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ほんの世界はへんな世界 第一回 |
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TAKAMIIYA'S ESSAYS ON THE BOOK (I)
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英国の古書収集家には昔から変人奇人の類が多いが、ウィリアム・ヘンリー・ミラーWilliam Henry Miller(1789-1848)はその中でも際立っていた。エディンバラの裕福な養樹園主(わが国でいえば庭師)の一人息子として生まれたミラーは、父の死後エディンバラのクレイジェンティニーの家督を相続した。31歳のときニューカスル・アンダー・ライム選出の国会議員となり、10数年間に亘ってウェリントンやピール宰相を支持した。1832年の選挙法改正に反対、非国教徒の大学入学や海軍における鞭打ち禁止にも反対するなど、筋金入りの保守派だった。 バッキンガムシャのブリットウェル・コートに住んだミラーは、17歳ごろから古書収集熱にかぶれて、古書競売で大金を投じた。19世紀初めからイギリス中の貴族や資本家を巻き込んだ愛書熱も少し薄れ、ライバルたちが次々と世を去ってその蔵書が売りに出る機会に、積極的に買いに出た。彼の蔵書は古いイングランドやスコットランドの文学や歴史に強く、同時に社会史、科学、音楽、旅行、そしてアメリカ関係書でも秀でていた。ただし、チューダー朝やスチュアート朝の劇作品については、あまりにも高価だったため、晩年になるまで手を出さなかった。おそらくミラーが最も狙っていたのは、トマス・グレンヴィルの蔵書だっただろうが、1846年大英博物館に収蔵されてしまった。 1834年から4年間続いた大収集家リチャード・ヒーバー蔵書の売りたてでは、ミラーが席巻した。彼の元にあったヒーバー蔵書販売目録には、関心ある古書については縦横のサイズが詳しく手書きで書き込まれていた。古書は製本の際に天地を裁断される可能性があるので、同一本でも製本状態によってかなりサイズが異なるからである。 このころミラーの姿はほぼ毎日、古書店で見かけることができた。必ず30cmほどの長さの物差しを携帯し、関心ある古書があればこれでサイズを計測してメモするのが常であった。この逸話から、彼は「物差しミラー」(Measure Miller)と仇名されるようになった。
こんな話はどこでも転がっていそうだが、ミラーは容貌もいささか怪奇だったようだ。知り合いだったダニエル・ウィルソン教授は「彼はひどく細身で、声も甲高く、あごひげなどまったくない」と観察している。ヴィクトリア朝に入ると、イギリス紳士なら長いあごひげを蓄えない者などいなかった時代だったから、ミラーの姿はさぞ奇矯に映ったことだろう。その結果、ミラーを本当は女性ではないかと疑う者も現出したほどだった。 生涯未婚で通したミラーは、エディンバラのクレイジェンティニーの館で死んだ。どんな秘密も明かされぬように、ミラーは遺体を館の庭の隅の12メートル掘った場所に埋葬し、その上にローマ風の廟を建てるようにとの遺言を残していた。これは現在でも残っており、周りは1930年代に建てられた平屋の家で囲まれている。この奇妙な風景はインターネットでも見ることができる。 さて、ミラーが構築した素晴らしい一大蔵書は、彼の死後どうなっただろうか。ここで説が分かれる。インターネットで入手可能なスコットランド地誌によると、ミラーはケンブリッジで教育を受けたために、母校のコレッジに遺贈しようとしたが、彼が示した複雑な条件のゆえに拒否されたという。ありそうな話だ。ところが『英国人名事典』(DNB)第2版に寄稿した書誌学者ジャネット・イング・フリーマン氏は、ミラーは自宅で家庭教師による教育を受けたため母校などないこと、彼の蔵書はエディンバラの弁護士協会図書館に残されることになっていたと、解説している。もちろん情報の信頼性は後者にあるだろうが、確認を要する問題だ。
その後、彼の子孫は1917年から10年間に亘って、代々拡大してきた蔵書の売り立てを行った。競売の前にアメリカ関係の蔵書は、カリフォルニアの鉄道王ヘンリー・E・ハンティントンに買い取られた。 クリスティ・ミラー蔵書から出た古書は、多くの場合見返しに独特の書き込みをもち、また製本に見られる紋章からも判断できる。最初の持ち主が生存中は誰にも見せなかったこの蔵書も、いまや世界中の図書館に散逸した形で、閲覧が可能になっている。『イングランドの書物・写本収集家(1530-1930)と彼らの所有の印』(1930)を著した書誌学者セイマー・ド・リッチは、この蔵書を「個人が収集した最大の英語文献の蔵書であり、多くの点で大英博物館の蔵書を凌駕していた」とまで断言している。 (高宮利行 慶應義塾大学教授) |
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