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Net Pinus 74号
リレーエッセイ「探す・繰る・読む─雑誌の楽しさ」第2回
2008/3/30

星座の運行なかなかになめらかならず

近藤龍哉
(こんどう たつや)
日本女子大学文学部教授、専門は中国文学。
【主な著書】 『中国の文学論』(共著、1987、汲古書院)、『アジア学の明日にむけて』(共著、東京大学東洋文化研究所編、2008、白峰社)

駅逓 創刊号
「星座」創刊号
「星座」は、1935年4月創刊、1937年9月号まで二年半継続した小さな同人雑誌である。時の流れにかすんで紅野敏郎氏によって紹介されるまではほとんど注目されることのない雑誌であった(注1) 。筆者は、中国文学研究を守備範囲とするが、故あってこの雑誌に関心を持ち続けてきた。所在の確認すら難しかったこの雑誌のマイクロ化が成るマイクロフィルム版 精選近代文芸雑誌集とのことで、「全体を眺めわたす作業」が進むことが期待され、大変喜ばしい。ここでは紅野氏の仕事に依拠しつつ、主に雑誌の運営の方面に光を当てて見てみたい。

初代の編集者兼発行人は中村梧一郎で、「改造」の懸賞の選外となった石川達三の「蒼氓」を、強引に本人の了解を得ぬまま創刊号に掲載してしまい、それによって「蒼氓」が、この年開設された芥川賞の、前半期の選考対象作品となり、受賞するチャンスに恵まれた。「星座」を語る上で欠かせないエピソードの一つである(注2) 。中村は、創刊号に寄せた「同人言」で、「視野の狭い、スケールの小さな文学を捨てよう。そして下手ながら意識に満ちた、ふてぶてしい社会性のある小説を書かうではないか」と書いて、毎回100枚を越える作品を掲載し続けたこの雑誌の心構えを示している。編集者としての手腕とまじめな人柄で、その後の雑誌の発展に大きく寄与した。

駅逓 創刊号目次
「星座」創刊号目次
しかし、ここで私が特に注目したいと思うのは、新進の文学評論家矢崎弾のことである。初期には同人名欄にその名の見えないことから、外部の寄稿者であったように誤解される矢崎が、実はこの雑誌の中心人物なのである。矢崎の役割は、「星座」の一周年記念号(1936年4月)の記事でほぼ理解できる。石川達三は、「星座の運行」と題して、その「勝手気ままな雑誌」である「星座の運行中々になめらかなら」ざる様子を述べたあと、「星座の今日あるに至れるはキモ煎り役矢崎弾と最近までの編集者中村梧一郎との力に負ふ処が大部分である」と述べており、直前に山本和夫に編集を譲った中村は、「只黙って頭を下げる」という題で、ひたすら「星座」のために情熱を傾ける矢崎を描写し、感謝の言葉を捧げている。

石川のいう肝煎り役の矢崎自身は、同号に「星座の履歴」という実に長々しい文章を書いているが、要約すれば、同人14名はすべて矢崎が勧誘しそれに応えて集まった人々であり、通常の「互いに相面識する同人の結成」とは異なり、「僕を中心とした共同体として徐々に歩みはじめた」というのである。もちろん部分的に「相面識する」人々はいる。旧「新早稲田文学」(新早文)の面々や「三田文学」ゆかりの人々である。「その過半は僕がまだ面接したことのない人々」であったというのも注目すべきことである。

駅逓 創刊号
「駅逓」創刊号
「星座」の命名も題字のデザインも矢崎によるものであるが、そもそもこの雑誌は前年11月に創刊されすぐに挫折した「駅逓」という同人誌の改革として出発した。表紙の雑誌名の上に「文芸雑誌」と言う文字があるのも同じ、印刷所もそのまま引き継がれた。旧雑誌の発行経営役だった篠崎宏は残り、中心にいた中岡宏夫は改革の途中で去った。矢崎の「星座の履歴」はそのことについて実名を避けて語っているので分りにくいが、幸いに矢崎の秋山正香宛書信(注3) が残っていて、理解の助けとなる。

「中岡の道具になるのはこれから止めた。「エキテイ」はこれ以後僕中心の同人誌に改めるつもり。それでなければあれは篠崎個人のものとなるのだ。今迄中岡が金を出すと云つて嘘をついたんださうだ」(1935.1.6)

「雑誌のことで先々険しく考えてゐる。ともかくエキテイを改造することで…」(1935.1.15)

とある。

人選も矢崎が行ったが、当時、矢崎は報知新聞学芸部記者の片岡貢と親しく、相談役だった形跡がある。矢崎の狙いは、旧来の同人誌と異なり、面識の有無にかかわらず有力新人を集めることにあったようだ。ハガキに
「雑誌の方、益々有力な同人が集り、特に改造当選の酒井龍輔、中公当選の平川虎臣二人まで参加した。近く会合する筈。兄から一本、会議の件は一切賛同のハガキでもいただきたい。勿論その日は御通知いたします。立派なものにしたいと今から鶴首してゐます。ご期待ください」(1935.1.17)

とある。酒井は「油麻藤の花」で、石川が選外となった「改造」の懸賞に入選していた。平川は、酒井と同郷(熊本県内田村)の友人で、奇しくも「中央公論」の同じ7月の懸賞作品に入選している。これから飛躍しそうな有力な新人を物色して勧誘したことがわかる。

矢崎の書信からは、「星座」の準備ために心血を注いでいた状況が彷彿とする。

「雑誌の会、先月二十九日の晩開きました。兄の外一人欠席で、同人費は5円。二月末日迄に篠崎博宛に送られたい。また四月創刊で原稿締切は二月末日、十五日の晩に同人の集まりがあります。…とにかく原稿は小生宛におたのみいたしたく、傑作を寄せて下さい。掲載順は小生に一任ください。」(1935.2.2)

「来月はぜひお出でください。お待ちします。それから、こんどの創刊に二枚までの顔よせ原稿を書いてもらひたいのだ。なんでも良い。至急二枚までの所感をお送りください。こんどは二十六日頃また全部集るつもり。石川達三が同人になった。秋葉和夫といふのが参加したいと云つてゐるが、どうかしらん。兄は御存知ありませんか」(1935.2.20)

秋葉は、秋山、石川と同じく元「新早文」同人で、次号には同人に迎えられている。

編集プランも矢崎が発案した。面識さえない彼らを同人に束ねていくためによく酒を飲み騒ぎ議論をし、ハイキングも企てた。再び秋山宛の書信を紹介しよう。
「雑誌「星座」のために根限り働いてゐる。「星座」もまあ立派となりさうなのでうれしい。第三号をみて欲しい。だが経済的には参つてゐる。勿論パトロンも捜索中だが何しろ、今月も原稿は一杯だがみんな出せない始末。…それでも金が二拾円ばかり超過するのでこまつてゐる。たのむは柴崎のみだが彼は創刊号に三十円ばかりだしてゐるのでさうさうは依頼できず、それでも今月頼みました。どうなるか不安。それで僕と兄で後の半分拾円を共同で出したいと思つとるが、どうかしらん。」(1935.5.13)

「僕も「星座」をやりだしてから…夜もろくろくねむられぬ始末。プランプランで金たらぬのだ。何もが苦しい。しかし僕は亦もり返してみせる。兄らの力にすがつて。第四輯はロマン論復活号として他からもひとを招き同人論客総出で本格小説運動を開始する。つまり現在文壇の断片小説の排撃だ。」(1935.5.17)

こうして本格小説の復権を目指し、雑誌経営への挑戦に燃えた矢崎の「星座のためなら淫賣婦にでもなる」(中村)という熱意は他の同人に伝染し、雑誌の熱気は読者の増加、同人希望者の増加へとつながっていく。石川が芥川賞を受賞した「偶然」も重なり、1935年4月に13名だった同人は、1936年3月には28名へと拡大した。

石川は後に、少し前につぶれた「新早文」を回想して、「そのころの同人費は毎月五円。二十人の同人費がはいれば百円。一ヶ月分の雑誌が八十ページぐらいで約二千部刷って、七十円から八十円で出来た。ところが同人はみな貧乏文学青年で、同人費が五十円から六十円しか集らない」と言い、不足分は誰かに頼ったりしたが、借金がたまり、印刷費を払えなかったことを述べている 。(注4)「星座」の場合、同人費5円で単純計算すれば月140円、経済的困難は解決されるはずであるが、いつも百ページを超え、同人費の滞りもあってどうやらそう順調ではなかったようだ。
「星座は発展したでせう。然しケイザイがやはり困つてゐる」(1935.10.28矢崎)
という状況は続いた。

さらに、作品掲載をめぐる不満や軋轢から同人をやめる者が出たのはちょうど一年目、最初に期待を持って迎えられた酒井と平川がそろって抜けた。石川が「星座の運行」をもじって「なかなかになめらかならず」と称した所以である。さらには1936年8月頃に、中村をはじめ与儀正昌、高野三郎、秋葉和夫、三条容煕、宮川圭一郎といった早期からの有力同人9人がいっせいにやめている。何らかの深刻な衝突があったらしいのだが、ちょうどこの頃の雑誌が見られずいまだ詳らかでない。

星座 1936年新年号
「星座」1936年新年号
しかし、次の編集者山本和夫と矢崎とのコンビは絶妙で、創作のほか、「表現の問題」「象徴主義」など評論にも力を入れ、雑誌の活力はいよいよ増した。「星座」が発起人となり、同人雑誌クラブを結成したこと、同人雑誌クラブ賞を設立してその選定を実現したことも、発案しお膳立てをした矢崎の役割とともに銘記すべきことだろう。

先を急ぐと、「星座」は1937年9月号で、二年半の幕を閉じた。一時は20人近くまで落ち込んだ後新しい同人が次々に増えて、最後にはなんと53名にまで達した。この点に限れば、大発展を遂げたと言える。首都圏のみならず関西や九州に拠点ができ、さらには上海、樺太、満州、台湾など海外からも同人が加わった。同人費も月額5円から3円に下げられたようだ。読者も全国に広がり、東京堂、東海堂、大東館、北隆館といった大取次店が扱い、上海の日本書籍の専門店である内山書店にも並んだ。だが、星座の輝きがいよいよ増すという最中、突然に終焉を迎えるのである。

星座 2周年記念号
「星座」2周年記念号
1937年、戦争の危機を前にして、ジャーナリズムで中国への関心が高まる中、上海から戻った軍人で詩人の五条康雄が同人に加わり、日中文壇の交流を呼びかけた。続いて、矢崎が一ヶ月の上海旅行をし、中国文学者と直接の交流をして帰ってきた。矢崎はその日記に「中国作家の中日文学交流を望むや切、僕また微力を省みず、交流の犠牲たらんことを約す」と記した。「星座」は、本格的に日中文壇の交流に取り組んだ。その最中に日中戦争が始まり、8月治安維持法違反の嫌疑で矢崎と山本が逮捕、「星座」は廃刊に追い込まれたのである。その詳細は別に書いた(注5) ので詳しくはそれにゆずることにする。日中戦争の前夜に、中国文壇との交流を目指してその犠牲となった日本の一同人誌のことを中国の人々に知ってもらおうと、2005年、北京でのシンポジウムで発表したところ、思わぬ反響を呼んで中国と台湾で活字になった。筆者にとって、「星座」は、その文学への情熱とヒューマニティにおいて両国の文学者が共感をもって交流したという事実の証として、あの暗い時代に輝く存在なのだが、「星座」の全容が見やすくなるこの機会に、日本の多くの人々に注目されることを期待している。

(注1)紅野敏郎「逍遥・文学誌(86)(87)(88)」「国文学」1998年9/10/11号 学燈社
(注2) 石川達三『心に残る人々』p.221 文藝春秋 1968年12月。なお、石川は小説『ろまんの残党』のなかでもこのエピソードを使っている。竹村可七郎のモデルは中村梧一郎。
(注3)矢崎弾「秋山正香宛書信」さいたま文学館所蔵。
(注4)石川達三『心に残る人々』p.202 文藝春秋 1968年12月。
(注5)近藤龍哉「胡風と矢崎弾―日中戦争前夜における雑誌『星座』の試みを中心に―」東洋文化研究所紀要 第151冊 2007年3月。

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