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私がこの雑誌に初めて出会ったのは、昭和39(1964)年だが、古典歌舞伎についてではなく、川上一座による翻案劇「ハムレット」(ハムレットは明治の公爵令息葉村年丸となっている)の劇評についてであった。その年は東京オリンピックもあったが、シェークスピア生誕400年でもあった。で、雑誌「新劇」からの依頼がきっかけで、かねて比較演劇学の立場から重要と思っていたシェークスピア、とくに「ハムレット」の、歌舞伎と新派への移入史の研究にのめりこんだ。
この研究は3年後『比較演劇学』(南窓社)の主要部分として発表され、後に横尾忠則さんの装幀による単行本『日本のハムレット』(同社)(1)にもなり、これで学位を受けることにもなる。内容を詳しくは述べないが、この研究に決定的なヒントとなったのは、「歌舞伎」第43号(明治36年12月)(2)に、芹影女(岡田八千代。小山内薫の妹)が寄せた劇評「本郷座のハムレット」(3)の一節だったのである。
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(1)『日本のハムレット』(昭和47年) 函[左] 表紙[右]
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(2)第43号表紙(明治36年12月)
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(3)「本郷座のハムレット」(第43号より)
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ほかにも、「歌舞伎」からは実に多くの恩恵を受けた。が、それどころか、この雑誌には、曽祖父の歌舞伎作者河竹黙阿弥とその娘の糸女、逍遙の推挽によってその養子になった私の父繁俊が、頻々と登場していたのだ。
黙阿弥は明治26年に没したから、自身で書いた記事があるはずがないが、その作品については枚挙にいとまがない。しかも本誌の最終175号(4)がなんと「黙阿弥」の巻なのだ。そこには晩年親交のあった逍遙の「故黙阿弥老人と私」をはじめ、糸女の「亡父のはなし」や高弟竹柴其水の「(箱根)七湯めぐりの記」、友人縁者や俳優、門弟作者の「追憶談」などが満載されている。
その主なものは後に亡父著の詳伝『河竹黙阿弥』に再録されたが、其水の「七湯めぐり」などは黙阿弥と糸女との肉親愛が、会話を交えて活き活きと描かれ、非常に面白くまた重要な一文なのに、どこにも再録がない。余りに惜しいので、拙著『黙阿弥』(平成5年・文藝春秋)に「歌舞伎」から抄録したほどだ。
第29号(明治35年10月)(5)の逍遙(本名の雄蔵で執筆)の「脚本鑑定書」も貴重。黙阿弥没後に起こった深川座の「弁天小僧」無断上演事件が、遺子糸女の告訴により大審院(いまの最高裁)までいく大裁判になった。このとき逍遙が書いた精細な鑑定書により、黙阿弥作と確定されて糸女の勝訴に終る。その鑑定は10年前に制定された著作権法の、演劇脚本における実施例としても、画期的だった。この全文も、いまは「歌舞伎」でしか読めない。
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(4) 第175号表紙(大正4年1月)
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館所蔵
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(5) 第29号表紙(明治35年10月)
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まだある。父の「黙阿弥著作解題」(6)の連載だ。信州飯田生まれの父が19歳で上京。早大に入って逍遙の門下となり、同郷の松井須磨子らと同期で文芸協会附属演劇研究所に入ったのが明治42年。44年には逍遙の推挙で河竹家の養嗣子となる。一介の田舎書生が環境の激変に耐えて最初に着手したのが、この「著作解題」だった。45年3月号から大正3年11月号まで31回。これが後の黙阿弥伝から黙阿弥全集刊行へとつながる、養嗣子としての責務遂行の第一歩だったのだ。
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