W.G.アストン −日本と朝鮮を結ぶ学者外交官−(楠家重敏 著)書評

本書は、日本に惹き付けられ、日本を愛したイギリスの外交官ウィリアム・ジョージ・アストン(1841-1911)の伝記研究であり、序章、全19章、総括と展望から成っている。 明治時代のイギリスの日本学者と言えば、誰の頭にも、サトウとチェンバレンとアストンの名前が浮かんでくるであろう。サトウの研究にはイギリス国立公文書館の「サトウ文書」、チェンバレン研究には愛知教育大学の「チェンバレン・杉浦文庫」という拠点があり、現在、二人の伝記研究は十分に進められていると言えよう。一方、アストン研究には、日記とか書簡といった資料がないために、これまで本格的な伝記研究が行われていなかった。しかし、本書において、楠家重敏氏は、イギリス外務省文書と『W・G・アストン全集』(全6巻)を基礎資料として、アストンの日本研究や朝鮮研究を着実に積み重ね、特に第2巻『日本語口語文典』と『日本語文語文典』を熟読含味し、学者外交官としてのアストンの実像を浮き彫りにすることに成功している。また、林望、コーニッキー共編『ケンブリッジ大学所蔵古書総目録』やコ一夕ッツィ、ゴードン・ダニエル共編 Britain and Japan: Themes and Personalities(大山端代氏による日本語版『英国と日本−架橋の人びと)』などを渉猟し、アストンが名声よりも学問研究を重視する外交官だったことを実証的に論述している。 アストンは、来日後、日本語の口語も文語も十分に駆使できる外交官として、上司パークス公使から高い評価を受けており、1872(明治5)年、岩倉使節団がイギリス入りをした時に、その通訳官に起用されている。この時の日英会議は、岩倉具視大使、寺島宗則駐英日本公使、グランヴィル外務大臣らが出席して行われたが、その際にアストンが通訳者としていかに会議を円滑に進行させたかという経緯を、著者は多くの資料を用いて、第6章、第7草で細密に論証し、学者外交官アストンの力量を見事に解明してみせる。 母国イギリスでのアストンの動静に関心を寄せていた著者は、ロンドンで発行されているThe Phoenix誌の第20号(1872年2月)に、アストンが日本の諺を四十文英訳して紹介していることに目を留める。そして、西洋古典に明るいマーセルが、その中の一つ「井の中の蛙、大海を知らず」は、長い鎖国政策をとっていた日本の諺としては奇妙だ、と指摘している点に着目し、異文化間の相互理解の必要性を実感する。このように著者は、アストンの多岐にわたる日本研究を東西比較文化の視座から精査する。この点が本書の特徴だと言えよう。 アストンは日本語通訳官の経験を生かして、『日本語口語文典』を刊行しており、著者はフェリス女学院の創立者キダーも彼の本で日本語を学んだと述べ、この本が在日外国人の啓蒙書として価値があったと強調する。その上、その後の著作『日本語文語文典』の第10章と付録は、当時としては瞠目すべき業績だと述べる。 アストンは第10章で、短歌(和歌)、連歌、狂歌、旋頭歌、発句(俳句)、催馬楽、神楽、謡、対句、枕辞(枕詞)など、付録では『古事記』の和歌、『万葉集』の長歌、『竹取物語』などを英訳し、西欧に紹介している。これらのことをひとりの外交官が成し得たということは驚嘆に価することであり、画期的な業績である。著者はこの業績がアストンの日本詩歌論の端緒となっていると評価しているが、まさに卓見である。 第14章と第16章では、アストンの朝鮮研究、第17章では初代朝鮮臨時総領事としてのアストンの活躍ぶり、などを考察しており、学者としてのアストン研究に力点をおいていることが分かる。 今後は後期の作品『英訳日本紀』、『英文日本文学史』、『神道』を研究し、アストンの日本研究の全体像を明らかにすることを念願する。最後に、評者としてお願いしたいことがある。次回、アストンの伝記研究を上梓するに際し、読者の便宜を考えて、年譜を付記していただければありがたい。 |
| 秋山正幸氏 日本大学名誉教授 |
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