慶應義塾大学名誉教授、イギリス好古家協会フェロー(FSA)、シェフィールド大学名誉博士。古書体学、書物史、中世イギリス文学、アーサー王文学の領域で多くの業績がある、国際的に知られた学者であり、日本中世英語英文学会会長、新チョーサー学会理事、国際アーサー王学会日本支部長、POETICA編集委員長などを歴任。日本での西洋稀覯書研究において第一人者である高宮教授に隔月で古書に関するちょっと変わったお話をしていただきます。
雄松堂出版刊「高宮利行教授還暦記念論文集」
この連載に取り組んで以来洋古書ばかりを取り上げてきたので、今回は初めて西洋と関係のある和書を取り上げてみたい。 2年前だったか、日本英文学会で「中世と中世主義を超えて」という特別講演を行った。三田綱町にある慶應義塾大学で開催されたので、そこで生まれ育ったとされる渡邊の綱とベーオウルフの類似性を1901年に発表したのが英国人であり、また1996年に『ベーオウルフ』の挿絵に浮世絵を用いたのが米国人だったという話をして、こういった分野は日本人がやるべきではないかと提案する内容だった。講演の要旨は後に『英語青年』2007年8月号に掲載された。 英文学史の冒頭で誰でも学ぶアングロ・サクソンの叙事詩の内容に、江戸の大衆美術、浮世絵がぴったりだというのは、なかなか思いつかないだろう。私はこれを知ってから、他に西洋の文学作品にわが国で挿絵を描いた芸術家はいなかったのかと探してみると、セルバンテスの傑作『ドン・キホーテ』(1605-15)を、スペインから日本の侍の時代に設定を替えて挿絵を描いた、の『絵本どんきほうて』(1937)があることを知った。
(1895-1984)はわが国を代表する染色工芸家で、型染めの人間国宝、そして文化功労者でもあった。芹沢の代表作の一つともなった『絵本どんきほうて』誕生の裏には、柳宗悦、寿岳文章、河井寛次郎といった戦前戦後のわが国でウィリアム・モリスのアート・アンド・クラフト運動を継承する民芸運動の人々が絡んでいた。「『絵本どんきほうて』のころ」(『寿岳文章書物論集成』1989所収)によれば、次のような展開である。 柳宗悦は、ハーバードの東洋美術史家ラングドン・ウォーナー教授の懇請を受けて、同大学のフォッグ美術館で1929年秋から一年間に亘って仏教美術を講じた。柳はそこの理事を務めていたカール・ティルデン・ケラーなる実業家に依頼されて、若き寿岳文章に手紙を書く。ケラーが世界中の『ドン・キホーテ』に関する文献資料を蒐集しているので、わが国で出版されているものを探して送ってほしい、という内容だった。それ以来大小さまざまな資料を提供する寿岳と、それを受け取るケラーの間には熱い友情が第2次大戦を超えて長く続き、数百通の書簡が残っている。そしてハーバード大学ホートン図書館には、寿岳および柳のケラー宛英文書簡集が整理されている。なお、フォッグ美術館にはケラーの『ドン・キホーテ』蔵書が収蔵されている。
次々に日本から送られてくる『ドン・キホーテ』の資料に、ケラーは感謝しつつも、その中に日本人画家による一枚の挿絵すら含まれていないことを残念に思った。日本美術や工芸の逸品を知っていたケラーは、寿岳に次のような依頼をしてきたのである。「私は日本人のすぐれた芸術性に絶対の信頼を置いている。日本人にして初めて可能な、ドン・キホーテのイメージがあるはずだ。どんなに高く費用がかかっても私はいとわぬ。君が最適と思う画家に依頼して、真にすぐれた日本の芸術伝統にふさわしいドン・キホーテを描いてはくれぬか。」 依頼を受けて寿岳、柳、河井の三人は相談の結果、に白羽の矢を立てた。承諾した芹沢の仕事は、島村抱月らによる『ドン・キホーテ』の難解な翻訳を読解することから始まった。その後染色工芸家は大変な苦労の日々と費やすこととなる。
B5判 上製 454頁 2008年12月刊行 ISBN 978-4-8419-0490-1 定価10,500円(本体10,000円+税5%)
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