵庫県に生まれる。早稲田大学国文科卒業。早稲田大学名誉教授。
白樺派を中心に幅広く近代文学を研究。また、忘れられつつある近代文学者の発掘、近代に発行された数々の雑誌の保存等に力を入れてきた。日本近代文学館常務理事。
【主な著書】 『貫く棒の如きもの─白樺・文学館・早稲田─』(朝日書林、1993)、
大正期の文芸叢書』(雄松堂出版、1998)、
文芸誌譚─その「雑」なる風景 1910〜1935』(雄松堂出版、2000)等

しれえね
しれえね表紙

宇野浩二らの同人雑誌「しれえね」の存在に、強い関心を抱きはじめたのは、いつごろであったろうか。宇野とは生涯にわたっての文学的盟友であった広津和郎らの同人雑誌「奇蹟」に比べると、その知名度において「しれえね」は、はるかに低かったと言わざるを得ない。いや、いや、「明星」や「白樺」などのような文学史上大きな役割を果した雑誌名に対しての「しれえね」の名は、砂粒のようなもので、一体どういう存在価値を持っていたのであろうか。

そういう素朴な疑問を持ちはするが、そのナイルの水の一滴のような砂粒の存在こそ大切で、歴史の現場に降りたち、その細部を押えてみると、事態は別の様相を帯びてくる故、慎重に扱わねばならないのである。

奇蹟
奇蹟の表紙

1912年(明治45)3月15日創刊の「しれえね」は、この創刊号のみの同人誌、つまり創刊号が終刊号。広津らの「奇蹟」は、同年の秋、つまり「明治」から「大正」へと推移したときの創刊である。「しれえね」のほうが、一足といえども先行していた。ともに島村抱月らの第2次「早稲田文学」畑からの出産であり、基底においては共通項もあったが、「しれえね」と「奇蹟」はその文学的志向、雰囲気においては、大きな差異があった。その差異は、現実を直視する自然主義的要素に塗り固められていた早稲田の畑に、珍しくも浪漫的、象徴派的雰囲気を横溢させた点にあった。宇野浩二のつねに唱えた、夢のなかの人生、夢みる人生、ある日、ある夢の真実への接近、それが発端からとうかがえるのである。

「しれえね」についての知識は、宇野の回想集『文学の三十年』とか小説のかたちにした『青春期』において、はじめて私は身につけた。『文学の三十年』には、

井汲(清治)を知つた年の翌年の春、私と斎藤(寛)と三上(白夜、のち於菟吉)が合議して「シレエネ」といふ小雑誌を出した。シレエネといふのは、英語のSirenで、ギリシヤ神話のシレン(岩の多い島に住み船員たちをその音楽に依つて誘惑したと云ひ伝へられる女または半女半鳥の妖魔)である。(中略)(たしか)これは三上が云つたので、この題も三上が附けたやうに思ふ。さうしてこれは、いかにも三上好みの題であるから、間違ひではないと思ふ。

とあった。長谷川時雨との関係や「女人芸術」への資金提供、「雪之丞変化」その他の大衆小説家としての三上於菟吉の名は響きわたっているが、宇野浩二の最初期の同人雑誌の重要メンバーだったとは・・・・・。まことに驚きであった。

文芸の三十年 文芸の三十年
文学の三十年

  ここから私の実物「しれえね」探索、「しれえね」より少しおくれて刊行された宇野浩二の最初の小品文集『清二郎 夢見る子』の探索、さらに三上於菟吉の第一創作集『春光の下に』の探索などが、同時にスタートした。1955年(昭和30)前後だったか。これらを入手するのに十数年の歳月がかかったが、それらは大正文学研究の基礎的グランド整備にいかに役に立ったことか。

  「しれえね」の実物を手にし、私はあらためて驚いた。なんとその表紙の画は、宇野浩二自身が描いていたのだ。その構図は古代の奇妙な形をした舟と6人の櫓をこぐ人たち、中央に帆は高々とあがってはいないが、太い帆柱があり、全体が大きな甕のなかにおさまっている。甕の外に羽根をひろげ、半ば人のようにも見える鳥が2羽。これが「半女半鳥の妖魔」なのである。その下に「志れえね」と変体仮名を交えて朱。たぶん宇野浩二は、現実ならぬ夢幻のなかで、夢見心地の気分で、この表紙の画を描いたに違いない。さらに裏表紙は、宇野の大阪時代からの友人青木精一郎(のちの画家青木大乗)が、波うつ長髪の宇野浩二の横顔を、濃い鉛筆でみずみずしく描いていたのだ。青春につきものの憂愁の匂いの漂ったものであった。これが実物より発する迫力、文学史の現場なのである。

裏表紙 こま絵
裏表紙
挿入されている絵

  私が「しれえね」についてしたためた一文は、1992年(平成4)7月の「国文学」連載「逍遥・文学誌」(13)が最初。そのときこの表紙と裏表紙の写真も掲げておいた。しかし8年後、『文芸誌譚』と題した単行本に収録するとき、この「しれえね」が、どうしたことか家の中で見つからず、やむを得ず、日本近代文学館所蔵の、表紙と裏表紙のない「しれえね」のなかに挿入されている女優渡瀬淳子(宇野らの早稲田の同期の沢田正二郎と結婚する)の、自堕落の要素の加わっている、コマ絵風のものを用いた。入手するまでの時間の長さに比べると、なんとあっけなくまぎれ込んでしまったことか。中身のみならば、日本近代文学館所蔵で確かめられるが、それは「善本」とはいえないのだ。この痛恨の思いは、実は今日までつづいているのだ。

文芸誌譚
文芸誌譚

  この「しれえね」や「奇蹟」と踵を接して早稲田畑から出ていた「美の廃墟」(立石美和・細田源吉らや岸田劉生・津田青楓らと高村光太郎がかかわる)は、まぎれることなくさっと出てきたのに・・・・・。あまり大切にしすぎて、ということなのか、雑誌の山に入り込んでしまったのか、まったく思い出せない。編集者より返却されて来なかったのか・・・・・。記憶のあてにならぬことを悔やみつつ、妄想さまざま。未練がましくなる。

  「しれえね」の表記も、表記は「志れえね」、扉は「シレエネ」、裏表紙左隅、奥付も「シレエネ」。宇野の回想は、平仮名と片仮名が混在しているのだが、宇野浩二を徳として師事した生前の渋川驍と語りあったとき、「しれえね」で統一するのが可、ということになった。

「しれえね」1922年3月15日創刊 目次
悲しき日のために(詩)    斎藤青羽
苦悶と自嘲  堀江朔
薤露歌−逝ける幻想の子のために(小説) 三上白夜
ペレアスとメリサンド(戯曲)   モリス、メタアリンク 出隆訳
暁の歌(戯曲) 宇野浩二
LAMPの蔭より  今井白楊
愛の言葉 モーパッサン 春日野篤訳
IPSE DIXIT 白夜子
「ゼ、ルネツザンス」の序 ウオルター、ペエタア NH生
宗右衛門町の小品−小さい清次郎の記憶− (宇野)浩二
シモンズの詩(4編) アーサー・シモンズ (斎藤)青羽生訳
雨の夜の一時間(小説) 田村華陽
二月の小説批評 堀江朔
雨の夜 同人
大阪にて 同人
(全150ページ、定価25銭)

  「しれえね」が1冊で終わったのは、三上白夜の小説「(かい)露歌(ろか)」によってである。湯の町で出逢った年上の魅力的な石女の呪われた女とのゆきかいを描いた作品だが、頽廃的ということで発禁となった。「しれえね」の発行は、大阪で米穀商を営んでいた青木の父の出資による。彼らは第2号をも実はもくろんでいたのだが、いとも安直に発禁になったため、父よりの援助が絶たれ、ご破算になってしまった。

  「しれえね」の表紙は宇野が描いたのだが、編集も宇野が斎藤とともにすべて行っていた。編集所は宇野の住所。このような才覚も宇野は身につけていたのである。宇野の発表した作品「宗右衛門町の小品」は、彼の一連の清二郎もので、大阪のなまめかしい宗右衛門町界隈に漂っている情調と憧憬と感傷が織りなされていて、現実の苦の世界を夢の世界に導く効果が発揮されていた。それは「奇蹟」の仲間のニヒリズム、苛烈な道場主義とは一線を画していた。また戯曲「暁の歌」も発表。宇野の多くの創作のなかで、ただ1編の戯曲なので、これも珍しい。

アーサー・シモンズの詩の翻訳なども行っていた、詩人斎藤青羽(寛)は、岡山県津山地方の出身で、この時期には「白樺」に強く魅力を感じていた。斎藤の文によれば、同人たちの多くは「白樺」を好んでいる、とも記されていた。その斎藤の中学時代の友人が、のち哲学者として著名となる出隆である。出隆は、冥想と象徴の要素の色濃いメーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」を翻訳していた。こういう同人雑誌に、突然異色の人物が加わってくるのも、また驚きのひとつである。メーテルリンクは、明治末から大正期にかけて大いに翻訳され、影響を受けた文学者も多かった。「しれえね」は出隆の出発期の実体究明に、重要な雑誌ということになる。

詩人の今井白楊がこの「しれえね」に参加していたことも驚きであった。さらに強い驚きは、プロレタリア文学運動に加わっていった堀江朔が、評論活動をここで展開している事実である。堀江は北原白秋の「朱欒」に掲げられた志賀直哉の「母の死と新しい母」をとりあげ、作品の基底に存する良質な単純さ、素直さを評価する。宇野浩二も、新しい母を迎えたときの少年の、弾むようなういういしい挙動の描写をのちに感服していた。「しれえね」と「白樺」との微妙な連動がこのようにつながっていく。明治の最終段階での文学青年の「白樺」とのかかわりがなんと鮮烈に浮びあがってくることか。

白樺
白樺

「白樺」から勉強をはじめた私だが、「白樺」亜流、「白樺」衛星誌ではない同人雑誌が、「白樺」のかたわらで発行されていたという事実がなによりもうれしかった。「半女半鳥の妖魔」を示す「しれえね」は、誘い込まれる広場であったのだ。十人十色の個性的なメンバーがここで落ちあい、結集している。時代の窓を爽やかに開け放つ名作、佳作の類は生れてこなかったが、集まった人びとの次への踏み台はここで準備されたといってよかろう。

まぎれ込んでしまった「しれえね」は、その後もあれこれ探してはみたが、いまだに出てこない。このマイクロフィッシュ版の仕事のときも、手を尽くしてみたが、行方が依然としてわからない。香川大学に所蔵されていると聞き、お願いして、表紙、裏表紙の写真のみを送っていただいた。それ以外に善本の所蔵先はどうしても見あたらない。腹ただしいほどの悔いが、かさなってくるが、いかんともしがたい。根気もなくなってくる。入手の情熱に比べると、いまは「あきらめ」に近いのだが・・・・・。送られてくる古書目録その他にも目を通してはいるが、「しれえね」の姿は、どこにも現れない。

2009年1月には、数え歳でいえば私は88歳になる。このままでは死んでも死にきれない。最後のふんばりと思って自らを叱咤しているのだが・・・・・。《出てきなさい しれえね》

*「しれえね」の画像は香川大学図書館神原文庫よりお借りしました。
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雑誌「しれえね」の詳細カタログはこちら[WORD: 343k]から
73号 2008/12/26
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