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「The Asiatic Society of Japan」
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アーネスト・メイスン・サトウ
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1872(明治5)年10月、日本最初の鉄道開通で賑わいを見せる横浜で日本アジア協会(The Asiatic Society of Japan)がひっそりと誕生した。この協会は英米人を中心とした日本研究団体である。創立総会の席上、最初の講演を行なったのは、イギリス人外交官アーネスト・メイスン・サトウ(Ernest Mason Satow)であった。題目は「琉球について」(Notes on Loochoo)であった。琉球の歴史、気候、産物、家屋、宗教、習慣、衣服、文字、言語に関する琉球文化論である。新井白石の『琉球国事略』、『中山国志略』、『琉球国志略』などを利用している。実地調査ではなく、文献研究であった。サトウがこの論説を書き上げたのは最後となった琉球使節の来日に触発されたものである。しかし、数年後、琉球処分が実施される段階でサトウの論説はふたたび注目を浴びた。
サトウの論説は、もともと『フェニックス』誌からの再録であったが、横浜の英字新聞「Japan Weekly Mail」(以下、これをJWMと略記)紙の1873(明治6)年3月15日号に掲載され、
その後、日本アジア協会の『日本アジア協会紀要』(Transactions of the Asiatic Society of Japan) の創刊号の巻頭をかざった。さらに2年後の1875(明治8)年3月31日号のFar East紙にも登場した。Japan Punch誌の1876年2月号に「川崎[横浜]の日本アジア協会の集会。日本の相撲甚句を踊る」と題した挿絵がある。
サトウはこの協会の有力メンバーであり、協会設立に尽力したと思われるが、この時期には日記をつけていないので、その動静は分からない。唯一の消息として、彼の父からの手紙に「[日本]アジア協会を沈没させないために、どうか出来るだけのことをして下さい。そうすればあなたの名声はいっそう明白なものになります」とあるだけである。
この年の12月にはアメリカ人教育家グリフィスの「江戸の通りとその名前」という講演があった。今日でも初来日の外国人は「日本の通りには名前がない」ことを直感する。住居表示の必要から、外国の街にはどんなに小さな通りにも名前がある。日本の場合には大きな通りにしか名前がつけられていない。そこで、グリフィスは江戸の街路研究をすすめる。江戸の街路の名称には(1)戦場や戦勝をあらわす名前がなく、(2)国民的英雄に関する名前がほとんどない。一方、(3)自然に由来する名称が多く、(4)日常生活の必需品や大工、鍛冶屋といった職名もある、と指摘した。彼の指摘には日欧比較文化の視点があり、当時の日本人には思いつかない発想であった。
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「The Asiatic Society of Japan」 Contens
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「The Asiatic Society of Japan」に
掲載されたアーネスト・サトウの論文
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もうひとつサトウの論説を紹介する。1873(明治6)年3月に発表された「日本の地誌」という論説である。外国の地理の教科書には「日本はニフォン、九州、四国、蝦夷、保護領、南千島、樺太の南半分から成る」との記事がある。この文中の名称のスペリングの誤りは言うまでもないが、日本に関してすべての著者がつねに言及し、たえず繰り返される誤りがある。その誤りとは、日本列島の最大の島[本州]をニッポンとかニホンと表記していることである。そこで、サトウは横浜居留民をまえにして日本の地誌の正しい情報を提供することを決意した。当時、西欧を旅した村田文夫も同じ誤解に直面した。西欧人は「日本、蝦夷、九州、四国」の四大島で日本列島が構成されていると考えていた。村田が「日本」の誤りを指摘すると、逆に「其一島ヲ呼ブ時ハ、何ント称スルヤ」と質問された(『西洋聞見録』)。彼がどのように答えたのか分からない。本州あるいは本土と自信を持って返答できたのであろうか。
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「The Japan Punch」より
左側:アーネスト・サトウ
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日本アジア協会を強力に支援したのはJWM紙であった。協会は1874(明治7)年から『紀要』を刊行するが、この機関誌に論説が掲載されるまえに、ひとまずJWM紙に全文が登場する。このJWM紙は、1870(明治3)年に創刊されて以来、ハウエル、ピアソン、リッカビー、ブリンクリー、サッチェルなどが編集人となり、代々、日本アジア協会とのえにしがつづく。JWM紙がJapan Times紙に併合される1917(大正6)年まで、実に半世紀ちかくの永きにわたって支援していた。
このJWM紙について、日本考古学の父モースはつぎのように絶賛している。「かりに、これまで外国人の書いた日本に関する書物がことごとく消却されたとしても、『ジャパン・メイル紙』のファイルひとつが残れば、外国人が日本について記録したもののうち、価値あるもののほとんど全部を所有していることになるはずである」(斎藤正二他訳『日本人の住まい』上巻、p.12)と。
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ファーイーストより写真
1874年8月31日 横浜の波止場
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さらに、日本アジア協会の門出を思わぬ方向から援助の手がさしのべられた。この研究団体を支援していたJWM紙に対して、日本政府が補助金を付与することになった。政府による間接的な日本アジア協会への手助けということになる。西洋の新聞を読むにつけ、その日本情報には誤りが多く、日本政府の外交政策の遂行や民間人の経済活動の支障ともなった。そのことは欧米諸国を歴訪した岩倉使節団の一行も身に染みて痛感していた。その誤解を解消するには正しい日本紹介を実行せねばならない。そこで、政府は1873(明治6)年9月よりJWM紙に500部の新聞購読料5000円と外国の要人への新聞郵送料468円を年間支払うことを決定した。配達先はJWM社のハウエルの裁量で決められた。しかし、この取り決めは1875(明治8)年12月をもって打ち切られてしまった。政府が当初に期待していたほどの成果があがらなかったためか、あるいはJWM紙が日本政府の台湾出兵を厳しく批判したためか。ちなみに、1873(明治6)年9月から1875(明治8)年12月までにJWM紙に掲載された日本アジア協会の論説は28本だった。『日本アジア協会紀要』の第一巻から第三巻までにほぼ転載されたものであった。
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「The Japan Punch」より
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1872(明治5)年の横浜で自信なさそうに、頼りない足どりで発足した日本アジア協会であったが、当時の爆発的ともいえるヨーロッパでの日本ブームの余波をうけ、一気に隆盛への道をかけのぼっていった。このころフランスのパリでは美術界を中心としたジャポニスムの運動がさかんであった。1862年ころ画家のゴンクール兄弟が思いがけず『北斎漫画』を発見して以来、フランス印象派の画家たちは浮世絵の画法に注目しはじめた。ホイッスラー、ゴッホ、マネ、モネなどがその洗礼をうけた。当時流行していた万国博覧会がロンドンやパリで開かれ、日本から珍しい品物が出展されると、一般市民も日本の庶民文化に目を向けることになる。1862年のロンドン万国博覧会を訪れ、日本の美術工芸にいたく感動した青年リバティは、やがてロンドンのリージェント・ストリートに自分の店を持った。インドのショール、日本の陶磁器、漆器、版画などを売り出した。こうしたイギリスやフランスでの日本ブームを反映して、日本を訪れる西洋人は日に日に増加の一途をたどった。二世紀あまり世界に扉を閉じていた日本が、珍奇な光を外界に向けて発した。ヨーロッパ人には当時の日本はそのように映った。
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ファーイーストより写真
1874年12月31日 日本の陶磁器
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内外で日本ブームがつづいていた。1873(明治6)年3月、東京ではドイツ東アジア自然民俗学協会が創立された。この協会はドイツ系の日本研究団体として知られるようになる。発起人71名のうち、イギリス人としてサトウとハウエルが名を連ねていた。この協会の例会は、当初、東京と横浜で交互に開かれた。一方、西欧諸国を回覧中であった岩倉使節団がイタリアのヴェネティアに到着し、5月、同地の古文書館で慶長遣欧使節の文書を提示された。すぐに岩倉具視が久米邦武にこれを筆記するように命じたので、後年、久米が編纂した『米欧回覧実記』にもこれが収録された。イタリア人歴史家がこれを詳しく調査して、1877年に『天正慶長遣欧使節』を刊行した。イタリアでの日本研究のはじまりであった。さらに、9月にはフランスのパリでレオン・ド・ロニーが主宰する第1回国際東洋学者会議が開幕した。この会議にはブロンズ、宗教、民俗の三部門があり、翌年1月までつづけられた。
この日本アジア協会でつぎつぎと論説を発表したサトウ、アストン、チェンバレンは明治時代におけるイギリス人三大日本学者と称されるようになった。イギリス人は日本理解を真摯に考え、日本情報の収集につとめた。その主要舞台が横浜で誕生した日本アジア協会であった。 |