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雄松堂Net Pinus 80>リレーエッセイ『歌舞伎』

Net Pinus 80号
リレーエッセイ「探す・繰る・読む─雑誌の楽しさ」第8回
2010/09/01

『歌舞伎』

河竹登志夫(かわたけ としお)
1924年東京生まれ。早稲田大学名誉教授。
現在、財団法人 都民劇場理事長。
シェイクスピアの移入史をはじめとする、比較演劇研究の第一人者。
著書に『続々比較演劇学』(南窓社、2005年)、『背中の背中』(小学館スクウェア、2007年)他多数。
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 日本演劇の大変革期に登場した「歌舞伎」

  演劇雑誌「歌舞伎」は、明治33(1900)年1月から大正4(1915)年1月まで、16年間続刊された。その以前には、江戸いらいの「歌舞伎評判記」と明治12年発刊の「歌舞伎新報」があり、40年にはいまの「演劇界」の前身の「演芸画報」が出る。「歌舞伎」はつまり、年代的には「歌舞伎新報」と「演芸画報」をつなぐ地位にある。
 だが「歌舞伎」の最大の特徴であり別趣の価値もあるのは、旧来の好事家や劇通による趣味的な雑誌の域を脱し、近代知性に照らして高度な“研究”と“鑑賞”の読みものとしたことだろう。
 編集主幹の三木竹二は、兄森と同じく医師。「歌舞伎」には彼の科学者としての目が光っている。その水準の高さは、逍遙、をはじめ、明治第一級の文化人がならぶ執筆陣を見ただけでもわかる。
 もうひとつは、この雑誌が歌舞伎だけではなく、新派、新劇、西洋演劇まで取りあげていることだ。発刊した明治33年は、新派の川上音二郎・貞奴夫妻の一行がアメリカを経て渡欧し、パリの万博に出演して「マダム貞奴」の名を世界にとどろかせた年である。
 5年前の日清戦争の勝利で日本の国際的地位は上がり、東西文化の交流も活発化した。演劇の世界にも伝統の歌舞伎と新派が並立し、シェークスピアをはじめとする西洋演劇の翻案や翻訳がさかんになる。そしてまもなく西洋近代劇直輸入のいわゆる新劇運動がおこる――という、まさに日本演劇近代化の一大変革期だった。
 「歌舞伎」が、むろん古典歌舞伎が大半を占めるとはいえ、ひろく新派、新劇にまで及ぶのは、こうした潮流の反映でもあったのだ。

「歌舞伎」からの恩恵

私がこの雑誌に初めて出会ったのは、昭和39(1964)年だが、古典歌舞伎についてではなく、川上一座による翻案劇「ハムレット」(ハムレットは明治の公爵令息葉村年丸となっている)の劇評についてであった。その年は東京オリンピックもあったが、シェークスピア生誕400年でもあった。で、雑誌「新劇」からの依頼がきっかけで、かねて比較演劇学の立場から重要と思っていたシェークスピア、とくに「ハムレット」の、歌舞伎と新派への移入史の研究にのめりこんだ。
 この研究は3年後『比較演劇学』(南窓社)の主要部分として発表され、後に横尾忠則さんの装幀による単行本『日本のハムレット』(同社)(1)にもなり、これで学位を受けることにもなる。内容を詳しくは述べないが、この研究に決定的なヒントとなったのは、「歌舞伎」第43号(明治36年12月)(2)に、芹影女(岡田八千代。小山内薫の妹)が寄せた劇評「本郷座のハムレット」(3)の一節だったのである。

『日本のハムレット』 『日本のハムレット』2

(1)『日本のハムレット』(昭和47年) 函[左] 表紙[右]

(2)第43号(明治36年12月) (3)「本郷座のハムレット」

(2)第43号表紙(明治36年12月)

(3)「本郷座のハムレット」(第43号より)

 ほかにも、「歌舞伎」からは実に多くの恩恵を受けた。が、それどころか、この雑誌には、曽祖父の歌舞伎作者河竹黙阿弥とその娘の糸女、逍遙の推挽によってその養子になった私の父繁俊が、頻々と登場していたのだ。
 黙阿弥は明治26年に没したから、自身で書いた記事があるはずがないが、その作品については枚挙にいとまがない。しかも本誌の最終175号(4)がなんと「黙阿弥」の巻なのだ。そこには晩年親交のあった逍遙の「故黙阿弥老人と私」をはじめ、糸女の「亡父のはなし」や高弟竹柴其水の「(箱根)七湯めぐりの記」、友人縁者や俳優、門弟作者の「追憶談」などが満載されている。
 その主なものは後に亡父著の詳伝『河竹黙阿弥』に再録されたが、其水の「七湯めぐり」などは黙阿弥と糸女との肉親愛が、会話を交えて活き活きと描かれ、非常に面白くまた重要な一文なのに、どこにも再録がない。余りに惜しいので、拙著『黙阿弥』(平成5年・文藝春秋)に「歌舞伎」から抄録したほどだ。
 第29号(明治35年10月)(5)の逍遙(本名の雄蔵で執筆)の「脚本鑑定書」も貴重。黙阿弥没後に起こった深川座の「弁天小僧」無断上演事件が、遺子糸女の告訴により大審院(いまの最高裁)までいく大裁判になった。このとき逍遙が書いた精細な鑑定書により、黙阿弥作と確定されて糸女の勝訴に終る。その鑑定は10年前に制定された著作権法の、演劇脚本における実施例としても、画期的だった。この全文も、いまは「歌舞伎」でしか読めない。

(4) 第29号(明治35年10月)
(4) 第29号(明治35年10月)

(4) 第175号表紙(大正4年1月)
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館所蔵

(5) 第29号表紙(明治35年10月)

 まだある。父の「黙阿弥著作解題」(6)の連載だ。信州飯田生まれの父が19歳で上京。早大に入って逍遙の門下となり、同郷の松井須磨子らと同期で文芸協会附属演劇研究所に入ったのが明治42年。44年には逍遙の推挙で河竹家の養嗣子となる。一介の田舎書生が環境の激変に耐えて最初に着手したのが、この「著作解題」だった。45年3月号から大正3年11月号まで31回。これが後の黙阿弥伝から黙阿弥全集刊行へとつながる、養嗣子としての責務遂行の第一歩だったのだ。

(5)「黙阿弥著作解題」

(6)「黙阿弥著作解題」(大正1年11月、第149号より)

 私事にからむことばかり記してきたが、前にもいうように、執筆者は学者、評論家、作者、俳優、舞台美術家・・・・・・と多彩。研究、劇評、随筆から雑報まで何でもありで、自由で伸び伸びした空気が満ちている。“冥界通信”として、物故した演劇人に電話で四方山話をきく形で書かれた「無線電話」も、軽妙洒脱で内容も濃く、読み出したらやめられない。因みに筆者室田武里(知った振り)は、明治大正の大興行師で、名著『続々歌舞伎年代記』を残した田村成義である。

縁のあること四代におよび・・・

(5)「黙阿弥著作解題」

復刻版「歌舞伎」

 演劇を通じての日本近代化の証言ともいうべきこの「歌舞伎」が、マイクロフィッシュ版に加えて、「複刻版」として去年の2月から刊行されはじめた。この雄大な仕事が現代、未来に果たす使命は大きい。続刊、完結を心から期待しよう。
 なお、「歌舞伎」というタイトルの雑誌は、時を隔ててその後2回発行されている。第2次は大正14年5月から昭和5年6月まであったが、歌舞伎座の宣伝誌で全く異質。第3次のそれは季刊で、昭和43(1968)年3月から53年4月まで全40巻。松竹演劇部の発行で、当初から10年で完結という企画だった。これは松竹の永山武臣会長が、明治大正の第1次「歌舞伎」を範として、現代における歌舞伎の研究と鑑賞をめざして発案したのだった。
 編集長は劇作家でかつて「演劇界」の名編集者だった野口達二。早大の同級生だった彼の命ずるまま、各巻の基調論文を担当、随筆小文も併せて全巻に寄稿したのは私だけだろう。これまた私事にわたって恐縮だが、その論考は後に『河竹登志夫歌舞伎論集』(平成12年演劇出版社)となり、はからずも恩賜賞・日本芸術院賞を受ける――。それも元は第1次「歌舞伎」があったからこそといえるわけで、それこれ、「歌舞伎」は父祖いらい浅からぬ縁で結ばれた雑誌だったのである。

精選近代文芸雑誌集
雑誌「歌舞伎」(精選近代文芸雑誌集:マイクロフィッシュ版)の詳細カタログはこちら[WORD: 276k]から

複刻版 歌舞伎文学者の手になる最初の演劇雑誌──明治から大正期の演劇史を語る貴重な記録
「歌舞伎」第1〜175号(発行:歌舞伎発行所/明治33年1月〜大正4年1月)を全50冊に合本。7回にわたり配本。

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