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講演者:横浜開港資料館主任調査研究員 西川 武臣 氏
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今日は開港資料館の所蔵資料を使いながら、横浜の幕末から明治初年くらいまでの歴史を紹介したいと思います。
開港資料館は、古文書、錦絵、古地図、絵葉書、新聞・雑誌など、全部で25万点くらいの資料を持っています。単に横浜の歴史というだけではなく、幕末から明治・大正という時代は、日本の歴史の中でも非常に大きな意味を持っているということで、世界的にも注目されていて、閲覧室には国内はもとより世界中からいろいろな方が見学に来ます。
我々は「日本の歴史において、横浜が国際的に注目を浴びた」という点だけでなく、視点のひとつとして「横浜の人々」というテーマを、開館以来追いかけています。
横浜に限らず、名もない人々の人生の積み重ねのようなものが、地域の歴史になってくると思います。具体的に名前が分かる方もいれば、そうでない方もいらっしゃいますが、言い方を替えれば「庶民群像」というものに焦点を当てながら、幕末から明治初年までの歴史を、資料に基づきながら紹介したいと思います。
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| 1.ペリー来航と庶民群像 |
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日本の国際化のきっかけであるペリー来航、まずはそこからお話ししたいと思います。
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ハイネ画 ペリー提督の横浜上陸 [横浜開港資料館所蔵]
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このペリーが来航したときの絵を描いたのは随行画家のハイネです。今ですと、従軍カメラマンが写真なり、動く映像で撮影するのでしょうが、当時は写真が普及しておらず、軍隊が移動するときは画家が随行しました。この時はハイネという画家が一緒にやって来て、ペリー来航の様子を記録しました。
ペリー艦隊はアメリカに帰ったあと、遠征記録を公式に出版します。絵画としてもこの絵の他、前年に久里浜に来航したときの絵などが残されています。
ペリーが来るまで、長崎では中国・オランダとの交流はありましたが、当時日本人が外国人を見る機会は限られていました。1854年2月13日に東京湾にやってきたペリーが条約を結んだのは3月31日です。歴史の教科書では、ただ1行『ペリーが来て日米和親条約を結んだ』と書かれているのでしょうが、約2ヶ月間にわたってペリー艦隊が東京湾にいたことにより、一般の人が外国とはこういうものだと認識した一大事件でした。
この絵でおもしろいのが、アメリカの儀伏兵が並んでいる後ろに多くの見物人がいるのです。よく見ると武士ではないような人も大勢います。とするとこれは、「庶民がペリー達を見に来た絵」ということになります。一般の庶民、近隣のお百姓や江戸の町人も来ているかもしれません。まさに庶民が、アメリカというものを目の当たりにしたところを絵にしています。日本側にもこの場面を描いた絵巻が残っており、やはり「人々・群衆」と書かれているので、この絵は信憑性が高いものであるとわかります。庶民レベルでの国際交流が横浜の地で始まったという、記念すべき絵の1枚であるといえるでしょう。
この現場は現在、横浜開港資料館が建っている場所になります。開港資料館の中庭には右端に描かれている木の子孫が残されています。この「たまくす」という木は、ペリーが来たときにはこのくらい大きな大木でしたが、関東大震災で火が燃え移り、上の方が燃えてしまいました。しかし根は残っていたため、ペリー来航という歴史的な事件を眺めていた木が、80数年たって再び大きな木となり開港資料館の中庭に生えているのです。
ところで、ペリーがこの場所で条約を結んだのは何故でしょう。事前に場所についての交渉が何度かありましたが、その時にペリーが出した条件がいくつかありました。一つは交渉の際、幕府に圧力をかけるため、「前面の海に艦隊が横一列に並べること」というものでした。このような大きな船が横一列に並ぶには、水深が深い必要があり、その条件を横浜は満たしていました。今ここには「大桟橋」という桟橋があります。クイーンエリザベスや飛鳥IIが今もここに停泊できるようなところです。
もう一つ出した条件は砂浜が広いことです。この時ペリーは機関車の模型を持ってきていて、デモンストレーションを行おうとしたため、広い場所が必要だったのです。ペリーが来た数年後に横浜は開港しますが、いい港があり市街地を形成できる広い土地がある、という点が、おそらくその後の横浜発展の基礎になっているのではないでしょうか。
ペリー艦隊には白人だけでなく、黒人や通訳の中国人も乗っていました。日本人がはじめていろいろな民族・人種・国家と交流したのがここ横浜であったといえるでしょう。ペリー艦隊の乗組員の総人数はあまりはっきりしませんが、2000人前後ではないかといわれています。この人数が9艘の黒船に乗って2ヶ月近くにわたって目の前にいた、そういったイメージでこの絵を見ていただければと思います。
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| 2.開港直後の横浜を写した写真 |
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次に開港後の話をします。
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開港直後の横浜を写した写真(ロシエ撮影)
[横浜開港資料館所蔵]
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横浜が開港した1859年にスイス人のロシエが横浜を写した写真です。
スイスはこの時まだ条約を結んでいませんが、イギリスは前年に通商条約を結んでいて、ロシエはイギリスの総領事・オールコックと一緒にやってきました。横浜の港が開いたのが1859年7月1日ですが、その直前にオールコックはイギリスの軍艦サンプソン号で来航していますので、おそらくロシエも一緒にカメラを持って上陸したのでしょう。ロシエはイギリス・ロンドンのネグレッティ&ザンブラ社という出版社から組写真として開港直後の日本を写した写真を販売しました。写真はステレオ写真と呼ばれるもので、特殊な眼鏡を使うと立体に見えます。これが当時のヨーロッパで大変流行し、当時の中国や日本の写真が大量に作られ、その中に横浜の開港直後を写した写真も残されました。
開港資料館ではこの時ロシエが残した写真を4枚所蔵しています。1枚は野毛を写した写真、残り2枚は神奈川宿という宿場、今のJR東神奈川駅や京浜急行の神奈川駅辺りです。写真は台紙に貼られ、台詞の後ろには番号がふってあります。神奈川宿とこの写真の間の番号が2つくらい抜けているので、今後もしかすると神奈川宿を出てから横浜に入るまでの写真が見つかるかもしれません。
これはもともと横浜にあった集落の写真です。当時の横浜村は半農半漁の100戸程の村でしたが、開港後に外国人が住む町を作るために移転させられました。その人達が移転先で作った村が「元村」、それが町になって「元町」になったのです。これは、横浜の出発点を写した非常に貴重な写真といえるでしょう。今日のキーワードが「庶民」だとすると、まさに昔から横浜村に住んでいた庶民の人たちの最後の写真といえるかもしれません。ここの人たちの人生はどうだったのか、小説家ならきっと、1本の話が作れるくらいの写真です。この写真は横浜の原点のようなものですから、大切に保存していかねばなりません。今生きている人たちが知るためだけではなく、100年後や200年後、次の世代の人たちが使えるように大事に保存していくのが地域の博物館・資料館の役割だと思います。
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| 3.開港場建設と2つの史跡 |
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開港直後に刊行された絵地図 [横浜開港資料館所蔵]
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開港直後に刊行された横浜浮世絵 [横浜開港資料館所蔵]
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安政6年、旧暦6月頃の横浜を描いたものです。旧暦の6月は今で言うと7月頃で、安政6年は西暦で1859年にあたり、開港した年ですから、開港当時を描いたものです。開港に伴っていろいろな施設が作られますが、その一つが波止場です。開港直後はまっすぐに海に突き出していた波止場だったのですが、これでは北風が吹き込んで、冬になると波が立ってしまい、荷物の上げ下ろしが困難であったため、1860年代になって波止場をぐっと曲げます。曲げたことによって象の鼻の形に見えることから、横浜ではこの波止場のことを「象の鼻」と呼んでいます。開港150年をきっかけに、この波止場が明治10年代から20年代の形に復元されました。
こういった大きな工事には労働者が多く必要になってくるため、横浜は日本全国から労働者が集まってくるような場所になりました。横浜というと貿易商の町というイメージがあります。もちろん貿易が基幹産業ではあるのですが、建築労働者、あるいは八百屋・魚屋などの小さな商いをする方、あるいは荷物運搬で働く人々、そういった職業の人達もこの街に集まっていたということがこの浮世絵に描かれています。貿易港としての活性化を図り、貿易の街として豊かになったというだけでなく、ここで働いている庶民によって支えられている、そういった点も重視して、横浜市では波止場を史跡として修復しました。何百年先まで残っていく史跡の一つだと思います。
もう一つ、現在保存運動がおきているのですが、神奈川台場という台場がありました。大砲が置かれたところを近代では砲台といいますが、江戸時代は台場と呼んでいました。台場というと東京のお台場公園が有名ですが、ここはペリーが来た際に幕府が砲台を作って首都防衛をしたところです。神奈川台場は、開港に伴って1860年に神奈川宿の海の先に作られました。この台場は開港場の防衛という役割もありますが、神奈川台場の場合は防衛よりも、外交をする施設の一つとして使われました。ここに限らず、大きな国際港には必ず台場が附属しています。領事・公使など外交に携わる人が新たに着任する際、または国交を持っている国の国王や大統領の誕生日にも祝砲を撃つなど、外交儀礼上の重要な施設なのです。この台場は幕府の命令を受け、四国・松山に城を持つ松山藩という藩が作りました。松山藩の農民が出した年貢でこの台場が作られ、出来上がったあとは松山藩の藩士が警備に当たりました。国際港を支える波止場と台場、いろいろな方がここにいたということを伝える史跡です。
ちなみに、残念ながら横浜には、幕末から明治初年のものはほとんど残っていません。わずかに残っていた建物も、関東大震災で全部崩れてしまいました。ただし、掘ってみると関東大震災前のものがでてくることがあります。
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| 4.集まる労働者 |
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幕末の番付『横浜の町人』
[横浜開港資料館所蔵]
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これは番付です。何の番付かといいますと、真ん中に『横浜の町人』と書いてあります。横浜の町人が行司を務めて番付を作りました。今では番付というと相撲番付が有名ですが、江戸時代から明治時代にかけて、見立て番付と呼ばれる相撲の番付に似せた、さまざまな番付が作られました。
右上を見ると『流行(はやり)の方』と書かれていますが、横浜の港が国際港になったあとに流行ったものが右側です。左側には変体仮名で『おあいだの方』と書かれていますが、おあいだというのは「暇になった」という意味です。つまり横浜の港が開いて流行った職業と暇になった職業とを書き上げた番付ということになります。
これを見ると横浜の町が出来上がったあと、運輸業者がたいへん流行ったということがまず分かります。先程いろいろな業者が横浜に入ったと言いましたが、まさにそれを示している番付です。
下の絵は「毛唐人」と書かれていますが、外国人の髪の毛を「げいこさん」が引っ張ってやっつけているようです。芸妓さんは日本舞踊をはじめいろいろな芸を持った女性達で、流行らなくなった職業ですが、外国人が日本の踊りなどを理解できずに流行らなくなってしまったのではないでしょうか。
この芸妓さんを同じく流行らなくなった「山の手の大屋さん」と、流行った方の「かるこさん(軽い荷物の運搬屋)」と「車屋さん」が止めています。当時の人が見ると、にやりと笑ってしまうような絵なのだと思います。
流行った方を紹介しますと、右から3番目に「人入にんそくやど」と書いてあります。人入れとは口入れ、つまり労働者の口入れ宿が流行っているということです。その左は「宿場のにんそく」。神奈川宿や横浜に向かう東海道の宿場の荷物運送業者が流行っていました。順に「しゃりき(車ひき)」「かるこ」「女郎屋」「日傭とり」「船頭(船乗り)」「乗り物屋」「馬方」「くもすけ(荷物運搬業者)」……こういった職業がここに挙がっています。
横浜の港が開くと貿易が開始され、ありとあらゆる物資が横浜に集まってきました。その結果、労働者が多く横浜に集まってくる事になったのです。
また、明治になってもおもしろい番付が作られました。『都市比べ』といって街を色々比べたもので、それを見ると横浜は、中心に大きく載っています。東京・横浜は明治時代以降もやはり大きな街として発展していったのが分かる番付です。
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| 5.居留地社会の様相 |
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ジャパン・パンチはイギリス・ロンドンに本社を持つロンドン・ニュースという新聞社の特派員であるワーグマンが1862年5月に創刊した漫画雑誌です。ワーグマンは日本の様子を絵にして、本国のロンドンにも送っていましたので、ロンドン・ニュースという新聞にもワーグマンが描いた絵を元にしたエッチングが載りました。ですからワーグマンは日本の情報を世界に知らせたジャーナリストの一人といえるでしょう。この雑誌には、横浜の居留地で暮らす人々の暮らしが漫画仕立てで描かれています。例えば、初めて肉屋を開いた外国人がいれば、豚を連れて歩く外国人の似顔絵を描いて『豚肉業を開いた○○さん』とキャプションを入れています。他にもテニスや野球は横浜が発祥の地になりますが、横浜の公園で行われた野球の試合等も描かれています。
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ワーグマン画、ジャパンパンチ
[横浜開港資料館所蔵]
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このように、外国人の庶民と言っていいと思いますが、その様子をワーグマンが漫画仕立てにして描いたことで、現在でも居留地の姿を非常に楽しくうかがうことができます。当時のロンドンは世界中の情報が集まるところでした。ロンドン・ニュースは世界中に特派員を送っていますから、ロンドン・ニュースを読むと19世紀に世界で何が起こっていたかを見ることができます。また、同じくイラスト入りの雑誌で、フランス・パリで発行された『ル・モンド』や『イラストラション』も、開港資料館で読むことができます。
国内最初の日刊紙は『横浜毎日新聞』で横浜において明治3年に刊行が始まりましたが、こちらも復刻版などを、ほとんどは開港資料館で見ることができます。新聞は読んだあとは捨ててしまい残らない場合もあるので、明治の3-6年の間は欠号があります。開港資料館は、今でもいろいろな新聞の調査を継続しており、私も全国各地の旧家へ調査に行きます。明治時代以来開けたことがないような蔵から、そのお宅で使っていた陶磁器や漆器類が新聞にくるまれて出てくるのですが、陶磁器自体は二束三文でも、包み紙の新聞が極めて貴重なものだったりします。
明治20年代に『横浜貿易新聞』という、横浜に本拠地を持つ新聞が発刊されますが、その創刊号が飛騨・高山の旧家から出てきたことがありました。高山は生糸の生産地で、横浜とは経済的な関係が非常に深いところでした。新聞は特に明治初期のものが見つかっていない場合が多いのですが、それらが見つかれば大きな話題になると思います。こうした新聞の3面記事を読むと、庶民の歴史が分かります。ゴシップ記事として読むのではなく、当時は何が好まれ、何が起きたか、庶民の動向を知る大きな手がかりになります。開港資料館には、普通の博物館と違い閲覧室がありますから、こういったものをじっくり見ることができます。
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| 6.古文書が語る幕末の横浜 |
最後に古文書を紹介します。
実は横浜市には、大きな貿易商であっても、古記録などは残っていません。先程もお話しした関東大震災で、中区の市街地がほとんど燃えてしまったためです。外国商館の建物も、古い写真や絵を見ますと石造りやレンガづくりで、一見頑丈そうに見えますが、木骨石貼り・木骨煉瓦貼りと呼ばれるもので、柱が全部木でできており、外からの火には強いのですが、地震があるとあっけなく崩れてしまいます。ですから、震災前の建物は横浜にはほとんど残っていません。
ただし、震災が起きた大正末年というのが、丁度耐震構造の建物が造られ始めた頃だったため、そのような建物だけは残りました。そのうちの一つが現在の神奈川県立歴史博物館で、昔は横浜正金銀行という外国為替中心の銀行でした。また、国の重要文化財になっている、現在の横浜市開港記念会館の「赤煉瓦の建物」と呼ばれている建物が横浜市中区に残っています。また、日本大通りという通りにある三井物産の倉庫は窓がなく、全て金属のドアになっていたため、中に火が入ることはありませんでした。三井物産は当時、ここに生糸を中に残していて、他の貿易商がほとんど壊滅的な被害を受けた中、奇跡的に震災直後に生糸を輸出した、という話を聞いたことがあります。
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磐城平藩の御用商人が記した文書 [横浜開港資料館所蔵]
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これは安政7年、開港の翌年、江戸の商人が奉行所に出した記録です。福島県・いわき市に城を持つ磐城平藩という藩があるのですが、この藩が横浜から領内の産物を輸出したいという願い書きを出した記録です。いわき市でも生糸がとれ、横浜市を通じて海外へ売りに出すことを、江戸の商人が願い出た記録になります。磐城平藩はこの頃老中を出しています。老中の名前は安藤信正、坂下門外の変で水戸浪士に襲われる藩です。
桜田門外の変の井伊直弼が有名ですが、この磐城平藩の安藤も江戸城に登城する途中、水戸浪士に襲われています。磐城平藩が何故襲われたかというのは、公武合体を推進したことが水戸浪士に嫌われた、と一般的には言われています。しかしこの古文書から、貿易に積極的な藩だったというのが分かります。当時水戸藩は攘夷派ですから、外国と取引など許されないと考えていたのではないか、もしかすると襲われた理由もそこに関係するのではないか、そういったことが読みとれる古記録です。元々は奉行所に出した控えなのか、江戸、磐城、あるいはまた別のところに残った記録かもしれませんが、このような古記録も開港資料館は大量に所蔵しています。今後いろいろな形で、明らかになることもあるでしょうし、またそうしたいと思っています。
私自身は古文書の担当ですから、研究もしていきたいですし、新しい発見があればまた皆さんにご報告できればと思います。
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雄松堂出版刊の関連文献
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復刻版 オンデマンド版
The Japan Punch 1862〜1887年
| 定価178,500円(本体170,000円+税5%) |
(文久2年5月〜明治20年3月)
「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の特派員画家として1861年に来日したチャールズ・ワーグマン(1832-1891年)は、東禅寺事件などの政治・歴史的事件のみならず、風俗や日常生活を25年間も報道し続け、高く評価されている。彼が創刊した本書は、ポンチ絵といわれる独特のタッチに諧謔と風刺を織り込み、幕末・明治の動乱期を活き活きと伝えている。
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東西交流叢書 第9巻
横浜ものがたり-アメリカ女性が見た大正期の日本-
セオダテ・ジョフリー 著、中西 道子 訳
A5判 上製 260pp. 1998年刊
ISBN 978-4-8419-0251-8 (4-8419-0251-1)
1918年、ドロシー(セオダテ・ジョフリーの本名)は横浜に降り立った。当時、横浜の外国人居留地は、ロシア革命の影響で人種のるつぼと化していた。彼女は、山の手の社交界のメンバーにしか知り得なかった居留地民の生態に鋭く迫り、社会情勢を交え、冷静かつユーモアのある筆で描き出している。また、彼女独特の視点による日本人達の観察も貴重なレポートとなっている。写真多数。
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新異国叢書 第II輯 第1巻
ペリー日本遠征日記
金井 圓 訳
菊判・上製函入 540pp. 1985年刊
ISBN 978-4-8419-0061-3 (4-8419-0061-6)
「公式記録」にはないペリー自身の新鮮な観察が、未発表資料の紹介とあいまって日本の夜明けをあざやかに浮かびあがらせている。 |
新異国叢書 第 I 輯 第8巻
ペリー日本遠征随行記
洞 富雄 訳
菊判 上製 函入 570pp. 1970年刊
ISBN 978-4-8419-1004-9 (4-8419-1004-2)
ペリー日本使節団の主席通訳をつとめたS.W.ウィリアムズの手による、ペリー艦隊の知られざるドキュメント。 |
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