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雄松堂>ほんの世界はへんな世界 第3回

本の世界は変な世界
高宮利行氏について

慶應義塾大学文学部高宮利行教授(イギリス好古家協会フェロー(FSA)、シェフィールド大学名誉博士)は、古書体学、書物史、中世イギリス文学、アーサー王文学の領域で多くの業績がある、国際的に知られた学者であり、日本中世英語英文学会会長、新チョーサー学会理事、国際アーサー王学会日本支部長、POETICA編集委員長などを歴任してきました。現在、本に関する情報サイト『本のある時間』編集長。日本での西洋稀覯書研究において第一人者である高宮教授に隔月で古書に関するちょっと変わったお話をしていただきます。

ほんの世界はへんな世界 第三回
TAKAMIIYA ESSAY ON BOOK (III)
『トールキンのガウン』は本のゴシップ集?
『ロリータ』出版50周年


 昨年の8月、ロンドンの大英図書館を訪れたおり、必ず立ち寄る図書館内の書店で『トールキンのガウン』を手に取った。無論題名に引かれてのことだ。著者はリック・ゲコスキーというアメリカ人、オクスフォード出身の元大学教員、現在は古書店主としてかなり高価な初版本を取り扱っているようだ。この人物が20世紀の文学史を彩る著名な作家と、彼らが生み出した初版本についてのエピソードを、BBCのラジオ4局で朗読したテキストを集めたのが本書である。

早速買い求めたのはいうまでもない。ホテルと帰りの機内で一気に読了した。ジャンルとしては20世紀英文学外史でもあり、丸谷才一氏は「本のゴシップ集」と呼んでいる。本の世界のことを少しは知っているはずの私でも衝撃を受けたので、きっと知らない人なら腰を抜かすだろうと考え、翻訳を試みることにした。現在、正月休みもおとそ返上で格闘中である。

 冒頭の『ロリータ』に関するエピソードからして凄い。ロシアから亡命してアメリカの大学で教鞭をとっていたウラディミール・ナボコフが、1955年にパリで出版した本書は4年後にイギリスでも出版された。世界中に衝撃を与え、ロリータ・コンプレックスという言葉を生んだ小説である。すでに2度映画化された。1988年の古書目録に、ゲコスキーは1959年のイギリス初版で著者から従兄弟夫婦に献呈した本を掲載し、3,250ポンドの値を付けた。1ポンド200円と換算して、日本円で約65万円である。ゲコスキーは小説家で古書収集家のグレアム・グリーンにも目録を送っていたせいか、しばらくすると次のような短い手紙が来た。

拝啓 ゲコスキーさま
 本物の初版でもない大兄の『ロリータ』が3,250ポンドの価値があるというのなら、私宛に献辞のあるオリジナルのパリ版はいかほどでしょうか。

敬具 グレアム・グリーン

Vladimirovich Nabokov
ナボコフ
グリーンが著者から贈られたのはパリ版の初版である。当時英語のポルノもどきの小説を出版していたモーリス・ジロディアスが、1955年に小部数で出版したものである。この照会に心を動かされたゲコスキーは「親愛なるグリーンさま、もっと高いですよ。手放されますか」という短信を出し、しばらくして、ロンドンのリッツ・ホテルで面会、二人はウォッカを飲み交わした。グリーンが持参したパリ版には「グレアム・グリーンへ、ウラディミール・ナボコフより、1959年11月8日」の言葉に続いて、大きな緑の蝶の絵が描かれていた。それは、蝶類収集家としてのナボコフのイコンだった。

出版年に献呈されていたらもっと市場価値が上がったはずの現本だが、ゲコスキーは4,000ポンドで買い取った。ところが、翌朝ゲコスキーのマンションにやってきたのは、エルトン・ジョンの作詞家バーニー・トービンとその夫人だった。ちょうどクリスマス・シーズンで、夫人は夫のために何か古書を探しに来たのである。二日酔いで頭が回らぬゲコスキーは、本書を9,000ポンドで売った。一夜にして2倍以上の価格に跳ね上がったわけだが、ゲコスキーは後にこれを後悔した。この本は、1992年に邦貨2600万円、2002年には何と3億円という驚天動地の値で取引されたのである。

Graham Greene
グレアム・グリーン
なぜこんなことが起きるのか。何の変哲もない緑色の2巻本であるが、すべての価値は著者が小説家グリーンに贈ったという点に凝縮されている。これは英語で「アソシエーション・コピー」というジャンルに属する。『ロリータ』を持ち込まれたアメリカの出版社5社が出版を拒否し、最終的にパリの胡散臭い出版人が出したわけだが、その直後、1955年のタイムズ日曜版のクリスマス特集号で、グリーンは『ロリータ』を同年出版のベスト小説3点のひとつに選んだのである。それまで隠れた存在だったこの小説が、にわかに英国の一般読者の知るところとなった。

 しかも、サンデー・エクスプレスの編集長はこの小説をこき下ろしたので、その後の論争の結果、本書は誰でも読みたい小説になったのである。多額の印税のおかげで、ナボコフは大学の教授職を辞し、後は執筆と蝶の採集に専念することができた。

ゲコスキーは『トールキンのガウン』の中で、『ロリータ』に始まって、トールキンの『ホビット』、ゴールディングの『蝿の王』、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、ケルアックの『路上』、ジョイスの『ユリシーズ』、ロレンスの『息子と恋人』などなど、J.K.ローリングの『ハリー・ポッター』に至るまで、20の作品を取り上げて、作品の誕生秘話と現在における初版のアソシエーション・コピーの相場を楽しそうに語ってくれる。しかもゲコスキー自身がそれに拘っている場合も1,2例にとどまらない。

 今年は『ロリータ』の出版50周年ということで、若島正氏の新訳が新潮社から出た。これだって20日後には2刷が世に出るほどの人気である。

(高宮利行 慶應義塾大学教授)

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