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雄松堂Net Pinus 75>舞台と文学のモダニズム―「文芸レビユー」と新心理文学

Net Pinus 75号
リレーエッセイ「探す・繰る・読む─雑誌の楽しさ」第3回
2009/6/30

舞台と文学のモダニズム――「文芸レビユー」と新心理文学

曾根博義(そね ひろよし)
1940年静岡県生まれ。日本大学文理学部教授。専門は日本近代文学。
【主な著書】
『伝記 伊藤整』(六興出版、1977)、『『変態心理』と中村古峡』(不二出版、2001)。
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 1929(昭和4)年3月、20名を越す有名無名の執筆者名を黄色地の表紙に墨で刷り込んだ菊半截判50頁、定価10銭の雑誌「文芸レビユー」創刊号を見て、読者が驚いたのは、何よりもまずモダンで当世風なその誌名だったらしい。当時「レビユー」といえば誰しも宝塚や浅草の舞台で流行しはじめていた早替りバラエティ・ショーのことを思い浮かべたからである。高見順も創刊号を手にして「妙な名前の雑誌」だと思ったという(『昭和文学盛衰史』)。
現に巻頭の新居格「文壇レビユー──人生速記術」には、こんなことが書かれている。

「文芸レビュー」創刊号表紙
「文芸レビュー」創刊号表紙

「社会のテムポが急速になるにつれて、人間の心理の上にもその急速な速度のリズムを反映する。緩やかな無変化のうちに細かく味ふ心理的咀嚼に堪へなくなつて、変化を求める。意味の深かい無変化よりも、意味のない変化を愛する。その場合、変化そのものが意味だからである。レビウ物はさうした現代心理の動きが求めた一つの形式なのである。」

 新居のいう「レビウ物」が、舞台における「時間革命」を成し遂げたといわれる、宝塚や浅草のレビューを指していることはいうまでもなかろう。

 創刊の抱負や経緯については、昭和3年春、上京して東京商科大学に通いはじめた伊藤整が、大学の文芸部で出会った瀬沼茂樹(本名・鈴木忠直)あてに、同年秋に書いた書簡に詳しい。

「雑誌は僕と川崎(略)と今巴里にゐる河原と三人で始めるので、題その他今河原と打合はせ中なのです。大体川崎昇が経営を引受け、僕が編輯に当つて、若い文壇と詩壇を貫いて雑文を主とし、詩・創作を配した雑誌を始めるといふのが眼目なのです。純然たる同人雑誌といふよりも、新興の詩人、小説家、劇作家の寄稿によつて満たす考です。原稿は一寸名が出てゐる人で書いてくれる人が大分ありますので(稿料は無論なしで)不足しまいと思はれます。高村光太郎、百田宗治、室生犀星といふ人に毎月書いて頂くつもりです。/そう言ふ人たちの原稿で満たすと共に、実力ある親しい友人の作ものせて行くことは、色んな点で便宜が多からうと思ひますので、純然たる同人といふ意味でなしに、単純に仲間といふ人たちを今四、五人考へて居ります。(略)雑誌の題、定価等は、定価は十銭にして広く行き渡らせるものにしたいことは変へまいと思ひます。題は、文芸往来、月刊文芸、創作往来など色々ありますが確定はしてゐません。三月創刊にするよ定です。五六十頁のものです。こう書いてくると、ちやうど、文藝春秋の始め頃の様になりますが、まあ、あんな風になることと思ひます。」

伊藤整(昭和15年)
伊藤整(昭和5年頃)
日本近代文学館所蔵
 たった1冊の詩集を携えて上京したばかりの数え年24歳の大学生にしては、まことに大胆かつ野心的な企てといわざるを得ない。しかも驚くべきことに、これがほぼ計画通りに実現されたのである。

 6年前の大正12年1月、「文藝春秋」の創刊に際して菊池寛は「自分で、考へてゐることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう」といい、「一には自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした」と書いた。伊藤整たちの雑誌の創刊号は予定通り翌昭和4年3月に出た。誌名は「月刊文芸」でも「文芸往来」でもなく「文芸レビユー」だった。伊藤整は菊池寛の向こうを張って創刊号の「編輯後記」の冒頭に「自分の読みたいと思ふ雑誌を作りたいと思つて仕事をした」と記していた。

 当時、伊藤整には、自分の詩集『雪明りの路』(大正15年12月、椎の木社)の読者だった小川貞子という4歳下の恋人がいて、札幌の兄夫婦の家から北星女学校の専攻科に通っていた。瀬沼茂樹あての手紙と前後して貞子には、

「来年の春から創作の雑誌を始めます。巴里にゐる河原、川崎と僕、それに商科大学の文芸部の二、三人とで。五十頁位のを毎月出します。誌名は『月刊文芸』にすると思ひます。いい題がなくて困るのです。四月か三月かに創刊になりませう。ぼくたちも、もう何かし始めていい年頃ですから、がんばつてやるつもりです」(昭和3年11月9日)

と書き、

「雑誌の計画でひまさへあれば、金を計算したり、頁数を数へたり、執筆者の名前を並べてみたりしてゐます。とても愉快です。誌名(これはほゞ言つた様ですが)は月刊文芸。六十頁ばかり。文壇、詩壇の新らしい人々をもうらします。古い人は、もう古い上に、原稿料をとるから敬遠して、無視し、ふみにぢります。新らしい僕たちの時代を呼び上げます」(11月19日)

と嘯いていた。

 伊藤整は貞子の下宿先の兄夫婦に気兼ねして、手紙の洋封筒の表には「親展」と書き、裏には住所なしで「鳴海青」と署名していた。「鳴海」は北海道の漁師の娘だった母の旧姓で、戦後最初の長篇である『鳴海仙吉』の主人公の姓になっていることは周知の通りだが、早くも「文芸レビユー」創刊号以来、「伊藤整」以外にしばしば「鳴海フイリツプ」の署名を使っている。伊藤礼著『伊藤整こいぶみ往来』(昭和62年9月、講談社)によれば、その後の貞子あての手紙から、雑誌の計画がさらに固まって具体化し、誌名が「文芸レビユー」に決定したのは12月半ばだったという。

創刊号目次
創刊号目次
創刊号口絵(ピランデルロ近影)
創刊号口絵(ピランデルロ近影)
 さて創刊号は、わずか50頁の薄っぺらな雑誌にもかかわらず、大勢の寄稿者の顔触れも、短い作品や翻訳や雑文も、なかなかに興味深い。巻頭の「レビユー」欄には前掲の新居格「文壇レビユー」に続いて演劇(舟橋聖一)、詩壇(春山行夫)、映画(北川冬彦)のレビユーを並べ、詩は高村光太郎「首の座」、北川冬彦「戦争」をはじめ、百田宗治、小野十三郎、安西冬衛、上田敏雄ら、評論や翻訳は飯島正、百田宗治、堀辰雄(コクトオ「マルセル・プルウストの声」)、三好達治(ボオドレエル「衆人」)、伊藤整(ブウルデ「昨今の仏蘭西劇壇」)など、小説は中谷孝雄「お豊」一作を掲載している。

 やや意外なのは、演劇関係記事の多さが、当時の伊藤整の関心の一つの方向を示していることだろう。表紙の次の扉には「伊太利の劇作家ルイヂ・ピランデルロの近影」が掲げられ、本文中の「ピランデルロとの会話」参照とある。その「ピランデルロとの会話」の筆者が「鳴海フイリツプ」で、すべての事実や真理の相対性のなかで、芸術の絶対性だけは信頼できるという趣旨の対話スタイルのエッセイ(伊藤整全集未収録)である。伊藤整がピランデルロについて書いたことは後にも先にもないが、「作者を探す六人の登場人物」(大正13年10月、築地小劇場で非公開日本初演)で知られるイタリーの前衛劇作家と伊藤整の人間認識や芸術観との間には、見過ごせないほどの類縁が認められる。

 誌面をいっそう賑やかにしているのは、往復葉書の返信を寄せ集めた諸家のアンケート回答である。それが名のある人々から無料で原稿を集める巧い方法だということは川崎昇が知っていた。創刊号のアンケートは「近来資本主義的威力を振ひつつあるヂヤーナリズムは文芸に如何なる影響を与へるか」で、佐藤春夫、百田宗治、浅原六朗、白井喬二、福田正夫、藤森成吉、西條八十、林房雄、大槻憲二、萩原朔太郎、葉山嘉樹、尾崎士郎、直木三十五ら計30名の回答が到着順に掲載されている。第3号(5月号)の形式主義文学論についてのアンケートには小林多喜二、梶井基次郎、井伏鱒二らの名も見える。

「感情細胞の断面」書き出し
「文芸レビュー」昭和5年5月号、伊藤整「感情細胞の断面」書き出し
 「文芸レビユー」は昭和6年1月までの2年近くの間に全19冊を出して幕を閉じるが、創刊約1年後に福田清人、小林勝、那須辰造、一戸務ら東大系の「新思潮」の同人を吸収して気勢をあげ、昭和5年4月26日には銀座の讀賣新聞社講堂で同社文芸部後援の講演会を開くとともに、それまで世田谷の川崎昇の住所に置かれていた文芸レビユー社を銀座の井上ビルの一室に移した。そしてその直後に発表された伊藤整の精神分析小説「感情細胞の断面」(昭和5年5月号)が『新潮』6月号の川端康成の文芸時評「新人才華」のトップに取り上げられることによって、「文芸レビユー」は文壇に広く知られるばかりでなく、その中心メンバーだった伊藤整は、フロイトとジョイスの影響を受けた「新心理文学」の新人作家兼評論家として華やかな文壇デビューを果たすことになる。

 伊藤整は小説「感情細胞の断面」に続いて6月に発表した3本の評論「文学領域の移動」(「文芸レビユー」)、「文学芸術のメカニスム」(「前衛」2、全集未収録)、「ジェイムズ・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」(「詩・現実」1)において、形態や心理の描写から無意識心理の表現へという、新しい文学の方向を明らかにした。川端康成はそれらを読んで「文壇散景」(「讀賣新聞」昭和5年6月12日)の冒頭に「新心理文学」という見出しを立て、次のように書いて伊藤整の背中をさらに強く押した。

「万一フロイドの学説が嘘であるとしても、『驚嘆に値するのは彼のメトオドである。』その精神分析のメトオドは、新心理文学のメトオドに豊な道を示す。──といふ意味の伊藤整氏の説は、どんな暴力を用ひても、打ち倒すことは出来ない。従つて、新しい心理の領域が──少くとも心理の新しい取り扱ひ方が、作家たちに感じられつつあることは、動かせない事実である。」

 「新心理文学」あるいは「新心理主義」という文壇・文学史用語はここに源を発して広まることになるのである。

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75号 2009/6/30
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