例えばこの「留女」という本は志賀直哉の一番最初の本で、自費出版に近い形で出しているんです。この本は祖母の名前を付けているのです。「ルメ」と読むこのタイトルの小説はありません。この本はおばあさん子であった志賀直哉が、祖母に捧げるという形で私的な思いを本に託したのでしょう。
■大衆に読んでもらうための出版はしていませんね。ところでこの本も少し表紙が変わっていますね。
「留女」は洋服の芯で作ってあるんですよ。ですから見栄えはあまりぱっとしないんですが、丈夫に作ってある。いつまでも本の形が崩れないですよ。
■とてもおばあさん子だったという話ですが、一番最初の本におばあさんの名をつけるとはちょっと変わってますね。
おばあさん子の背景にはいろいろ事情があるんです。志賀には兄がいて、それが2歳にならずに死んでしまい、嫁に子育ては任せておけない、と祖母がとりあげるような形で直哉を育てたんですよね。のちに「母の死と新しい母」、「白い線」という作品になっていますが、お嫁さんの立場にたつと辛いですよね。実母は彼が13のとき亡くなって、義母と父との間に子供がたくさん出来て・・・でも複雑な家族構成であることが、作家には必要なことのひとつであるかも知れませんね。
■幼少のころから自分の一番身近な人間関係が複雑な状況にあることで、人間についての思考が深くなることはわかりますね。でもこの本を志賀直哉が手に取った時、随分とお喜びになられたのではないですか。
ええ。昭和38年から40年頃でしたかね、志賀さんは80歳になっておられたころですよ。喜んでその場で太いペンで署名をした後、判も押してくださった。最初は署名してもらえるかどうかさえ不安だったです。かばんの中にしのばせておいて、話している間にタイミングを計って・・・。だから志賀さんの署名本を見ると当時の志賀さんとの情景や表情が目に浮かぶんですよ。