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本の世界は変な世界
高宮利行氏について

慶應義塾大学文学部高宮利行教授(イギリス好古家協会フェロー(FSA)、シェフィールド大学名誉博士)は、古書体学、書物史、中世イギリス文学、アーサー王文学の領域で多くの業績がある、国際的に知られた学者であり、日本中世英語英文学会会長、新チョーサー学会理事、国際アーサー王学会日本支部長、POETICA編集委員長などを歴任してきました。日本での西洋稀覯書研究において第一人者である高宮教授に隔月で古書に関するちょっと変わったお話をしていただきます。

ほんの世界はへんな世界 第二十二回
TAKAMIIYA'S ESSAYS ON THE BOOK (No.22)
―クォリッチ書店のやり手経営者―
マイロ・パーモア卿死す

 Lord Milo Parmoorが8月12日にガンで亡くなった。古書通の日本人でもこの人物について知っている人はさほど多くないかもしれない。長い間ロンドンのバーナード・クォリッチ書店(http://www.quaritch.com/)の経営に携わっていた。その称号から分かるように世襲貴族の一番下に当たる准男爵だった。

 20世紀後半の古書流通の世界は、日本の経済バブルの膨張などもあって、一時的に隆盛を誇ったが、決して紆余曲折がなかったわけではない。美術品と異なり古書となると、顧客の数も限られ、図書館の収書方針にも左右されるからだ。ドイツからやってきたクォリッチがロンドンに古書店を始めたのが1847年、その後発展を遂げて19世紀古書業界の帝王と呼ばれた。彼の死後もドリング父子のような優れた幹部の助けを得て、創設者の子孫が古書店の経営に当たってきたが、1971年に経営権をジョスリン・ベインズに譲った。ベインズは、中世研究者にはなつかしいトマス・ネルソン出版社を経営していたが、先行きに不安を感じ、クォリッチ社の経営権を獲得したのである。丁度このとき、グラフトン街に借りていた店のリースが満期となり、現在のゴールデン・スクウェアに本拠を移した。

 1971年秋に東京で国際古書展が開催されたおり、クォリッチ社からはベインズもやってきたので、まだ大学院生だった私は紹介してもらった。日本の古書業界も近代化に向かう時期だったのである。そしてその後に届いた古書目録からボエチウスの『哲学の慰め』の初期印刷本を選んで、ベインズに手紙を書いた。ところが一ヵ月後に届いた返書はベインズからではなく、今も重役として活躍するニコラス・プール=ウィルソンからであった。返事によると、ベインズは日本から帰国して2日後に48歳の若さで急逝したという。当時でも往復に10日はかからない航空便書簡がこれだけ遅れた点に、書店内の混乱が読み取れた。

 ベインズの跡を継いで同社の経営者となったのが、ウォーバーグ投資銀行にいた第4代パーモア卿フレデリック・アルフレッド・マイロ・クリップス(1929−2008)であった。同時に友人でスーパーマーケットを経営するサイモン・セインズベリーも経営陣に入った。皆が親しげにマイロと呼ぶパーモア卿は、母親の影響でカソリックのパブリック・スクールで教育を受け、16歳でオクスフォード大学に進む奨学金を獲得した。しかし、時期早尚と考えたマイロはパリに赴いて、フランス語とロシア語を習得した。ドイツ語も堪能だったので、第2次大戦後彼はベルリンで通訳として活躍した。

Parmoor: sold the manuscript of Turgenev's 'Fathers and Sons' to the Soviets
 一時アルコール依存症に陥ったマイロは、オクスフォード大学を中退し、富裕な家族状況を背景にさまざな事業に取り組んだが、ウォーバーグ投資銀行で大いに経営手腕を買われた。クォリッチ古書店の取締役社長、次いで経営者となったが、マイロは古書にさほど関心があるわけではなかった。しかし、競売で大物を落札する豪胆さは夙に名高い。

 1977年、彼はアメリカの古書の大コレクター、ウォルター・プフォルツハイマー所有のグーテンベルク聖書を買い上げて、テキサス大学に納めた。その後彼の初期英文学の一大コレクションも同じ運命を辿った。1983年には、ドイツにとって至宝といえる豪華な中世装飾写本ヘンリクス獅子王の福音書がサザビーで競売に付されたとき、マイロはドイツ銀行幹部らとコンソーシアムを結成して、最終的にドイツが獲得した。

 1988年にツルゲーネフの『父と息子』の自筆原稿を購入したマイロは、ソヴィエト文化財団の理事長だったゴルバチョフ夫人に直接手紙を書いたという。現在これはペテルブルクのプーシキン邸に収蔵されている。

 マイロはイギリス貴族の多くがするように、ロンドンに小粋なフラット、そしてコッツォルズに大邸宅を持っていた。ウィルトシャーのサットン・ヴェニー村のマナー・ハウスは、修道院打ちこわしで廃墟となった建物に手を加えたもので、一時はそこに住んでいた画家のウィリアム・ニコルソンによる装飾が施してあった。私は一度その舘に一泊させてもらったことがある。独身貴族のマイロは、私たち3名のディナーをすべて一人で準備してくれた。メイン料理は、庭を流れる川で獲れた鱒を茹で上げて、薄く味付けしたイギリス風のものだった。

 クォリッチ書店を訪れるたびに、マイロとは短い会話をするのが常だった。彼は部下を信頼し、社員は彼を尊敬していた。ガンに侵されて余命いくばくもないことが分かると、マイロはご贔屓のロンドン市内の中華料理店で、友人たちを2度に分けて招待し、宴会をしたという。亡くなった後のお別れ会より、亡くなる前の会の方がよいという、現実主義者だった。合掌。

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