チョーサー『カンタベリー物語』(キャクストン版・1476年頃)


1998年7月8日の“『カンタベリー物語』初版本10億8千万円で落札”というニュースは研究者、愛書家を驚かせた。それもそのはず、この落札価格は一冊の書物では世界最高の値段であるからだ。もう一つ驚かされたのはこれを報道した「ロンドン・タイムズ」紙の7月9日付けの記事“Chaucer fetches £4.6m”に使われた写真である。この写真の説明にキャクストン版『カンタベリー物語』のバースの女房の話の初めの部分とあるが、実はこの写真の書物はキャクストンが1481年に活字印刷した『ミラー・オブ・ワールド』The Myrrour of the Worlde でイギリス最初の科学書である。これも大変高価な本であることには変わりがないが、なぜ伝統あるタイムズ紙が写真を誤って使ったのか、世界一の値段に皮肉をこめてなのか謎が残る。

このイギリス文学の傑作は、ロンドンのクリスティーズで競売にかけられ、最初30万ポンドから始まり、3人の入札者よりまたたくまに最高値段462万ポンド(約10億8千万)でマグズ・ブラザーズにより落札された。それまでの最高値は1987年のニューヨークのクリスティーズで丸善が落札したグーテンベルク四十二行聖書』で、490万ドル(約330万ポンド、7億8千万円 現在は慶應義塾大学所蔵。)であったが、この記録はキャクストン版『カンタベリー物語』にあっさり更新されて、サー・ポウル・ゲティに所蔵者が移った。旧蔵者はウェントワース(ロッキンガム)であった。

本書『カンタベリー物語』はウィリアム・キャクストン(1422年頃〜1491年)がウェストミンスター寺院の印刷工房で1476〜1477年に活字を作り印刷した、イギリス最初の活字印刷本で、完全本を所蔵している所は英国図書館とオックスフォードのマートン・カレッジのみである。他の所蔵本8冊は欠落頁が4葉から20葉近くあり、本書も374葉の内370葉(初めの2葉と末尾の2葉が欠)から成るが、ほぼ完全に近いもので、第3番目の本として注目される。大きさは280×195mmである。製本は赤モロッコ革の金箔押し CHAWCER FIRST EDITION / PRINTED BY W. CAXTON ABOUT 1476と背にあり、18世紀中葉の装丁である。

キャクストンはどういう動機でどの写本から「カンタベリー物語」をイギリス最初の印刷本としたのか不明であるが、各種の古典を翻訳していることから、当時のロンドンの標準語で書かれていたもっとも人気のある書物であったからだと思われる。現存する「カンタベリー物語」の写本のうちでもっとも信頼のおけるものはハンティントン図書館が所蔵するエルズミア・チョーサーといわれる写本で、17世紀以降エジャトン家が所蔵していたものである。1917年に鉄道王ヘンリー・E・ハンティントンがサザウィーから購入した。制作年代は最近の研究では、チョーサーの死後(1400年)すぐに作られたもので、本文は240葉のベラムから成り各話の冒頭には23人の巡礼の姿が描かれ、各頁には豪華な金の装飾がほどこされている。この写本はハンティントン図書館と小社の共同で1995年、印刷史上最高の技術を駆使して高精細ファクシミリ版として出版された。


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