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本の世界は変な世界
高宮利行氏について

慶應義塾大学文学部高宮利行教授(イギリス好古家協会フェロー(FSA)、シェフィールド大学名誉博士)は、古書体学、書物史、中世イギリス文学、アーサー王文学の領域で多くの業績がある、国際的に知られた学者であり、日本中世英語英文学会会長、新チョーサー学会理事、国際アーサー王学会日本支部長、POETICA編集委員長などを歴任してきました。日本での西洋稀覯書研究において第一人者である高宮教授に隔月で古書に関するちょっと変わったお話をしていただきます。

ほんの世界はへんな世界 第二十一回
TAKAMIIYA'S ESSAYS ON THE BOOK (No.21)
―希書の名にふさわしい英語のインキュナビュラ―
中世後期のベストセラー―ジョン・マーク著『祝祭日の書』

 2008年6月初め、ロンドンはクリスティーズの古書競売に、珍しいインキュナビュラ(15世紀ヨーロッパの初期印刷本)が出た。フランスの都市ルーアンで、印刷業者マルタン・モランが書籍業者ジャン・リシャールのために1499年6月22日に印刷出版した、ジョン・マーク著『祝祭日の書と4つの説教』である。優れた印刷技術を持つモランは、1492‐1517年に多くのミサ典礼書をイギリスの市場に向けて印刷した。リシャールも1496年以降はモランと組んでイギリス市場を狙った。但し、そのほとんどはラテン語の書物だった。

 珍しいといったのは、イギリス人が英語で書いた書物が、イギリスではなくわざわざフランスの都市で出版されていることだ。本書の初版は1483年にウィリアム・キャクストンが上梓しており、それ以後1501年までに14版を重ね、1532年までにさらに10版が印刷された。当然のことながら、宗教革命以降はない。いわば中世後期イギリスのベストセラーのひとつだったことは疑いない。あまりの売れ行きにフランスの業者が目をつけて、印刷させてイギリスに持ち込んだのであろう。1499年といえば、リチャード・ピンソン、ウィンキン・ド・ウォード、ジュリアン・ノータリーがロンドンを中心に踵を接して本書を出版しているのである。なぜそんなに人気が出たのだろうか。

 著者ジョン・マークは、シュロプシャーのリルシャル出身のアウグスティヌス派の僧侶で、15世紀初めに活躍した。いくつか説教集を残しているが、最も有名なのはこの『祝祭日の書』である。といっても現代では読者はほとんどいない。本書は、キリスト教の祝祭日に教会で説教をしなければならない教区司祭が、直接原典に当たらなくとも、ラテン語を知らない一般信徒に説教ができるように編集された一種のマニュアルである。祝祭日にそのまま使える説教散文と例え話、聖書からの抜粋が付いているから、利便性から愛用されたのであろう。マークは、説教の中で突然ロビン・フッドの名前を持ち出すなど、信徒を喜ばせる術を心得ていたようだ。

 英語のインキュナビュラは市場に中々現れないし、キャクストンのみならず、彼の弟子だったウィンキン・ド・ウォードら後継者の印刷本でも極めて高価である。それに比べて1499年出版の現本の見積価格は驚くほど低かった。競売でぜひ獲得したい、と思ったのだが、雑事にかまけて、気付いた時にはこの競売は終了していたのである。切歯扼腕とはこのことだ。

スウォンジー大学
スウォンジー大学
 ところが7月半ばに学会出張のためロンドンに到着したその夕方、バーナード・クォリッチ書店を訪れて雑談やら情報交換をしていると、帰りしなに重役が「これはあなたにぴったりだと思うけど」といって持ち出してきたのが、なんと本書だった。もちろん値段は予想よりいささか高くなっていた。しかも、STC(『初期英国刊本簡略標題目録』)には、17966番として現存する本書を収蔵している5つの図書館のひとつに、スウォンジー大学図書館(しかも完本!)が挙がっている。スウォンジー大学は、たまたま翌日から新チョーサー学会のために出かける場所である。これも何かの奇縁だ、と思った。

 翌日、ロンドンのパディントン駅から急行で3時間、スウォンジー駅に到着したのは午後6時前だった。ありがたいことに、学会の主催者ヘレン・フルトン教授と夫君ジェライント・エヴァンズ博士が迎えに来てくれた。そこで、図書館所蔵の1499年版『祝祭日の書』の話をすると、翌朝連れて行ってくれるとの親切な申し出をいただいた。ところが、ウェールズ大学のコレッジから最近スウォンジー大学として独立した図書館には、インキュナビュラは僅か4点しか所蔵されておらず、この1499年版『祝祭日の書』は含まれていない。貴重書担当者も首を傾げながら、色々調査してくれたが、結局出てこなかった。目録に掲載されながら現物がないことはたまにある。書誌学ではこの種の本をゴースト(幽霊)と呼んでいるが、STC改訂版の正誤表にも現本は出てこない。スウォンジー大学本がゴーストだとすると、クォリッチが購入した本は世界で5部しか現存しない希書ということになる。

 今回新たに現出した本は、祈祷書専門家のダニエル・ロック(1799−1871)旧蔵本として、長くサザーク・ローマ・カトリック・メトロポリタン司教座図書館に収蔵されていた。本文途中の欄外には「カンタベリーの法廷で、二人とも鈎に吊るして縛り首にしてやるぞ」という意味の呪いの言葉が、16世紀初めの英語で書き込まれている。

 中世の書物には、所蔵者が自分の名前と同時に「これを盗む者あらば縛り首にしてやるぞ」なる内容を呪いとして書き込む例は多い。マーク・ドロージンはこれらを集めて出版しているほどだ(Marc Drogin, Anathema!: Medieval Scribes and the History of Book Curses, 1983)。このテーマについては拙著『西洋書物学事始め』(青土社:1993)で扱ったことがあるが、写本には多く見られるが、印刷本には少ない。

 2段組の英語散文で小型4折版として印刷された現本は、ルーアンの印刷所で英語を理解するフランス人の植字工が組んだのだろうか。あるいはそこにはイギリスからやってきた植字工がいたのだろうか。本書を調べていると、こういった興味ある疑問が次々と沸いてくる。書物史では未知の主題であろう。

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