|
||||||||||||||||||||||
ほんの世界はへんな世界 第九回 |
|
TAKAMIIYA'S ESSAYS ON THE BOOK (IX)
|
古書盗難の波紋
|
「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」とは、浄瑠璃や歌舞伎で名を知られた大泥棒の石川五右衛門が、京都は三条河原で釜茹での刑にあったときの辞世の歌として有名である。もちろん本人が実際に残したとは信じられないが、内容はことの本質を突いているから、よく引用される。 書物を盗んで、高く売ろうとする者も尽きない。古書が高価になった現代では、盗品としての書物の情報を、盗まれた書店や図書館が内輪で共有し、あまり公にしないものの、被害は甚大らしい。しかもオクスフォードやケンブリッジのように、大学やコレッジ、それに学部など百以上の図書館が存在し、稀覯書が収蔵されているとなるとなおさらだ。しかも盗人が学識高い学者となると、さらに始末が悪い。ここではそんなケースをふたつ紹介しよう。19世紀半ばと20世紀末の話である。しかも後者は日英の文化摩擦にまで発展しかねない状況になっている。
|
後年ハリウェルはあの桁外れの写本収集家トマス・フィリップスの娘と結婚し、ハリウェル=フィリップス姓を名乗ることを要請した。この事件のことを念頭に置いたフィリップスは、死ぬまでこれを許さなかった。当然のことながら、彼の遺書にはハリウェルへの遺産相続を禁じた一行があった。
|
さて時代は20世紀末に変わり、舞台もケンブリッジからオクスフォードに移る。主人公は1990年に博士号を取得したばかりの若き音楽学者サイモン・ヒーズである。オクスフォードの二つのコレッジに所属し、大学講師としてバロック音楽を講じていたヒーズは、セキュリティの甘いクライストチャーチの図書館に入り浸り、一度に一冊ずつ小ぶりの稀覯書を盗んでは、売り飛ばした。驚くなかれ、その総数74冊、ハリウェルの場合と同じく、自分の専門分野の音楽史ではない、ミルトンの『失楽園』やダーウィンの『種の起源』の初版など、値のはるものばかりを狙った。1995年に図書館が蔵書の盗難を警察に届けるとまもなく、ヒーズは逮捕された。オクスフォード市内のブラックウェル書店の古書部にニュートンが万有引力の法則を扱った『プリンキピア』初版を、64,000ポンド(邦貨約14,000万円)で売った際に、ヒーズは自分の名前を残していたからだ。窃盗罪を認めた彼は160,000ポンド(約35,000万円)の罰金と2年間の刑を宣告された。既に出所したヒーズは、音楽評論家として生計を立てている。 ヒーズが内外の図書館や収集家に売り飛ばした73点は、まもなくクライストチャーチに戻ったが、1点だけがまだ海外にある。卒業生の第4代オレリー伯チャールズ・ボイルが1733年にコレッジに寄贈した『人体構造論』の袖珍判第2版(1552)だ。近代解剖学の生みの親アンドレアス・ヴェサリウスによる本書(『ファブリカ』と称される)は、精緻な図版から収集家垂涎の的だが、この16折判の2巻本はパリのジャン・トゥルネが出版した海賊版で、図版も少なく学問的な価値も少ないが、現存部数12部という稀覯書ではある。最近では、2001年にニューヨークのサザビーズで開かれたフランク・ノーマン蔵書の競売で、85,000ドル(約950万円)で落札されている。 ヒーズが盗み出したクライストチャーチ所蔵の『ファブリカ』は、1994年12月2日ロンドンのサザビーズで競売され、ニューヨークの古書業者が7,000ポンド(154万円)で落札した。その半年後、サザビーズはこの業者に件の『ファブリカ』はクライストチャーチに盗品として返却すべし、落札代金はサザビーズが返金すると申し出た。業者がこれを無視したため、クライストチャーチは4年後アメリカ古書業者連盟に訴えた。ようやく業者はこれを東京の古書業者に売却したことを明らかにした。東京の業者が某私立大学に売った本書は、その大学の博物館に『ファブリカ』の他の版とともに展示されているという。 クライストチャーチからの返却要請に対して、この私立大学は「盗品だと知らずに購入した物件は、それが明らかになって2年を経過していれば、返却の必要なし」というわが国の法律をたてにとって、現在に至るも返却していない。この問題は2003年9月に日本の新聞紙上をにぎわせたので、お読みになった方もあろう。私も読んだ。しかし、その後何のフォローもなかったので、一件落着だと思っていたところ、私が所属する初期書物学会からつい最近送られて来たニューズレターに掲載されていたので、正直驚いたほどである。あわててインターネットで検索すると、この問題は解決するどころか、より拡大していることが判明した。 クライストチャーチ側は、日本の私立大学が盗品と知らずに『ファブリカ』を購入し、確かに日本の法律によれば返却の必要なしとする点に理解を示しながら、「これは法律ではなく、あくまでモラルの問題だ」として、強く返却を求めており、解決が長引けば、日英の文化摩擦がひどくなることを警告している。クライストチャーチはイギリスの主要な貴重書図書館の関係者の支持を取り付け、まるで聖地奪還に赴く十字軍のような悲壮な決意でこの問題と対峙している印象を受ける。クライストチャーチといえば、『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルがいたコレッジである。不思議の国に迷い込んだ『ファブリカ』はどういう気持ちでいるのだろう。 今回の事件以降、クライストチャーチは図書館蔵書の再点検と目録作りに追われている。蔵書閲覧も監視つきとなった。こういった制約で迷惑するのは善良な研究者である。わたしがケンブリッジに留学していた1970年代後半、トリニティ・コレッジに留学してきたアラブ系の大学院生が、レン図書館所蔵の美しいイスラム写本の装飾ページを長く伸ばした爪で切り取り、大陸に売るという窃盗事件があった。犯人逮捕の後、その図書館の閲覧は一度に4名と限定されてしまった。閲覧させる前に図書館スタッフが古書のページ数を数え、閲覧後もう一度確認するという決まりが出来たからである。「世に尽きぬ」盗人のおかげで、図書館員も閲覧者もいい迷惑だ。 |
||||||||||||||||