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Net Pinus 74号
新古書への扉
2009/3/31

ロアン公の時祷書にみる時祷書の歴史

本文は小社が販売代理店となっているNational Library Czech Republic によって提供された情報を翻訳し、編集したものです。
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●時祷書とは

ベリー公の美わしき時祷書
ベリー公の美わしき時祷書
(ファクシミリ版)
時祷書(Horae:ラテン語)という言葉はキリスト教にあまり関わりのない人にとって、耳慣れぬ書物ではないでしょうか。保存されている原書や、それを複製

したものにより、現在でも目にすることはできますが、実用的な側面を考えますと、過去の遺物といえるかもしれません。時祷書とは中世のキリスト教徒が一日、および一年の間に正確にお祈りをするための「マニュアル」として利用されていました。

十字軍の年代記でも、神秘的な錬金術でも、魔法の指導書でもない、ましてや偉大な騎士による英雄的な活躍場面もない面白みのない書物かと思われるかもしれません。しかし、見方を変えますと中世の時祷書はそれらの騎士たちの活躍や、錬金術や魔法の神秘にも劣らない魅力的な要素を含んでいるのです。宗教的要素が強いことや、中世の人々の習慣が現代人に理解の難しいことが、こうした書物を身近に感じられない要因なのかもしれません。

しかしベリー公の美わしき時祷書や エスコラピオスの時祷書などの歴史上に名を残す時祷書を目にすると、その書物に含まれている装飾や挿画の量や質は、宗教に興味がない人の目を十分惹きつけ、興味の対象となることがおわかりいただけることでしょう。なぜ時祷書がこのような豪華な書物が必要であったのでしょうか?

中世の書物はその豪華さにおいて、歴史上群を抜いているものがありますが、時祷書はその書物が繁栄した時代において、最も身近な書物であり、15世紀の上流社会の人々にとっては必需品でした。王や貴族たち等、中世の上流階級の人々が少なくともひとつは所持すべきものでした。

彼らはより見事に装飾され、製作された時祷書を競うように所持しました。次第にアクセサリーとしての価値を持つようになり、装丁は貴金属や宝石類で豪華に装飾され、人々はそれを財布や手提げ鞄のように腰帯に下げて持ち歩きました。最終的にはそれらの書物を所持することは、信心深さの表れという本来の目的を失い、富の誇示のようになっていきます。

ベリー公の美わしき時祷書 13葉 ベリー公の美わしき時祷書 52葉
ベリー公の美わしき時祷書 13葉
(ファクシミリ版)
ベリー公の美わしき時祷書 52葉
(ファクシミリ版)

現代人が富の象徴として高価な車や豪華なヨットを持つような理由で、中世の人々は「書物」を所持していました。最も安価な手書きの書物が数頭の家畜と同様な価値を持っていた時代、豪華に装飾された時祷書は、数十の村、数百人の人々を持つ荘園を所持するに等しい場合もあったのです。また外交の席や王家間婚姻のような場で、時祷書が最も切望される贈答品とされていました。時に時祷書は何世代にわたって受け継がれ、一族の栄光の象徴ですらあったと言っても過言ではないでしょう。

そうした時祷書が今日の中世美術の専門家や収集家にとって、どれほど多大なる価値を有するかは、16世紀初頭に製作されたロスチャイルド祈祷書の事例を見れば分かります。ロスチャイルド祈祷書は、ナチスによるオーストリア併合後、1938年に略奪され、60年後に元の所有者に返還されましたが、後の1999年にクリスティーズのオークションにおいて、彩色写本としては史上最高価格858万英ポンドという驚くべき金額で落札されました。

 エスコラピオスの時祷書1  エスコラピオスの時祷書2
エスコラピオスの時祷書
(ファクシミリ版)

●時祷書・・・その成立の歴史的背景

さて、ここで時祷書の起源に触れてみましょう。西暦1000年を過ぎた頃、西ヨーロッパは経済的にも、文化的にもそれまでにない繁栄を迎え、人口も増加の一途をたどっていきました。ローマ帝国が滅びた後の混乱や、移民の流れも落ち着き、世界が終末を迎えると予言されていた西暦1000年は何事も無く過ぎました。キリスト教徒がヨーロッパ中に移動した結果、異教徒は消滅し、西ヨーロッパ世界の秩序は徐々に回復していきます。新たな教会が至る所に建造され、天に届かんとするかのように高く建てられたゴシック様式の大聖堂に象徴されるように、教会の力は次第に大きくなっていきました。このような時期に、個人的な敬虔さを表すものとして、最初の時祷書が世に登場しました。

しかし14世紀中旬、晴天の霹靂のごとく、黒死病という伝染病がヨーロッパ中を震撼させました。商船がアジアから持ち込んだこの疫病は、イタリアを始めとして、全ヨーロッパ大陸に蔓延しました。当時の衛生や医薬の状況では、感染を防ぐことは不可能であり、人々が都市から村落へと逃げたことが、さらにその疫病を広める結果をもたらしました。ヨーロッパ全土の人口は激減し、社会の秩序やモラルが崩壊していったのです。親は病気の子供を、子供も病気の親を看病することを避け、あるいは牧師は自らの感染を恐れて臨終の秘蹟を行うことを拒みました。通りには多くの死体が横たわり、ヨーロッパ世界は惨憺たる状況と言えるものとなりました。

中世の人々はこの悲劇の理由を「悪しき品行、堕落、そして不十分な信仰という罪に対する神の懲罰に違いない」と考えました。その疫病が発生したとき同様に突然、何十万もの死者を犠牲にした疫病が終息したという事実も、こうした風説を裏付ける結果となります。

この一大変事に動揺しきった生存者たちは新たな形で信心を持つことを模索しました。多くの人々は、自らの生き方があまりにも世俗的で罪深いものであったという事実を意識し、神を恐れ、死後を憂いました。そして中世では死後、エデンの園に入れてもらえるための、完全な魂を準備できる場所は修道院であると考えられていたのです。

「ラテン語時祷書」16世紀印刷の稀少書1 「ラテン語時祷書」16世紀印刷の稀少書2
「ラテン語時祷書」16世紀印刷の稀少書

初期の修道院はローマ帝国の滅亡以前に生まれ、地中海東岸地域において存続していました。俗世の欲深き世界から離れること、瞑想を重視すること、そして神に祈りを捧げることがその共同体の目的でした。そこでは聖書の詩篇119の164「あなたの義の裁きのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます」に従い、規定通り正確に1日に7回祈りが捧げられていました。西ヨーロッパにおける最初の修道院は聖ベネディクトによって、東方の修道院を改革した形で6世紀中葉にもたらされました。そこでは様々な戒律が設けられましたが、なかでも有名なのは1日に8回の祈祷が決められたことでした。

1.Matutinum(夜)
2.Laudes(日の出)
3.Prima(日の出より1時間後:夏季における午前6時)
4.Tercie(Primaより3時間後:夏季における午前9時)
5.Sexta(Primaより6時間後:夏季における正午)
6.Nona(Primaより9時間後:夏季における午後3時)
7.Vesperae(灯りが点される夕方)
8.Completorium(就寝前)

当然ながら、冬季においては日照時間が短いため個々人の祈祷の間隔も狭められます。なぜ日々の祈祷を8回にしたのかは、厳格な生活様式の戒律を決めたことで有名な聖ベネディクトが、修道士の習慣である仮眠をやめさせ、世俗的な休息よりもひとつ多くの祈祷を修道士たちに要求したからであるという説が有力です。

こうした聖ベネディクトの戒律は西ヨーロッパの修道士社会の起源となりました。フランシスコ会修道会やドミニコ会修道会、シトー修道会などその他諸々の会派の修道士たちも1日8回の祈祷や聖歌斉唱を行い、それは今日でも継続されています。修道院とは、祈祷の習慣と禁欲的生活によって、イエス・キリストに近づく準備をする、神の国への入り口として考えられていました。

さて、中世の歴史の話に戻りますが、黒死病の大惨事ののち、多くの人々は修道士の生活に目を向けました。しかしながら、誰もが家族関係、友人関係、財産などの現世的な事柄を捨て去り、自らが修道院に入会できたわけではありません。俗世に生きる人々は修道会士として生きることができないなら、せめてそのような暮らしを真似ようと、修道士生活の特性のひとつ、祈祷を実践しようと考えたのです。しかし、修道院にて行われる複雑な祈祷の仕方は、世俗的には簡略化される必要がありました。さらに季節によっても異なるため、簡略化された様式でさえも何らかの形で、マニュアル化される必要がありました。それが時祷書の起源です。

このようにして生まれた時祷書ですが、前述のように本来とは違う目的、所有者の財力や、権力を象徴するようになりました。上流社会の人々は所有する時祷書の品質を競い、社会的な地位の高さを表すために、時祷書はより豪華に装飾されていきます。

また、このような贅沢品は市場的価値も持っていました。本の書き写しや装飾は当初は専ら修道院の活動でしたが、いくつかのフランスやオランダの工房において15世紀にはそれらの複製を始めていました。しかし、より多くの複製は必然的にその書物としての価値を下げます。ですから1450年頃のグーテンベルクによる活版印刷術の発明は、書物の大量流通を可能にしましたが、時祷書をはじめとする写本に致命的打撃を与えることになりました。それまでの手書きの文字や装飾は印刷術に取って代わられ、中世の豪華装飾本の様式は、基本的に廃れる運命となっていったのです。(もちろん書物趣味としての豪華本は残りましたが。)また、時祷書に含まれる祈祷のシステム自体も、その複雑さから好まれなくなり、ロザリオに取って代わられていきました。

●時祷書をひもといてみましょう

今日でも数多くの歴史的な時祷書の原書が残っています。

「ラテン語時祷書」16世紀初頭、ヴェラム刷り
「ラテン語時祷書」16世紀初頭、ヴェラム刷り

それらの装飾や文字は、原稿の中身によって決定され、文字もすべて手書であるため、装丁や、図版、本文周囲のアカンサス葉飾りのモチーフ、文字の形も様々であり、本全体が製作者独自のスタイルにより個性化されています。

通常、時祷書の冒頭の部分は暦でした。中世の人々には、今日の人々が持っているような等間隔の時間の感覚を持ち合わせておらず、時間に関する知覚はある意味循環的に大雑把なものでした。季節のめぐりは春夏秋冬よりも毎年定期的に繰り返される教会の休日に重きをおかれていました。しかし復活祭や昇天日、聖霊降臨節などの休日は一定していることもあれば変動することもあったのです。そのために祈祷書の冒頭において、教会の休日を設定する必要があったのです。

暦の次は、キリストの誕生・磔刑・復活など、マタイ、マルコ、ルカおよびヨハネの福音書から抜粋され、さらに聖母マリアや聖十字架、精霊、そしてさまざまな聖人に対する祈祷や詩篇が加わるものもあります。また、時として近親者が亡くなったときに捧げられるような、死者への特別な祈祷が含まれていることもありました。ですから、内容は製作依頼者や製作者によって決定されたため、時祷書により異なります。

中世の信仰教義は大変複雑で、ある意味不統一であったので、何を対象に祈祷を捧げるかということにも一貫していませんでした。信仰対象にも階層があり、頂点には三位一体の神や聖母マリア、そこからピラミッド式に最下位の聖人に下っていきます。人々は困難に遭遇すると自身のお気に入りの聖人に救いを求め、その聖人は「最上の権威」を持つ上の階層の神に良き言葉を語ってくれるものと信じられていました。ゆえに、聖人たちの構成や聖人たちの選択は時祷書によって異なっていました。時祷書は祈祷によって神を自らの側に取り込むための「魔法の」手引き書の一種という考え方もできるかもしれません。

そうした内容を豪華な時祷書は図版や文字で美しく彩りました。時祷書の魅力の本領はその美しさにあります。また聖書からのイエス・キリストの生涯、聖人たち、その他の場面のさまざまな絵は中世のあらゆる情報源を提供してくれます。城、賑わう広場、平和な村などの風景や、当時の騎士の甲冑や人々のファッション、当時の生活様式などを図版にありありと見ることができます。ただ、中世の当時の装飾画家たちは、自分たちの生きている時代以前に関して深く考えることはなかったようです。ゴルゴタの丘の兵士たちを描くにも、中世当時の彼らの周囲にいる兵士たちのスタイルとなっているユニークな図版などがそれを象徴しています。

しかしこれらの挿画には現代人が一見しただけではわからない要素も秘められています。イタチや野ウサギ、蛇、鳥類、茨の冠のテーマ、キノコ模様の槍や盾、などは我々が解釈できないような特別な意味合いを持っていました。それらを読み解きながら、挿画全体の深い意味合いを探っていくのも面白いかも知れません。中世の大聖堂に多くの宗教的教義的暗号が秘められているのと同じように、ゆっくりと図版を見ていくと、はるかに多くのものが秘められていると気づくことでしょう。

●歴史的写本、ロアン公の時祷書とその魅力

ロアン公の時祷書
ロアン公の時祷書
(ファクシミリ版)
ロアン公の時祷書 書き込み
ロアン公の時祷書 冒頭の書き込み
(ファクシミリ版)
さてここで一つの時祷書をご紹介しましょう。
チェコ共和国国立図書館に所蔵されていた「ロアン公の時祷書」という写本は長い間、専門家や公人が全くその存在に気がついていませんでした。

この時祷書のタイトルである貴族のロアン家の起源は、アーサー王や円卓の騎士たちの伝説や、強いケルトの伝統を残すブルターニュ地方に発します。当初、フランス王の権力はパリの周辺地域に限られており、そのためブルターニュ地方は16世紀まで、その地方貴族の権力の影響下にありました。

ロアン家は古くはPorhet家からの分家であり、ロアン子爵であったAlain de Porhetがその創始者と伝えられています。12世紀の初頭、彼はロアン城(現在はモルビアン県に属する)にちなんでロアンの名を使い始めます。その後ロアン家は大変繁栄し、約千年におよぶ歴史の中でロアン家は7家に分かれますが、フランス史からその系図をたどることは容易です。

"Roi ne puis, duc ne daigne, Rohan je suis"(「私は王にはなれぬ、私は公爵にはなりたくない、私はロアンである」)というロアン家の座右の銘からその当時の権勢が伺えます。しかしその後、ロアン家は公爵の称号を得、数々の婚姻により、多くのヨーロッパ王朝と関係を強めることになります。

ここに、Lewis the First de Rohan-Guéménの第2子として生まれ、Rohan-Giéという新しいロアン家の分家を確立したPierredeRohan,seigneurdeGie(1451-1513)という人物が登場します。当時PierredeRohanはフランス元帥であり、フランシス1世の教育係も担当したいわゆる上流社会のエリートでした。18世紀後半の頃になされたとされる本書への手書きの書き込みには、ベルジェ城図書館のために彼が1500年頃この時祷書を製作した、とあります。書物の装飾に関して高名なある学者は、この写本が後期ゴシックおよびルネサンス様式の装飾が多いことから、北フランスのルーアンの装飾作業場にて製作された可能性が高いと推測しています。そこは公使であったGeorged'Amboisが金銭に糸目をつけずに後援をしていた作業場でした。イタリアの戦争でナポリが占領された際、Georged'Amboisがさまざまな写本をイタリアからフランスに移動させるように指示したため、フランスの装飾工たちはイタリアの書物装丁を学んでいました。

暦の箇所は月々の天上の移り変わりと年中の行事の特徴を示す絵が描かれており、本文は聖書のモチーフと聖人たちの生涯に由来する挿絵で始まります。図版はアカンサス葉飾りのモチーフ、幾何学的形状や神話的生き物で埋められており、これらの装飾には4人の装飾画家たちが関わっており、そのうちの1人が成熟した職人で、半分以上を担当したであろうということが研究により判明しました。その人物の名は残念ながら不明ですが、それらの作品を見る限り、本来は壁画や表紙の絵画を専門としていた職人であった推測されています。本書の製作についてまだ多くの部分が現在でも秘密のベールに覆われています。

ロアン公の時祷書1 ロアン公の時祷書2
ロアン公の時祷書1
(ファクシミリ版)
ロアン公の時祷書2
(ファクシミリ版)
ロアン公の時祷書3 ロアン公の時祷書4
ロアン公の時祷書3
(ファクシミリ版)
ロアン公の時祷書4
(ファクシミリ版)

逆に、ロアン家そのもの歴史についてはフランス史からうかがうことができます。宗教戦争で荒れ狂っていた時代、ロアン家はプロテスタント派(ユグノー)ナヴァル公アンリ王の側にありました。最も名を知られているRohan-Gié家の代表はフランス軍の将軍であったHenry Rohan(1579-1638)です。彼は16歳でアンリ4世の王宮に姿を現し十字軍に加わり、1597年にはアミアンの包囲戦に参加したバロック騎士でした。
アンリ4世が殺害されると彼がユグノー派のリーダーに選任されます。王権に武装反乱を指揮しますが、結局王との和平を結び、ヴェニスに旅をします。しかし最終的にはフランスに帰還して一時は最高司令官として権力を回復しました。
スービーズ公
スービーズ公

しかし、もう一人の権力者リシュリュー枢機卿の牽制をさけるため、彼はヴェニスに旅立ち、そこで王からの汚名を受けたためにフランスに2度と戻ることはありませんでした。1638年、彼はスウェーデンの側で戦ったラインフェルデンの戦いでの負傷の悪化が原因となり死去します。彼はRohan-Gié家の最後の男性メンバーだったため、彼の死後Pierre de Rohan Giéの時祷書がその後しばらくどこに存在していたかについては分かっていません。その書が実際的な目的を持っていた時代はとうの昔に去ってしまっていたので、恐らくは、ロアン城の図書館か、あるいはまだベルジェの図書館に眠っていたことが考えられますし、あるいは誰か人の手に渡っていたのかもしれません。

しかしそれからおよそ100年後、歴史的にはスービーズ元帥として知られているスービーズ公シャルル・ド・ロアンCharles de Rohan, Prince de Soubise(1715-1787)に所有されていたことが記録されています。彼はルイ15世の側近であり、7年戦争(1756-1763)の間はフリードリヒ大王を打倒すべく、フランス軍の指揮を委任された人物でした。この本の原書への最初の手書きコメントから彼の所有物であることが最初のページに記されています。しかし彼の死後間もなく、ヨーロッパ社会を震撼させたフランス革命がおこり、時祷書は再び歴史の闇へと消え去るのです。

ロアン公の時祷書5 ロアン公の時祷書6
ロアン公の時祷書5
(ファクシミリ版)
ロアン公の時祷書6
(ファクシミリ版)

多くのフランス貴族は、非常に早い段階で国を去りました。ロアン家の人々も他の貴族同様にライン河をわたって、皇帝フランソワ1世の保護の下チェコに落ち着きました。彼らがフランスを去った時にこの時祷書を持っていったか、あるいはナポレオンの失墜の後、没収されていた所有物を返還された際に、それも含まれていたかどうかは不明です。しかしいずれにしても、「ロアン公の時祷書」はチェコのロアン家が所有するスィフロフ(Sychrov)の屋敷に行き着いたのでした。スィフロフ城は当時の代表的大邸宅であり、そのような城には古書や稀覯書を収める図書館が必ず設けられていました。そしてPierre de Rohan Giéの時祷書はそこに厳かに保管されたのです。

しかし第一次世界大戦後、チェコスロバキア共和国の建国され、第二次世界大戦後には他の多くの貴族と同様にロアン家の財産は没収され、一家のメンバーもそれを最後にチェコから去ってしまいます。以来、彼らの財産は国の所有物になり、その中にこのロアン公の時祷書も含まれていました。1951年、本書は国立図書館に移され、そのまま今日に至っています。

以上がロアン公の時祷書、古くはPierre de Rohan Giéの時祷書の500年を超える歴史です。中世フランスの裕福で有力な一家の命により製作され、所有されたこの時祷書は、ヨーロッパに起こった歴史上のさまざまな出来事を乗り越えてきました。この本の辿った運命を知ったらPierre de Rohan Giéはさぞかし驚いたことでしょう。この本の持つ壮大な歴史から、これからも様々な発見があることと思われます。

ロアン公の時祷書7 ロアン公の時祷書8
ロアン公の時祷書7
(ファクシミリ版)
ロアン公の時祷書8
(ファクシミリ版)

この本と共に祈祷していたのは誰なのか、空白の時間にどこに存在していたのか、フランスからチェコに旅の最中、どのような経験を重ねてきたのか、そして宗教的な挿絵はどのようなメッセージを隠し持っているのか・・・?この時祷書ひとつとっても分かるように、図りしれない神秘と未知の要素を歴史ある時祷書は持っているのです。

本文に掲載された図版の書籍は雄松堂書店の在庫商品となっております。
詳細はお気軽にお問い合わせ下さい。

sales@yushodo.co.jp

ファクシミリ版
ロアン公の時祷書

ロアン公の時祷書 500部限定 ファクシミリ版
Horae Principii de Rohan


(The Book of Watches of Prince Rohan)
National Library Czech Republic MS: VI.D.25
322 pages. 25x17cm.
Praque: Archa 90 Publishing House, 2008.


在庫 \598,500


この瀟洒な時祷書は23の細密画と11の装飾頭文字に彩られており、それらをふちどる豪華で美麗な欄外装飾は特筆すべきものがあります。アカンサス葉や蔓、花びらの飾り画は、詩人・道化師・遊女などのさまざまな登場人物の個性にごく自然に調和し、全体の雰囲気を作り出しています。
ファクシミリ版は原本の美しさや質感を、金装飾箇所も含めて原本に忠実に再現しており、本物さながらの価値を感じていただける仕様となっております。この豪華本に相応しい木製ケースに収めてお届けします。

ベリー公の美わしき時祷書

ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵 ファクシミリ版
ベリー公の美わしき時祷書 (詳細ページへ)


Les Belles Heures du Jean Duc de Berry
The Belles Heures of Jean Duke of Berry
Metropolitan Museum of Art, New York, The Cloisters Collection, 1954, Acc. 54.1.1.


在庫 \1,575,000

エスコラピオスの時祷書

サラゴサのエスコラピオス(ピアス学院)図書館所蔵 ファクシミリ版
エスコラピオスの時祷書
LIBRO DE HORAS DE LOS ESCOLAPIOS


S. XV c.
1 volume (22x15cm). Facsimile Reprint. Limited edition of 898 copies.
Bound: Handcrafted binding in a red velour with silver claps and lockets, in a elm-root décor wooden case.
400 pp. Burgos: Siloé, 2007.


在庫 \980,000


サラゴサのエスコラピオス(ピアス学院)図書館が所蔵する至宝であり、珠玉のゴシック字体を誇る15世紀の時祷書のファクシミリ版。各ページは様々な形態と均等なゴシック文字や装飾頭文字に彩られています。彩り美しく彩飾された細密画も豊富に収められ、芸術的に極めて高い評価を得ている写本を、その彩色や質感など、忠実に再現しました。
鮮やかな燕脂色のベルベットのカバーは、豪華な真鍮の装飾と留め金が付いており、さらにこのファクシミリ版にふさわしい木箱に収めました。

アンティークブック
ラテン語時祷書

「ラテン語時祷書」16世紀印刷の稀少書
[Book of Hours. Latin, Use of Rome]


Hore intemerate dei genitricis virginis Marie / secundum usum Romane ecclesie.
[Paris]: Nicolas Vivien, [20 December 1511].


在庫 \2,079,000

8vo (188 x 123 mm). [128] leaves. Printer's grail device on title, 15 full-page cuts, each page enclosed in elaborate borders with small cut at foot, printed in red and black. Early French calf, rebacked, retaining the original spine. Covers panelled in blind with gilt fleurons at the corners. All edges gilt. Later endpapers. Light dampstaining to first seventeen leaves, a few additional stains. Overall, a very good, well-margined copy.
A rare Book of Hours printed for Vivien by the "Judas Street" printer, identified by Renouard as Raoul Coustourier. (Bohatta 925; STC French, p.273; Brunet V, col. 1669 note; Lacombe 223)
1511年印行のラテン語時祷書。本文はブラック・レターで印刷され、朱色の頭文字(印刷)や、多数の木版画、木版による装飾的意匠で飾られています。全体に本文と装飾のバランス、黒と赤の対比が素晴らしく、初期印刷時祷書の優れた例であるといえます。

ラテン語時祷書

「ラテン語時祷書」16世紀初頭、ヴェラム刷り
[Book of Hours. Latin, Use of Rome] Hardouyn, Gillet (printer)


Sixteenth-Century Book of Hours, Printed on Vellum and Finely Illuminated.
[Paris: Gillet Hardouyn, n.d., ca. 1509-1517].


在庫 \2,625,000

8vo. 101 vellum leaves (lacking the first leaf containing the title, and two leaves containing miniatures?). 26 lines. Text ruled in red by hand. With the Anatomical Man cut, plus 12 large and 22 smaller cuts, illuminated as miniatures in gold and colors. Decorative borders in gold and colors on five text pages facing miniatures. Initials supplied by hand in gold on red and blue backgrounds. 19th-century red morocco with covers decoratively paneled in gilt. Gilt spine, tooled in compartments, gilt board edges and inner dentelles, all edges gilt. Marbled endpapers. Extremities rubbed, joints weak. Previous owner's ink presentation inscription dated Nov. 20, 1874, on front fly-leaf. Generally, a very nice copy, beautifully illuminated.
16世紀初頭の印刷時祷書。印刷者はジレ・アルドワン(Gillet Hardouyn, fl. 1500-41)で、15世紀末から16世紀初頭にこうした印刷時祷書を多数刊行しました。巻末の奥付(フランス語)に「Gillet Hardouyn demouraut au bout du pont Nostre dame: a lenseigne de la Rose dor」とあるように、当時アルドワンは地代の高いノートルダム橋に工房を構えていました。本書は印刷本でありながら図版が彩飾され、装飾頭文字や行間の罫線、図版を囲む装飾枠などが印刷後に手で加えられており、あたかも写本時祷書であるかのように見せています。

74号 2008/3/26
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