『モースのスケッチブック』への期待
エドワード・S・モースが日本近海の腕足類(シャミセンガイ)調査のため横浜港に着いたのは1877(明治10)年6月18日のこと。3日後の6月20日横浜から新橋に向かう列車の窓から彼の目に入ったものは何か。
──大森貝塚は、東京横浜間の帝国鉄道の西側に位置し、東京から6マイル弱の距離にある。それは東京行の汽車が大森駅を発ってすぐ車窓から見える。鉄道は貝塚を縦断して走っており、線路を隔てて崖と逆側の畑には、かつて貝塚を構成していた土器破片や貝殻が散らばっている。貝塚の長さは、崖沿いに約89メートルあり、厚さは最大4メートルである。(モース『大森貝塚』)─ ─
新橋・横浜間に初めて鉄道が敷かれて5年、鉄道工事で分断されたまま放置されていた巨大貝塚の様子が手にとるように分かる。モースは文部省に働きかけ、東京大学の学生らの協力でそれからまもなく大森貝塚の発掘調査を行い、秋には早くも調査報告を「ネイチャー」誌に送っている。日本考古学の幕あけだった。発掘された土器の紋様からCord marked potteryとモースが名づけたのを、助手の白井光太郎が「縄紋土器」と訳して、この国の考古学は歩み始めた。E・S・モースの「大森貝塚」には、縄文人のあいだに食人の習慣があったというような読み違いもなくはなかったが、調査報告には科学的な態度が通底しており、「付関連史料」には発掘品の精細な図録が掲げられ、モースはつぎのような提言を加えている。
──大森貝塚は遺物がひじょうに豊富であることが判明したから、今回の最初の出版には、この貝塚から出土した土器の様々な形態・装飾を余すことなく図示するのが良いと考える。将来、他の貝塚が調査された際に比較の基礎とするためである。──
モースのこの提言が日本の考古学にしっかりと根づいたならば、調査報告書もなしに発掘だけが独り歩きして、50万年・60万年前にまで日本の考古学が誇大妄想の道を妄進するはずはなかったのではないだろうか。モースを大森貝塚の発見に導いたのがシャミセンガイへの関心からだったとはよく言われているが、新異国叢書第III輯に『モースのスケッチブック』がおさめられると知って、一日も早く手にとってみたい欲求にわたしは駆られている。
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