Pinus_logo Pinus_logo Pinus_logo
雄松堂Net Pinus 77>雑誌『文芸界』との出会い

Net Pinus 77号
リレーエッセイ「探す・繰る・読む─雑誌の楽しさ」第4回
2009/12/30

雑誌『文芸界』との出会い

真銅正宏(しんどう まさひろ)
1962年生まれ。神戸大学文学部卒業。神戸大学文化学研究科博士課程単位取得満期退学。現在、同志社大学文学部教授。
【主な著書】
『言語都市・ロンドン―1861-1945』 (藤原書店、2009年)
『食通小説の記号学』(双文社出版、2007年)
『小説の方法―ポストモダン文学講義』(萌書房、2007年)
『永井荷風・音楽の流れる空間』(世界思想社、1997年)
画像はクリックすると大きくなります。
私が研究を始めた頃

院生時代
院生時代(1987年)の小葉
 1962年生まれの私が大学に入ったのは1981年、神戸大学大学院文学研究科(修士課程)に進んだのは1985年のことである。学部時代の1983年に越智治雄氏が亡くなり、修士課程在学中の1987年に前田愛氏も亡くなった。三好行雄先生には集中講義で教わったが、先生も1990年に亡くなった。要するに私は、日本近代文学研究の世界では、明らかに後れてきた世代であり、戦争はおろか、学生運動からも遠い世代で、さしたる問題意識も持たず、文学を研究すると言っても、どこから手をつけてよいものやら、実はさっぱりわからないままにこの世界に入ってしまった。
 一方、学会の雰囲気もまた、方法論の多様化が目立つ時代に入っていた。作品を論じるのには、作品を解読するだけではなく、もう一つ、何か別のものが要る、という時代であった。西洋批評理論が移入され、理論的な文学研究が目立ってきた。やがて、文化研究も登場した。一方で、書誌的研究もより丁寧に行われるようになっていた。
 しかしながら、未だ学会においては、研究対象の作家名を名刺代わりに交換する風潮があった。あるいは今もこれは続いているかもしれない。私は、卒業論文で「冷笑」論を、修士論文で「ぼくとうきたん」論を書いたので、「永井荷風を研究しています」と言ってはいたが、何か居心地の悪さを感じていた。永井荷風という作家を研究しているわけではない、という違和感があった。文学研究の方法論の模索の途上で、荷風の作品はあくまで、一つの代表的な素材に過ぎないと思っていたのである。しかし、それとは別の研究のスタイルが確立しているわけでもなく、試行錯誤は、1988年に大学院の文化学研究科(博士課程)に進んでも続いた。
野口武彦先生
我が新婚家庭に訪れて仕事をする野口武彦先生(1990年)
 恩師野口武彦先生には、六甲のキャンパスはもちろん、深夜の三宮でも「補講」を受け続けたが、研究のスタイルについてはまったく放任主義で、鋭い切り口があり、かつ資料の厳密な裏付けがあれば、どのようなスタイルでもよかった。ちなみに先生は、一晩にバーボンを何本も倒す一方で、書き損じの原稿用紙は捨てずに切り張りして再利用していた。経済的にはいかにも不釣合いな行動ではあるが、それが先生の文学研究の二面性を象徴するのかもしれない。
 さて、そのような時代に、私は偶然、三つの方向から、この『文芸界』という雑誌と出会った。それは、荷風の初出を確認する作業の中と、歌舞伎や文楽などの演劇と近代文学の関係を探る中、そしてやや後になるが、音曲研究の最中のことである。

荷風の初出雑誌

『文芸界』第1巻第9号
(1)『文芸界』第1巻第9号
(明治35年10月)表紙
 荷風の文壇デビューは、明治30年代前半である。処女作の確定は難しいが、小説では「三重襷」(明治32年5月)あたりとされる。これから、明治36年9月の外遊への出発の頃までが、初期とされる時代である。この時代の荷風は、文語体と口語体を併用しており、先行作品群の影響の著しい時代とも考えることができる。これら時代との関係を見るためには、荷風の初期作品を、いったん全集から切り離し、初出誌の中に置き直してみる必要がある。そこで私は、初期作品の掲載された初出雑誌をまず集め始めた。『萬朝報』の懸賞小説への応募、文学の師である廣津柳浪のおかげで実現した『文芸倶楽部』への作品掲載、当時の荷風は、その他にもさまざまな媒体へと作品をがむしゃらに発表している。その中に、この『文芸界』に発表した「新任知事」があった。
 この小説は、荷風が叔父をモデルとしたために、その激怒を買ったとされる小説で、『文芸界』第1巻第9号(明治35年10月)(1)の巻頭を飾った。荷風はすでにこの時、『文芸界』を発行していた金港堂から、単行本『地獄の花』(明治35年)を出版し、前期自然主義、またはゾライズムを移入する新進作家として世に知られ始めていた。
 「新任知事」が掲載された『文芸界』には、当時の文壇の風潮を知るために興味深い記事が二つ並んでいる。一つは、田岡嶺雲の「写実主義の根本的誤謬想」、もう一つは、佐々醒雪の「現実小説」である。前者は「評論」欄、後者は「時評」欄と、別の欄ではあるが、当時の写実主義と理想主義の関係について、具体的な作品に即して論じる点で共通する。これらの論とともに、荷風の「新任知事」と泉鏡花の「親子そば三人客」などが掲げられているのである。そこには、例えば荷風の作品史における「初期」作品の意味合いとは別に、ゾライズムなどを前にした当時の文学界における荷風作品の同時代性が、強く伝わってくるのである。

歌舞伎との近接性

故市川団十郎とお名残狂言春日局の写真
(2)『文芸界』第2巻第4号
(明治36年10月)
故市川団十郎とお名残狂言春日局の写真
 『文芸界』は、明治35年3月から明治39年12月までの間に、58冊が出された。この五年間は、日露戦争を含むのみならず、文芸関連でも、実にさまざまなことが起こった時代であった。このことは、『文芸界』の誌面にも当然ながら影響を及ぼしている。
 永井荷風が、20歳の頃、一時、狂言作者を目指し、歌舞伎座の福地桜痴に弟子入りし、拍子木の打ち方から修行したことはよく知られている。このことは、ただ荷風の個人的な志向を示すのみならず、当時の文芸と歌舞伎との近接性を示しているものと考えられる。芝居は、小説家にとっても、材料の源泉であったし、創作の方法論のモデルでもあった。荷風の小説にも、歌舞伎からの要素が多く溶け込んでいる。
 そのために、私は、まずとにかく歌舞伎をたくさん見ようと思った。東京と比べ、関西は上演の機会が少ないので、文楽をも見続けた。
 明治の名優である九代目市川団十郎が亡くなったのは、明治36年9月13日のことであった。これに先立つ明治36年2月18日、つまり奇しくも同じ年、九代目とともに明治の歌舞伎界を支えた五代目尾上菊五郎が亡くなっている。さらに、この二人とともに「団菊左」と並び称された初代市川左団次もまた、翌明治37年8月7日に亡くなった。これは当時の歌舞伎界にとって、大打撃であったことは疑いない。実は、第1巻第1号(明治35年3月)には、この団菊左の写真が揃って掲げられていたのである。
 『文芸界』の第1巻第14号(明治36年3月)には、故尾上菊五郎の写真が掲げられている。また、「談叢」欄には、岡鬼太郎の「芸人月旦 尾上菊五郎」も見られる。さらに、次の第1巻第15号(明治36年4月)には、皚々子の「故菊五郎の弁天小僧」が、「演芸」欄に寄せられている。
 同様に、『文芸界』第2巻第4号(明治36年10月)(2)には、故市川団十郎の「お名残狂言春日局」の写真が掲げられ、桂翁による「九世三升」が「演芸」欄に寄せられている。第2巻第5号(明治36年11月)には、角井厚吉筆の故市川団十郎肖像も口絵として掲げられた。第3巻第10号(明治37年9月)には、今度は左団次の死をうけて、丁々生の「嗚呼左団次」という文章が、「演芸」欄に掲げられた。
 歌舞伎関係の雑誌だけでなく、このような文芸雑誌にも、「演芸」欄が設けられ、当時の梨園の様子を伝えてくれている。これは『文芸倶楽部』や『新小説』にも共通する。むしろ我々は、現在の芸術分野がいかに細分化されてしまったかという事実を考え直すべきなのかもしれない。

音曲記事と文芸雑誌

 1992年に徳島大学総合科学部に就職した頃から、私は、文学作品の中の音楽的な要素、とりわけ、江戸音曲に興味を持ち始め、あらゆる雑誌に掲載された音楽および音曲の記事を片端から集め始めた。『文芸界』の名は、この際にもしばしば目に入った。
 この頃、私は、暇さえあれば、雑誌目次総覧の類の頁を繰っていた。いくつかの鍵語を決めて、その記事一覧を作り、記事を実際に集め、そこから改めて論点を導き出すというような、通常とは逆の研究方法を試みるようになっていた。音楽という鍵語はその一例であった。この作業は、実に楽しいもので、これまでとは全く違う世界が、雑誌記事を通覧すると見えてくる。これが、私がたどり着いた一つの研究スタイルであった。作業自体は、何のことは無い、これまでも多くの研究者が地道に行ってきたことであった。ただ作業開始時点で論点が未決定である、ということだけが、私の方法の特徴といえば特徴である。

目次「近代文学」「談叢」の欄2 目次「近代文学」「談叢」の欄

『文芸界』第1巻第2号(明治35年4月)目次「近代文学」「談叢」の欄

消息を知ることの楽しみ

紅葉山人の墓
(3)『文芸界』第2巻第7号(明治36年12月)
紅葉山人の墓
 『文芸界』の時代には、文学界もまた、重要な二人の人物を失っている。正岡子規と尾崎紅葉である。子規は明治35年9月19日、紅葉は明治36年10月30日に亡くなったが、子規の死は、「新任知事」の載った『文芸界』第1巻第9号(明治35年10月)の「時報」欄にやや詳しく報じられ、紅葉については、第2巻第7号(明治36年12月)(3)に、その墓が写真で掲げられた。思えば荷風は、この二人とはほぼ入れ替わりに登場してきたということになる。こんなことも、荷風作品を全集で読んでいる場合には、あまり意識しないであろう。
 この他、雑誌を見ていて、気づかされることはたくさんある。雑誌は、文学研究にとって、いわば宝の山である。やがて、さまざまな雑誌が復刻され、あるものは電子化されて、手軽に見ることができるようになった。便利になった反面、宝の山に独り向かう楽しみが減ったことは寂しい。本音を言えば、学生たちと出版社の方々には申し訳ないが、実はあまり便利になりすぎて欲しくないのである。

精選近代文芸雑誌集
雑誌「文芸界」の詳細カタログはこちら[WORD:164k]から
関連資料
「改造」直筆原稿 画像データベース
77号 2009/12/30
 [目次に戻る]  

Net Pinus