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雄松堂Net Pinus 78>「南紀芸術」―昭和初期、和歌山からの発信 

Net Pinus 78号
リレーエッセイ「探す・繰る・読む─雑誌の楽しさ」第6回
2010/04/01

「南紀芸術」―昭和初期、和歌山からの発信 

辻本雄一(つじもと ゆういち)
1945年新宮市の生まれ。早稲田大学文学部卒業。新宮市の佐藤春夫記念館の開館に伴い、理事として展示など企画。2007年より館長。中上健次が新宮で主宰した、「熊野大学」に準備段階から関与。「特集中上健次」(1994年「熊野誌」)や「新編図録佐藤春夫」(2008年)などを編著。「日本文学」「社会文学」「解釈と鑑賞」などに、論文を発表。「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」顧問。
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「南紀」という呼称

 紀伊半島の北部を流れる紀ノ川は、和歌山市を河口とし、南部を流れる熊野川は新宮市を河口とする。紀伊半島の西側から東側の新宮までがちょうど和歌山県に属する。熊野川の河口は対岸が三重県で、珍しく川が県境を成している。「南紀」という呼称は、もともとは徳川御三家の紀伊半島領内の「南海道紀伊」と言う意味の行政地名であったようだが、いつの頃からか半島の南側という地勢の「南紀州」の意に縮小していった経緯があり、「熊野」という名づけが多様で幅の広さを感じさせるのと比べて、いまでは多分に観光的な色彩が濃くなっている。だから、和歌山市で刊行されたこの雑誌が「南紀」の呼称を付されたことに、いまでは異和を覚えるかもしれない。しかし、紀州徳川家14代藩主徳川茂承(もちつぐ)の命によって開始され、1901年に完成した紀州藩の厖大な歴史書が「南紀徳川史」と題されていたことなどを考え合わせれば、昭和初期の発刊当時としてはさほど抵抗がなかったのかもしれない。

「南紀芸術」復刊第一号

雑誌「南紀芸術」は廃刊から半世紀後に復刊された歴史を持つ(1983年3月)。現在、天満天神の落語寄席「繁昌亭」の支配人をしている恩田雅和が中心になって、文学、美術、考古学、民俗学などの同世代数人が集まっての小ぢんまりとした会が和歌山市で持たれていた。五年間ほど続いたろうか、わたくしが一番遠方から駆けつけていた。熊野の片田舎で研究生活とは程遠い鬱々たる生活を続けていた30代のわたくしには、一服の清涼剤であったように思う。いつの頃からか「同時代の会」と名づけていた。せっかくだから研究発表の成果を1冊にまとめようという話が出て、自然に「南紀芸術」の衣鉢を継ぎたいということになり、同題を受け継いで変形の同人雑誌の態で出した。第1号の表紙の体裁をそのまま借用し、装幀をした保田龍門の遺族の了解を得て、「復刊第1号」と銘打った。経済的には、とても半世紀前の紙質を真似ようもなかったが、志は負けまいとして意気込んだ。「『南紀芸術』細目」(「皇學館論叢」1984年10月)を作った半田美永も一緒であった。作家として名を成していた中上健次に原稿を頼もうなどと話しあっていたが、惜しくも1号のみに留まった。残念ながら、半世紀前の編輯者猪場毅(いばたけし)の心意気には到底及ばなかったということであったろうか。

総合雑誌の風格

1931(昭和6)年和歌山市から発信した「南紀芸術」は、編輯者の猪場毅が「加藤一夫氏の農村的、郷土的芸術の提唱には、ぼくも亦熱心な主張者の一人として賛成である」(同誌第2号には、加藤一夫の「農村的、郷土的芸術・文化を語る」が載って、それを受けた「あとがき」)と述べていて、当時の郷土芸術運動にも通底する部分もあり、土着の鄙ぶりが露見している誌面だろうと思いきや、なかなかどうして、都会的な瀟洒な本作りである。加藤にとっては、それが都市的、中央集権的と映った部分があって、やや不満なようだが、猪場は、佐藤春夫が同じとき東京で編集していた「古東多万」を強く意識して、競い合うように誌面づくりに励んだのではないかと思われる。表紙、本文の和紙の体裁など酷似している。春夫も後援を惜しまず、1号巻頭に「浜木綿」の文を記し、3号の扉字を記し、6号の扉絵、9号には理想郷としての「湯川温泉」の文を掲げている。父豊太郎も表紙題字や裏印、小文も発表している。

「南紀芸術」創刊号
(昭和6年9月・表紙保田龍門)
「南紀芸術」第9号
(昭和8年10月・表紙鍋井克之・題字佐藤豊太郎)

2号の巻頭は谷崎潤一郎の「學海上人天狗になる事」であるが、佐藤春夫の「故園晩秋の歌」も載っている。一面広告「佐藤春夫編輯・月刊雑志(ママ)古東多万」も出ていて、「ことたま」とルビが付されている。さらに、春夫の編輯者のことばも刷られて、「予はこの好機を以て刻下のジヤアナリズム以外に清新にして多趣多益なる定期刊行物を得たしとの素志を実現せんとす。前人の未だ企てざりし境地を望みて創造的興味をもつて編輯を楽しみつつあり」と述べている。「南紀芸術」も同様に、和歌山県内外の文学、歴史、民俗、絵画など豊富な執筆陣で、総合雑誌の風格を漂わせている。第3号で、喜多村進が「ビアズレイに就て」で書いているように、オスカーワイルドの「サロメ」の挿絵で名を成したビアズリーが係わった「イエローブック」などへの眼配りも十分に行き届いた形で、文学美術の両界を見据え、芸術の世界的な同時性とも向き合おうとしていたことが分る。

「南紀芸術」第3号(昭和7年1月)
所載のビアズリーの「ピエロの死」

佐藤春夫の試み

「黄色い世紀末」としてデカダンな雰囲気で話題となった、イギリスの季刊文芸、美術雑誌「イエローブック」への関心は、佐藤春夫や芥川龍之介などにも共通するものであったが、春夫は1926(大正15)年9月頃「禿筆(とくひつ)倶楽部」という純文学雑誌を発行する算段をするがうまくいかなかった。大正末から昭和初期にかけての文学界は、商業化、大衆化の荒波をまともに受けていて、円本ブームが一世を風靡していた。芸術性が危機にさらされていると感じた春夫は、文学雑誌や独自な本作りに果敢に取り組んでいる。「古東多万」は、「南紀芸術」よりも早く、僅か3年に満たない形で終刊し、挫折の形で終わっているが、そこから、高橋新吉の小説、魯迅の翻訳、芥川の遺作詩などが紹介されたことは、特筆に価すると言えよう。春夫はこの頃、1930(昭和5)年の神代種亮(こうじろたねあき)校訂の稀覯本『瀟々(しょうじょう)集』、1932(昭和7)年の『詩集 魔女』、翌年の自筆木版刷『絵入みよ子』など、装幀に工夫を凝らした独特な本作りも試みていた。

各界から好評

「南紀芸術」第9号の谷崎潤一郎の扉字
「南紀芸術」は猪場から各界に送付されたとみえ、その評が9号(1933年10月)、10号の巻末に付されている。そこには、「郷土の匂ひ高き雅趣」(堀口大学)、「高雅にして清趣ある雑誌」(徳富蘇峰)、「紀州の紙を、それもたゞ『国のもの』と言ふだけの理由でなく『美しさ』といふことを念頭においてお用ゐになり印刷のはしばしにまでよく注意がゆきとゞいてゐるのは感心いたしました。私が今までに見た雑誌の中で最も感心したものゝ一つです。書物に対する眼識さへあれば、どんな辺鄙な土地のどんな小さな印刷機からでも、美しい本が生れることをつくづくと思ひます」(寿岳文章)、「地方雑誌とも思はれぬ立派な印刷装幀に大いに驚嘆いたしましたが、内容も堂々たる顔ぶれなのに驚きを新に致しました」(矢野峰人)などとある。与謝野晶子は「雅趣ありて高踏的ならず、学術的にして専門臭なきを喜び申し候」とあって、10号(1934年1月)の扉には、「たそがれにのみ香を立てぬ白蝋の雫ばかりの早春の梅」という自筆の和歌が刷られている。しかし、この号が「南紀芸術」の最後になった。8号まで隔月で刊行されていたのが、ほぼ1年あきで9号が刊行され、3ケ月あいて10号が刊行されていて、何の予告もないままに自然消滅の形になっている。9号からは、表紙に「紀伊国山路産」(日高郡上山路村・現田辺市)の和紙、本文にも「紀伊国藤井産」(日高郡藤田村・現御坊市)が使用され、鍋井克之装幀という凝りようを発揮しているが、猪場の意欲と反作用するように経済的な負担が増大し、却って消滅を早めた気配すらある。

編輯人猪場毅のこと

「南紀芸術」の編輯兼発行人であった猪場毅は、東京の日本橋で篆刻家を父に生まれている。雑誌編集や俳人として活躍し、俳号は伊庭心猿(いばしんえん)を名のった。関東大震災後各地を遍歴し、1928(昭和3)年頃和歌山市に住みついたようだ。この地に「南紀芸術社」を起こし、1931(昭和6)年9月から1934(昭和9)年1月まで雑誌「南紀芸術」を10号まで刊行した。加納諸平(かのうもろへい)の歌集『柿園詠草』なども出版している。1934年東京に戻り、「南紀芸術」を通して知遇を得た永井荷風の下に出入りし始め、編集の仕事などに精を出してゆく。荷風が「南紀芸術」の寄贈を受けたのが1933(昭和8)年10月の9号であろう。礼状を送ったのが縁で荷風は猪場と交を結び、荷風からは相当な信頼を受けるまでになっていた。ところが、荷風の原稿などを偽筆したとして、1940(昭和15)年荷風から絶交を言い渡されている。荷風の小説『来訪者』にはその辺の経緯が述べられている。秋庭太郎は『荷風外伝』のなかで、「その十月、荷風は昭和九年初夏ごろから交を訂し来つた猪場毅、翌十年春ごろから親しく交際して荷風日記の副本をつくらしめてゐたほど信用してゐた平井呈一の両人が荷風偽筆をつくり売捌いてゐることを知つた。偽筆は平井が、偽印は篆刻を巧みにした猪場がつくつたといふ。荷風は真偽のほどを平井に問ひたゞした結果、その事実を知つたが、荷風としてはさまでその所業に悪感情を抱かず荒だてゝ咎立てしなかつた。一応叱りおく程度であつたらしく、それはその後における荷風の両者に対する厚誼のさまをみても実証し得る。それは何故か。即ち荷風は自己の揮毫した色紙、短冊、半切から既発表の古原稿等が読者から珍重されてゐることを知つて、ひそかに満足してゐたからである」と述べている。猪場は、戦後すぐ「広辞苑」の辞書編集部に在籍しているが、編者の新村出は、「南紀芸術」10号に「南海風景」を寄稿していた。
猪場の荷風について触れた文に、『』(1957年)に収められた「荷風翁の発句」(1953年10月筆)などがある。

猪場毅(写真右)と平井呈一
(秋庭太郎著『荷風外伝』所収)
父豊太郎が晩年住んだ、
春夫の実家「懸泉堂」の現在

「南紀芸術」の挫折

美術や民俗学なども動員して総合芸術を目指す雑誌として出発した「南紀芸術」であるが、次第に、作者が郷土的な者に限定されてゆく傾向を生じたのは、郷土芸術として位置づけた当初からの目論見通りであったのかどうか。創刊2年目の第1冊に当たる第7号(1932年9月)では、「詩と創作号」と銘打ち、喜多村進や城夏子の短編と、「詩は、すべて紀伊在住の新人から集めた」(あとがき)という体裁をとり、猪場自身わざわざ紀南旅行を試みてその発掘に努めたようである。その過程で出合ったのが、万葉以来の故地玉ノ浦海岸と、春夫の実家下里(しもさと:現那智勝浦町)の「懸泉堂(けんせんどう)」の保存運動である。
1932(昭和7)年になって、紀勢鉄道が、これらを破壊して施工されるとのことから反対運動がおこり、猪場も全面的に支援して、各界に呼びかけの文書を送っている。春夫の父豊太郎や弟夏樹との交信の手紙も残されている。
しかしながら、この運動も功を奏することはなく、懸泉堂は鉄道と国道とによって寸断され、「南紀芸術」もまた、廃刊に追い込まれて、猪場は和歌山を去ってゆく。
いまでも、昭和初期の面影をわずかに残している懸泉堂の庭に立つと、春夫が幾つかの作品で記したように、建物を揺らすばかり、庭を横切るように電車が轟音を立てて、緩やかなカーブを描きながら眼の前を通過してゆく。春夫がかつて、当時は汽車であったろうが、煙を吐く汽車に向かって、バカヤローと罵声を浴びせかけたという庭である。

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