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雄松堂Net Pinus 74>第10回 図書館総合展 公開セミナーのご報告

Net Pinus 74号

シンポジウムのご報告

2009/3/30
日中関係史研究に新視角をもたらす張学良文書

このたびコロンビア大学所蔵の張学良関係文書が日本でも一般公開され、また張学良インタビュー記録の出版も企画されつつあります。人間張学良の実像、張学良と国民政府・共産党・日本との関係について等、より緻密な研究が可能となりました。2008年11月に開かれた図書館総合展のシンポジウムにて本資料の公開が、日中関係史研究にどのような新視角をもたらすのか、講演者の方々にお話をしていただきました。また来日していた中国社会科学院研究生院教授 楊天石氏に張学良とその周辺の研究の実情をお話しいただきました。

日中関係史研究に新視角をもたらす張学良文書 日中関係史研究に新視角をもたらす張学良文書

松岡資明氏
(コーディネーター)日本経済新聞社 文化部編集委員
1973年北海道大学卒業。同年日本経済新聞社入社、産業部、千葉支局、日経BP社出向などを経て1990年文化部次長、1997年大阪本社文化担当部長、1999年より現職。
専門は文化財、アーカイブズなど。
劉傑氏
早稲田大学社会科学部教授
北京生まれ。1982年来日。1993年東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了、博士(文学)。1993年日本学術振興会特別研究員。1996年早稲田大学社会科学部専任講師、1998年同助教授、2003年より現職。
専門は近代日本政治外交史、日中関係史
〔主要著作〕
『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)
『中国人の歴史観』(文春新書、1999年)
『漢奸裁判』(中公新書2000年)
『国境を越える歴史認識』(共編東京大学出版会、2006年)
『第百一師団長日誌』(共編、中央公論新社、2007年)ほか。
川島 真氏
東京大学大学院総合文化研究科准教授
横浜生まれ。東京大学大学院博士課程(東洋史)単位取得退学、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員を経て、1998年北海道大学法学部助教授。2006年より現職。
2004年サントリー学芸賞(政治経済部門)受賞(『中国近代外交の形成』 名古屋大学出版会)
〔主要著作〕
『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004年)
『東アジア国際政治史』(服部龍二と共編著、名古屋大学出版会、2007年)
『中国の外交』(編著、山川出版社、2007年)
『資料で読む世界の8月15日』(貴志俊彦と共編著、山川出版社、2008年)

本文中の画像をクリックすると大きな画像がご覧になれます。(敬称略)

松 岡

コロンビア大学の所蔵する張学良文書とはどのような資料なのでしょうか

松岡氏

松岡資明氏

コロンビア大学の所蔵する張学良の資料は大きく分けると
(1)日記・手紙・手記・勉強ノート類の記録
(2)コロンビア大学が彼に対して行ったインタビューの録音テープ
から構成されています。
(1)は手書きで書かれたものがかなり含まれますが、そのほとんどは、1937年1月からの記録です。また膨大な写真資料も残されています。一番関心が集中する西安事件についての記録ですが、事件直後やその後の動きを示す記録はありますが、西安事件そのものの記録はほとんどありません。また、(2)のコロンビア大学が行ったインタビューですが、コロンビア大学の所蔵する膨大な音声を正しく起こし、中国語、英語、日本語で出版する計画がすすんでいます。
川島先生、アジアの歴史の中で西安事件の位置づけはどのようなものでしょうか。

川 島

1936年の西安事件は、中国共産党と張学良が抗日を呼びかけ、共産党掃討を進める蒋介石を逮捕・監禁した事件です。事件は戦争を導くことなく平和的に解決しますが、蒋介石の意に反した行動を起こしたことで、その後張学良は長い軟禁生活を強いられます。現在、台湾・中国の共同研究で、抗日抗争史を共に編んでいこうとする時、西安事件が国共合作の原点として象徴的に取り上げられています。そうした意味で、張学良の資料は東アジア史全体を語る場を提供する資料と言えると思います。

松 岡

こうした中この資料をどう見れば良いと思いますか。

西安事件は色々な角度から取り上げられています。現在研究に使われている史料は関係者の回想録が大半です。最近、蒋介石の日記が公開されたことで、蒋介石が見た西安事件をよりリアルに確認することができます。しかし、張学良自身の当時の記録は見つかっていません。コロンビア大学が持っている張学良資料は西安事件の直後からの記録ですが、事件後の行動や手紙のやりとりなどを通し、西安事件のプロセスや張学良の考え方、蒋介石とその関係を推測することができます。1937年以前の記録も存在するという噂があります。これはアメリカのどこかに存在していると思われますが、これがいずれ公開されれば、当時の様子がさらに分かってくるでしょう。孔祥煕など、蒋介石の周りの人物の史料も一部未公開です。そういうものが公開されることで、こうした関係者の記録と併せ、研究が深められることが期待されます。

松 岡

具体的にいくつかの資料を紹介しながらお話を伺いたいと思います。

1937年1月、西安事件の直後、張学良は蒋介石とともに南京に戻り、その後軟禁され、90歳くらいまで自由がありませんでした。それにも拘わらず、この蒋介石の手紙は張学良に頼みごとをしている。それはつまり、東北軍に軍令に従うように命令させていることです。つまり軟禁状態にも拘わらず、当時蒋介石は東北軍を動かすのは張学良だ、と考えていました。また手紙の行間から、西安事件後の蒋介石と張学良の関係を確認できます。川島先生は、西安事件後の張学良と蒋介石の関係や張学良の生涯をどう思われますか?

蒋介石からの手紙1
蒋介石からの手紙2

書翰封筒

1頁

蒋介石からの手紙3 蒋介石からの手紙4 蒋介石からの手紙5

2頁

3頁

4頁

(1)1937年1月7日付 蒋介石より張学良宛
張学良に対し、蒋介石は東北軍および西北軍への統率協力を求めるとともに、協力要請に応じられなかった場合、張らが命令に抵抗すると見なされると強く牽制している。

川 島

川島真氏

川島真氏

戦争が終わる前後、満州国の下にいる幹部たちで、かつて張学良と関係の深かった人物を寝返らせて欲しいと、国民政府が張に依頼したりするところをみると、ある程度の政治的な力を持ち続けていたことが分かります。中国共産党との争いに敗れた国民政府とともに張学良も台湾に移されますが、このような、ある程度の政治力を有した状態がおそらく戦後も続いていたのではないでしょうか。西安事件後、暫く途絶えていましたが、日中戦争が始まると蒋介石と張学良の間にやりとりが生じてきました。共産党の様子を蒋介石が手紙で尋ねる、またある時は訪問する。軟禁下でも影響力があったのでしょう。
西安事件を張学良、蒋介石、蒋経国の3人で回顧、懺悔する記録の作成も協同で行っています。張学良の書いたものを蒋経国が直し、蒋介石に見せる。蒋家の2人と西安事件を振り返ったのです。この時、蒋介石は西安事件の頃の日記を張学良に見せています。大陸時代を共に振り返ることができたのは、蒋介石にとって張学良くらいしかいなかった、張学良は蒋介石にとっても重要な人物だったのではないでしょうか。

西安事件がどのように歴史的に伝えられてきたのか、ということになりますと、今の川島先生の話のように蒋介石・蒋経国の意向ですすめられてきた側面があります。1960年代のことですが、ある日突然台湾のある雑誌が張学良の懺悔録を無断で掲載します(2)(実際にこれが書かれたのは50年代)。それは蒋経国を通して蒋介石に読んでもらうために書かれたはずなのに、なぜか雑誌に掲載されてしまった。張学良は話が違うと厳しく抗議し、雑誌は回収となりました。ところがその後、香港で同じ懺悔録が注釈付きで公表されます。コロンビア大学所蔵の史料にその原稿がありますが、香港で公表されたのはその全部ではありません。(3)は香港で出された雑誌の記事です。

台湾の雑誌
香港の雑誌の記事

(2)台湾の雑誌

(3)香港の雑誌の記事

懺悔録はまとまった形で見られる、西安事件への張学良の考え方の記録です。(4)は張学良の懺悔録の一部。かなりの部分は蒋介石に言及した部分です。その中で、なぜ西安事件を起こしたのかなど、自分の主張を説明しています。また自分の意見が蒋介石に無視されたことへの不満も書いています。こうしたものは雑誌では掲載されませんでした。

懺悔録1
懺悔録2

(4)懺悔録

9月18日の張学良の日記(5)。日記帳は1月1日ではじまるものですが、張学良のほとんどの日記は満州事変のあった日、9月18日からはじまります。こうした記録の残し方は蒋介石の日記と似ている部分があります。人生の中で最重要なことは何だったのかなど、蒋介石と張学良の歴史の残し方・日記の付け方を川島先生はどうお考えですか。

川 島

蒋介石の日記もやはり年度ごとに区切られます。済南事件以降、恥を雪ぐという言葉が冒頭に付けられています。蒋介石の場合、1日1ページと決め、やるべきこと、今日したこと、読んだ本、反省など、びっちり書いていますが、張学良の日記は書かないときは何も書かず、日付と天気だけの日もあります。出来事があれば書くという出来事型の日記です。

9月18日の日記
2月6日の日記
11月23日の日記

(5)9月18日の日記

(6)2月6日の日記

(7)11月23日の日記

日記を少し見てみましょう
1945年2月6日の張学良の日記(6)。蒋介石から張学良に、張学良との関係の深かった人達に対し国民政府軍に従うように命令の手紙を出せ、という手紙が来たことが書いてあります。西安事件以降政治の表舞台から張学良は消えましたが、色々な場面で政治的に影響力を持っていたことがうかがえます。次の1958年11月23日の張学良の日記(7)では蒋介石が訪ねてきて、2人は奇妙な挨拶を交わします。張学良は蒋介石に対し「貴方は年を取ったね」といい、蒋介石は「貴方も髪がなくなったね」と返しています。このように細かな事を色々と残している日記なのですが、2人の関係をどう読めばいいのか参考になるでしょうか。(川島氏に向けて質問)

川 島

挨拶が交わされた箇所はとてもおもしろいのですが、非常に例外的ではあります。丁度国民共産党と国民党が強く対立している時で、共産党との関係に蒋介石が悩んでいた時期です。蒋介石と張学良の関係は、多くの場合、直接関係せず、蒋介石との関係はほとんど蒋経国と宋美齢を介して行われます。だからこそ、これが例外的なのです。多分このとき蒋介石は居ても立ってもいられず、思わず張学良を訪ねてしまったのでしょう。特徴的でおもしろいが全体的に見ると非常に特殊な資料です。

手紙宋美齢→張学良
手紙宋美齢→張学良2
手紙張学良→宋美齢

(8)書翰 宋美齢→張学良

(9)書翰 張学良→宋美齢

蒋介石と張学良の直接のやりとりは戦後も少なく、窓口は蒋介石の妻、宋美齢で、彼女との間で多くの手紙のやりとりをしていました。このアーカイブズの中にも宋美齢の手紙がかなりあります。ですから宋美齢と張学良の間にはある種の信頼関係があり、蒋介石との関係とは違ったものであったことが分かります。(8)は宋美齢からの手紙ですが、宋美齢は中国語よりも英語の方が達者でしたので、手紙はいつも英語でした。ある日突然張学良が宋美齢に英語で手紙を書き始めます(9)。多分英語で手紙を書く宋美齢に対し、中国語の手紙は失礼だと思ったのでしょう。これから英語を勉強したいといった内容の手紙を英文で書きます。これを受け取った宋美齢は大変喜び、沢山の英語の勉強の本を送る・・・多くの手紙は贈り物に対するお礼のやりとりですが、張学良は宋美齢を通して蒋介石との関係を保っていたという意味合いは重いものがあるでしょう。

劉傑氏

劉傑氏

張学良の蒋介石に対する認識はおもしろいものがあります。彼は日記の中で蒋介石の文字が出ると一字あげて尊敬の念を込めます。検閲の可能性があり、そういう書き方で忠誠を示すと言うこともあったでしょうが、個人的な日記であるということを考えると、張学良はある種の畏敬の念は持っていたのでしょう。しかし回想録、口述録を見ると、尊敬しながらも不満もある、複雑な感情があったことが見えてきます。晩年のインタビューで西安事件のことを聞かれたとき、「私がものを言うと傷つく人がいるので言うことはできない。」と言っています。私はこの人とは蒋介石ではないかと思います。蒋介石のイメージを自分の口からこわしたくなかったのでしょう。つまり張学良はある部分では蒋介石を評価していない、しかし畏敬の念は持っていたと考えられます。

川 島

確たる事は言えませんが、懺悔録をはじめ、資料を見ると西安事件に対して自分は純潔であったという言葉を使い反省しています。蒋介石日記を見て蒋介石が抗日に対し、これほど強い意志を持っていた事に感動したとも書いています。しかし同時に国民には分かりにくいところがあったとひとこと言っています。蒋介石の正当性は認めつつも、彼の本当に言いたかった言葉が懺悔録の端々に出てきます。しかし蒋家にとって、そうした張学良が必要であったのではないでしょうか。結果論ですが蒋介石、蒋経国が亡くなって、宋美齢がアメリカに移ると張学良も台湾から離れるのです。この資料も台湾から離れる蒋家と一緒にアメリカに移ります。尊敬とある種のやるせない気持をもった張学良は蒋家にとっても必要な人物だったのではないでしょうか。

祝電の草稿
自伝

(10)祝電の草稿

(11)自伝

英単語帳

(12)英単語帳

蒋介石との関係にもどりますが、蒋介石の誕生日に張学良は必ず祝電を打っていました(10)。毎回、草稿を作っており、それが沢山残っています。蒋介石との関係を考える上で面白い資料ではないでしょうか。

張学良はまた、自伝も執筆しています(11)。西安事件前の記録はまだ発見されていませんが、後に回想して書かれたものはそれなりに張学良の人間像やものの見方を確認する上で重要だと思います。
(12)は英単語帳です。張学良の学習ノートは英語に限らず、本の感想文、キリスト教への理解など膨大です。そうした資料も張学良の人生を理解する上で面白い題材が含まれています。

1936年に起こった西安事件についての評価は、まさに今日ある中国と台湾との関係が映し出されています。また大陸と台湾の両岸関係を解決するための糸口として双方が事件を利用する側面も持っています。中国が台湾との関係をどう解決するのかということは、すなわち国民党との関係をどう構築していくのかということであります。共産党側では、一致抗日という考えに転換した張学良への評価が高い。一方、台湾では必ずしも高くありませんが、最近次第に張学良に対する考え方が変わってきているようです。川島先生、そのあたりはいかがでしょうか。

川 島

2007年、抗日戦争70周年ということで中国でも日本との戦争を描くTVや映画が放映され、色々な式典が開かれました。そこで強調されたのが国共合作、中国と台湾が共に日本と戦ったというストーリーです。多くのシンポジウムに参加しましても、中国と台湾の学者で意見の一致をみたり、議論がかみ合って大いに盛り上がるというような場面がありました。共に抗日戦争を戦った台湾の軍人を中国に招待するというようなこともあり、ある種の盛り上がりがあったのです。ここで大きなポイントは西安事件です。これを契機として国共合作し、共に戦争を行ったと、1936年以降の国民党を評価しつつある傾向にあります。満州事変の後、まず内側の憂いを取り除き外と戦うといった蒋介石の方針は評価されていませんが、1936年以降は評価に価するという意見が出ています。記念の2007年の時、中国、台湾の学者やかつての軍人が集まり、またメディアイベントによって、また西安事件がクローズアップされる現象が見られました。

張学良が保存した手紙は70年代、特に80年代以降になって中国大陸からのものが増えました。個人的に送られたものもあれば、学校名義、研究組織、学会組織から送られてきたものもあります。(13)は北京第二十一中学校の校長からの手紙で「副司令」という呼称を使って張学良を呼び、学校の名誉顧問に就任してもらい校名を「張学良中学」としてもいいかというお願いをしています。張学良はこうした手紙も大事に保存して、返事もしています。

北京第21中学校からの手紙
北京第21中学校からの手紙2

(13)北京第二十一中学校からの手紙


遼寧省の校園文学学会からの手紙です(14)。この学会の顧問になり、できれば「書」を書いて送って欲しいという依頼が書かれています。これらの中国大陸とのつながりは、西安事件の持っている現実的な意義を考える時、面白い資料です。以上のようにこれらの資料は、西安事件だけでなく、中国近現代史の様々な側面を再確認することにも役立ちます。中国の蒋介石日記をはじめ、孔祥煕、宋子文などの資料が大量にアメリカに流れています。これらの資料がどの国に保存されているのかということは現代において大した問題ではないのですが、中国やアジア研究者が、こうした資料の流れをこれからどう考えればいいのか、これらの資料とどう付き合っていくのかということを含め、川島さん一言お願いします。

校園文学学会からの手紙1
校園文学学会からの手紙2

(14)遼寧省の校園文学学会からの手紙

川 島

講演の様子1
少し戻りますが、中国の個人や学校からの張への手紙は、両岸の関係が良くなる、良くしようと中国側が判断すると増えています。ですので、ある面では政治化されたものであると考えます。しかし海外とのやりとりの中にはNHKの手紙や西村成雄先生の手紙などが含まれていて興味深いと思います。中国や台湾に日記類をおいておきますと、いつ没収されるか分からないので、そういう危険を避けるために、そうした力が及ばない海外へとうつされます。蒋介石日記は蒋経国が亡くなった時、蒋家の人々がアメリカに運び出しました。そうしてアメリカに持ち込まれた資料をスタンフォード大学が引き受け、整理・保存し、マイクロ化し、公開するところまで持っていきました。これだけのことをアメリカの大学はします。日本の大学がここまでできるのかということを考えたとき、そうした発想・設備・人材・予算を含め難しいと思います。私は数年前、中国のある外交官の日記を託されたのですが、幸いそれは東洋文庫において「史料」とすることができました。巷にある家にしまわれていた日記を、その家の人が見るだけではなく、史料として公開しないとなくなってしまうか、骨董品になってどこに行ったか判らなくなってしまいます。そうしたものを日本でどうするのか。日本に流れた中国やアジアの史料が少なからずあるように思いますが、それをどう受け止め、史料として公開するところまで持っていくかというのはアメリカに学ぶところが大きいという印象を持ちます。

張学良の資料の公開により、中国近現代史、日中関係史、それだけではなく、歴史資料の利用・保存の仕方、様々な問題を検証していくひとつのきっかけとなる印象を受けました。


中国社会科学院研究生院教授 楊天石氏 特別スピーチ

今日このような場所でお話できることをうれしく思います。張学良自身の資料をコロンビア大学が公開することにより、研究者関係者が1日も早く利用できることを望んでいます。今日、中国、台湾の関係が良くなり、張学良研究も発展しています。日本でも公開されたことにより、こうした研究に研究者の方々が貢献してくれることと思います。

楊天石氏

楊天石氏

今日私は3つのテーマについてお話しようと思います。
まず、近現代史における張学良の歴史的位置付け、影響についてです。
東北軍は元々、奉天軍閥の地盤でしたが、長い間日本側は東北部を自分らの勢力範囲にしようと企んでおり、張学良の父である張作霖は、日本と複雑な関係にありました。張作霖は日本を頼りにしている反面、反抗的な一面も持っていたのです。当時東北部は反独立的性格を持つ地域でしたが、1928年、張作霖が関東軍に暗殺されると張学良が日本から独立し、国民政府に合流しようと決断します。易幟、つまり使っていた五色旗から青天白日旗に旗変えをしたのです。袁世凱の死去後、この地域は軍閥乱戦の状況が16年間続いていました。それが東北軍によって終息すると、中国は統一されていく局面を迎えます。中国統一への貢献、これは張学良が中国近現代史で行った一番大切な事だと思います。
張学良が歴史的影響を与えた2番目の事件はまた中東鉄路事件です。中東鉄路はロシア人によって建造された中国東北部を横断する鉄道で、この鉄道および周辺はすべてロシア人が主権を持っていました。ソ連は一時、旧ロシアの利権を中国に返すことを示唆しましたが、この約束は守られませんでした。張学良はこの利権を回収しようと努力し、彼の率いる東北軍がソ連の赤軍と戦いましたが、負けてしまいます。これにより中東鉄路とその周辺の利権だけではなく、さらにもう一つの島(2008年になってこの島の半分が中国に戻りました)もソ連の支配下に入ってしまいました。しかし、中東鉄路事件は張学良が中国側の利権を回収しようとしたひとつの試みで、帝国主義への反抗とも考えられます。
1927年蒋介石が国民政府を成立しますが、まだ中国各地で国民政府に反抗する軍閥が散立していました。特にもと政府の官僚であった汪兆銘らは反蒋派におされ、北京で1930年に組織をつくり、これにより、国内に2つの国民党、2つの政府が立ってしまうことになります。張学良は国が分立した状態を避けるため、東北から軍を率いて3回にわたり中国華北部へ入ります。張学良の東北軍は実力を持つ軍隊であったため、北京の国民党は山西省に逃げ込み終焉をむかえます。これが3番目の張学良の歴史的意義を持つ行動です。張学良が蒋介石のバックアップを行ったことにより、蒋介石は張学良を信頼し、張学良のおかげで危険な局面を避けられたと認めています。この1930年のあたりが蒋介石と張学良が個人的に一番仲の良かった時期で、蒋介石は張学良を後任者に据えることまで考えていたようです。張学良に蒋介石が「自分が死んだらどうするか」と質問をしたということがありました。また張学良に対し中国各地区のリーダーについての情報を提供し、彼らをいかにコントロールするか心得を伝授したということを、蒋介石は日記の中で残しています。このことから彼は本心から張学良を後任にしようという気持があったのではないでしょうか。
4番目の歴史的意義は満州事変の時の張学良の行動です。1937年、日本は東北軍の駐屯地に攻撃を仕掛けますが、張学良が東北軍に不抵抗の命令を出したため、東北周辺は陥落、これにより張学良は「不抵抗将軍」と呼ばれ、全国から猛烈な非難を受けます。長い間この張学良の不抵抗は蒋介石の命令だと考えられていましたが、張学良が晩年の口述録を行う際、不抵抗の命令を出したのは自分であって蒋介石ではないと言い切っていますし、私自身の研究でも張学良の不抵抗は彼自身のものであると考えています。
5番目における中国史への影響は西安事件です。西安事件の前夜、中国共産党は混乱状態にあり、蒋介石はこれをすぐにも粛正することができると考えていました。しかし張学良は西安事件を起こし、これをきっかけに中国国内に、国共一致して抗日するという気運が高まります。
以上これらが張学良の行動が近現代史にあたえた5つの事件と考えています。

講演の様子2
講演の様子3
次のテーマは中国・台湾、両岸で分かれている張学良の歴史的評価についてです。
まずは西安事件ですが、大陸からすれば西安事件をきっかけに中国共産党は救われたという考えもありますし、実際、毛沢東も西安事件は中国共産党を牢屋から救い出したという言葉を残したこともあります。中国においては民族的英雄という評価が張学良に対して下した代表的な評価といえるのではないでしょうか。しかし台湾からすれば民族的英雄どころか罪人であるという考え方が主流です。西安事件において蒋介石を拘束した結果、中国共産党が台頭し、中国の赤化が全土に蔓延したきっかけを作ったと考えられているためです。今日までこうした評価は存在します。また1929年の中東鉄路事件においてもまた評価が分かれるところです。中国共産党からすれば張学良が発動した中東鉄路事件はあくまでも帝国主義諸国の工作によるものという考えが根強く、彼の行ったことは帝国主義的であると考えています。逆に台湾からすれば、中東鉄路事件の行動は国家の主権を回収するためのひとつの試みと考えられ、これは両岸で意見が分かれています。また満州事変についても意見の相違があります。このポイントは、果たして日本軍への不抵抗の命令を蒋介石が出したのかという一点につきると思います。
3つ目のテーマはコロンビア大学の所有する張学良関係文書の資料的価値とその利用です。資料的価値については今日、詳しい説明がされました。これから張学良関係文書を総合的に利用できれば、歴史的な張学良の人物研究、中国近現代史研究が進むと信じます。例えば1956年の懺悔録、その内容は本当に張学良の本心なのか・・・などです。しかし日記、懺悔録、口述をあわせ、吟味していけばかならず見えてくるものがあるでしょう。
雄松堂の努力によってこの文書の公開が実現し、張学良の人物、中国近現代史研究が進むことを願うとともに、私達も研究をさらに頑張りたいと思います。このコロンビア大学の資料は1937年1月以前のものがありません。ロサンジェルスに住むあるパイロットが所有し、スタンフォード大学に寄託するのではないかという話も聞きます。また張学良関係の資料は中国の公式文書館が保有し、公開していないものもありますし、台湾でもかなり多くの資料が保管されており、張学良関係資料はまだまだ発掘できるものが多いと思います。こうした資料をあわせ、近年、研究者を中心として第3次西安事件研究会も発足しましたし、これからのさらなる研究の促進を期待しています。

※楊天石氏のスピーチは、当初予定されていなかったもので、教授の意図が少々伝わりにくい部分もありました。氏がスピーチの中で語った台湾と中国で分かれている近現代史的評価は現在ではかなり緩和されている部分があるというコメントを川島氏よりいただきました。なお、楊天石氏のスピーチは同時通訳によりおこなわれました。

74号 2009/3/30
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