市川森一氏書評「英学と堀達之助」 「図書新聞」6月30日号より転載

歴史の海流の中で未知の人物に遭遇した場合、私のような浅学の徒は、己が多少とも馴染んでいる時代を座標軸にして、そこから何年前後の人か、といった認識法で人物像を手繰り寄せる。
 通詞・堀達之助に関しては、「英語」との関連から「フェートン号事件」を起点にしてみた。
 文化5年(1808年)、イギリス船フェートン号がオランダ船に偽装して長崎湾内に侵入、オランダ商館員を人質にして、薪水、食料を強要し、3日後に退去するという事件である。異国船を撃ち払うことができなかった長崎奉行の松平康英は切腹する。事件以後幕府は海防の強化と平行して、英語の習熟に力を注ぐことになる。長崎のオランダ通詞たちは、ここにおいて初めて公に英語を学び始める。その成果は6年後に完成する日本最初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」として結実するが、この辞典の編纂者のひとりである楢林栄左衛門が、堀達之助の義理の祖父にあたる。
 記念すべき英和辞典誕生から9年を経た文政6年には、フォン・シーボルトが来日し、この年に、達之助は大通詞・中山作三郎の五男として生を得る。のちに堀家の養子となるが、養父の堀儀左衛門は安政11年シーボルト事件に連座し入牢させられている。達之助が5歳の時だった。
 開国の動乱期を、英語という当時としては最新鋭の情報通信能力を武器に生き抜いた男の栄光と悲劇。ドラマ屋という職業柄、そんな陳腐な読み方しか出来ない私だが、堀孝彦著の「英学と堀達之助」には、劇的な時代背景の下で作意なく浮かびあがってくる物語性に感動させられるのと同時に、相当の時間を費やしたであろう膨大な資料収集と内外に跨る資料の綿密な比較分析に圧倒される。恐らくは、堀達之助の四代目の子孫に当たる著者ならではの、血の情熱の成さしめた業であろう。
 本書によれば、達之助の通詞としての本格的な活躍は、ペリー艦隊の来航に先立つこと7年、弘化3年の閏5月に、浦賀に来航して開国を迫ったペリーの前任者(ビッドル海軍代将)との応接から始まっていく。
 そしてハイライトは、なんといっても嘉永6年のペリー初来航時に首席通詞として旗艦サスケハナ号に乗り込んでいく達之助の雄姿だろう。この時、達之助が発した第一声、"I can speak Dutch" (私はオランダ語を話すことが出来ます。)のひと言は、ホークスの「ペリー艦隊日本遠征記」にも記述されている。
 公式の外交の場で日本人が外国人と交わした、これが最初の英語であったことを思えば、達之助のひと言は、鎖国の扉を押し開いた極めて象徴的第一声として記憶されるべき価値をもつものと言えるだろう。 唯、惜しむらくは、「私はオランダ語(Dutch)が話せる。」と言ったことである。と、ドラマ屋の私としては思ってしまうのだ。もしもここで達之助がハッタリでもいいから、「私は英語を話すことが出来ます!」(I can speak English!) と叫んでいたら、明治以降の英語の普及度からみても、堀達之助の名は日本中に轟いていただろう。テレビドラマなんかになった際のタイトルも、「アイ・キャン・スピーク・イングリッシュ」で決まりだっただろう。DutchとEnglishではあまりにも世の中へのインパクトの差がありすぎた。
 もとより本書は、評伝の類ではない。あくまでも堀達之助関係の第一次史料の解読と客観的な史料分析に基づく研究書である。にもかかわらず私などは本書から、はなはだ人間的な教訓を得てしまう。即ち、人間いくら優れた素質や他人のもたない才能に恵まれたとしても、人生の幸福とは結びつかない、というようなことをである。
 本書によれば達之助は、難しい対外交渉の激務の最中、のちに「リュードルフ事件」と呼ばれる不可解な揉め事に巻き込まれて伝馬町獄舎に拘禁されてしまう。安政2年のことだ。獄中生活は4年2ヶ月にも及んだ。ここで事件の内容を解説する余裕はないが著者の追求をもってしても尚、真相は藪の中である。あるいは、しばしば優秀な官吏がそうするように、達之助にも「地獄まで持って行く」と決めた真実があったのかもしれない。
 政治の変革に犠牲者はつきものだが、その多くは当の改革者でも守旧派でもなく、双方の板挟みになる誠実で有能な官吏たちだという点は今も昔もかわらない。そんなことまで考えさせてくれる労作である。

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